改訂新版 世界大百科事典 「刑法理論」の意味・わかりやすい解説
刑法理論 (けいほうりろん)
刑罰や刑法の意味・根拠等に関する理論。刑罰はどのような意味で科せられるかという刑法理論の根本問題については,すでにギリシアの哲学者が二つの答えを出していた。その一は,〈罪が犯されたから〉というものであり,その二は,〈罪が犯されないようにするために〉というものであった。前者は応報刑論の原型であり,後者は目的刑論の原型である。この論争は,とくに啓蒙時代以来,近代刑法学の形成・展開過程で多くの論議を経て現在まで続けられている。旧派(古典派)と新派(近代派)との間の,いわゆる〈学派の争い〉がこれである。
前期旧派
前期旧派(前期古典派)は,18世紀末から19世紀初頭にかけて,市民社会の成立期にイタリアのベッカリーア,ドイツのP.J.A.vonフォイエルバハらによって形成・展開された。その特色は,国家刑罰の根拠と限界を社会契約説によって基礎づけることから出発して,罪刑法定主義の確立,刑法と宗教・道徳の峻別,一般予防的目的刑論,犯罪と刑罰との均衡が必要であるという意味での相対的応報刑論,客観主義の犯罪論を主張したことにあった。アンシャン・レジームの刑事法制度が,王権神授説に結びつく贖罪応報思想と絶対王政の権威を示す威嚇刑思想を基礎に,罪刑専断主義,刑法と宗教・道徳との不可分性,身分による処罰の不平等性,死刑と身体刑を中心とする刑罰の過酷さを特色としていたのに対して,前期旧派は,それを根本的に改革するために,刑事法制度を宗教と王権の権威から解放し,人間の合理的理性と功利主義的思考によって基礎づけようとしたのであった。それは,啓蒙思想の刑法理論における表現だったのである。このようにして市民社会の成立期に形成・展開された前期旧派は,個人の市民的自由の確保とそのために必要な市民社会の秩序の維持を国家の任務として,個人の自由を保障するために,国家の刑罰権力に明確な限界を設けようとする考え方を基礎にしていた。その意味で,個人主義と自由主義をその基本思想としていたのである。
後期旧派
前期旧派の刑法理論は,19世紀中ごろ以降,とくにドイツを中心にして後期旧派的な刑法理論へと変容する。そこでは,観念論哲学を基礎に形而上学的な道義的責任論と道義的応報刑論が強調されるようになった(カント,ヘーゲル)。やがて,ドイツ第二帝国(ビスマルク帝国)の成立を背景に,日本でこれまで通常〈旧派〉(古典派)と呼ばれてきた後期旧派が形成されたのである。ビンディング,ビルクマイヤーKarl von Birkmeyer(1847-1920)らがその代表者である。この後期旧派は,図式的に要約すると,(1)意思の自由を肯定する立場から(意思自由論),(2)その自由意思の外部的実現としての個々の犯罪行為とその結果を重視する(客観主義)。しかし,(3)行為の外部的結果的側面だけをみるのではなく,責任の基礎を個々の犯罪行為における悪い意思に求め(行為主義,意思責任),(4)自由意思によって犯罪行為をしたのだから,そのことを道義的に非難することができるとする(道義的責任論)。そして刑罰は,(5)このような道義的責任の認められる犯罪行為に均衡する応報として犯罪者に科せられる害悪であり(道義的応報刑論),(6)応報としての刑罰を加えることによって,社会一般人を戒めて犯罪を予防することができ(一般予防論),(7)国家的法秩序を維持することができる(法秩序維持論)と主張したのである。
この後期旧派は,犯罪と刑罰の均衡を必要とし,犯罪論を客観主義的に構成した点では,前期古典学派との共通性をもっており,そこには,官憲国家と法治国家の混合態であったドイツ第二帝国の自由主義的側面が反映していた。しかし,後期旧派が,道義的責任のある行為に対する道義的応報として刑罰を科すこと自体に意義を認め,その刑罰を科す権能をもつ国家の道義的優越性を国家の権威として示そうとしたとき,それは,前期旧派と異なって,ドイツ第二帝国の国家主義的・権威主義的側面をあらわしていたのである。
新派
これまでみてきた旧派(古典派)に対抗して形成されたのが新派(近代派)である。新派は,19世紀後半,資本主義の発達がもたらした社会変動にともなう犯罪の激増,とくに累犯の増加に対して有効な対策を立て社会を防衛しようとして生まれた。旧派の応報刑論と一般予防刑論によって犯罪に応じた刑罰を加えても,犯罪をくり返す人々が増加するという現実がある以上,犯罪対策として無力であると批判したのである。新派の特色は,当時の自然科学の発展とも関連して,実証科学的方法により犯罪とくに犯罪者を研究し,犯罪予防による社会防衛を目的とする理論と刑事政策を示したことにある。新派の源流は,イタリアのロンブローゾやフェリにある。人類学的研究に基づいて〈生来性犯罪人〉の類型が存在することを主張したロンブローゾは,新派の先駆者であった。さらに,フェリは,犯罪社会学的方法に重点をおいて犯罪の原因を人類学的原因,社会的原因,物理的原因に分け,意思の自由を前提とする後期旧派的な〈道義的責任〉を実証的に証明できない幻想にすぎないとして否定し〈社会的責任〉を主張するとともに,従来の〈責任〉と〈刑罰〉の概念を排斥して犯罪者の〈危険性〉と〈制裁〉の概念を用いた刑法草案(1921)を起草したのである。このようにして形成された新派理論を整理し体系化して展開し,新派の代表的主張者となったのは,ドイツのリストであった。リストは,犯罪の社会的原因の除去については社会政策の重要性を強調し,また刑事政策固有の課題である犯罪の個人的原因の除去に関しては,偶発犯人に対し短期自由刑の弊害を強調して執行猶予の導入,罰金刑の拡充を,改善可能な慣習犯人に対し相対的不定期刑による改善を,改善不能な慣習犯人に対しては無期または不定期の拘禁を提案したのである。
新派の主張を図式的に要約すると,(1)意思の自由を否定し,犯罪を行為者の性格と環境から生ずる必然的現象とみる立場から(意思決定論),(2)犯罪行為を反社会的性格の徴表であるとし(犯罪徴表説),(3)罰せられるべきは,自由意思の発現とされてきた〈行為〉ではなく〈行為者〉であるとした(行為者主義)。そして,(4)犯罪の成立について行為者の反社会的性格・動機などの主観的側面を重視し(主観主義,性格責任論),(5)そのような反社会的性格による社会的危険性をもつ者は,社会が自己を防衛するためにとる一定の措置を甘受しなければならない負担を負うとした(社会的責任論)。そして,(6)刑罰は行為者の反社会的性格を改善・教育するための手段であって(改善刑論,教育刑論),(7)行為者の再犯の予防を目的とするものであり(特別予防論),(8)このようにして社会を犯罪から防衛するのである(社会防衛論)と主張した。
この新派の主張する行為者主義,主観主義,性格責任論は,不明確な主観的要素によって刑法の適用を左右する可能性をもち,個人の自由,人権の保障にとって危険を含むものであった。さらに,新派の社会的責任論,社会防衛論も,社会ないし国家のそのままの現状の防衛を強調する意味をもつことになる。このようにして,新派も,国家主義的・権威主義的側面をもっていたのである。そして,マルクス主義刑法学の立場からは,新派の社会防衛論はブルジョア社会の防衛にほかならないという批判が投げられたのであった。
リストは,このような問題性を意識して,罪刑法定主義と刑法の自由保障機能を強調し,刑事政策の限界を刑法に求め,客観主義犯罪論の立場を離れなかった。その点では,自由主義的側面も存在していたのである。さらに,新派が,形而上学的自由意思を前提にした道義的応報刑論を否定して,刑罰の効果と限界を実証的,経験的,合理的に考えようと試み,刑法を犯罪予防の目的に対する手段とみて目的刑論を主張した点に注目するならば,新派の思考方法の基礎には,結論に差異はあっても(新派の特別予防論,前期旧派の一般予防論というように),前期旧派に連なるものがあったといえよう。
日本の刑法理論
日本でも,とくに1935年ころまで,主としてドイツにおける学派論争の影響のもとに,学派の争いがはげしく展開された。日本では,現行刑法が新派の影響をもかなり強く受けて成立したこともあって,新派が旧派に先行して有力に主張された点に特色があった。新派を代表したのは牧野英一であった。牧野は,目的刑論,とくに教育刑論と主観主義犯罪論を強く主張した。これに対して,旧派を代表したのは,小野清一郎と滝川幸辰(ゆきとき)であった。小野と滝川は,応報刑論と客観主義犯罪論をとった点では同様であったが,その基礎と内容には異質のものがあった。小野は,基本的に後期旧派的であり,むしろそれ以上に刑法の国家的道義性を強調した。他方,滝川は,前期旧派への強い関心のもとに,後期旧派の自由主義的側面を発展させようとした。
その後の傾向
旧派と新派の〈学派の争い〉は,1920年代以降,妥協・調和を求めて,しだいに緩和の方向を示すようになった。その理由の一つは,両学派の主張が論争の過程であまりに誇張され単純化されていた点が自覚されるようになったことにある。さらに,各国の刑事立法において,新派の刑事政策的提案のうち妥当な方向を示すもの(たとえば,短期自由刑の制限,執行猶予の採用,罰金刑の拡充など)がある程度まで認められ,立法的に両学派の間に妥協が成立していったことが,第2の理由であった。刑罰と保安処分との関係についても,後期旧派的な〈責任〉に対しては〈刑罰〉を,新派的な〈行為者の危険性〉に対しては〈保安処分〉をという形で,刑罰と保安処分とを両者ともに規定する立法方法(二元主義)もあらわれるに至った。そしてまた,ナチス・ドイツにおいて道義的応報刑論の国家主義的・権威主義的側面が強調されたとき,道義的非難の表現としての応報が行為者の主観的な悪い意思に向けられ(意思刑法論),応報刑論と主観主義犯罪論が結合したことも,〈学派の争い〉が図式化され,単純化されすぎていたことを示している。このようにして,旧・新両学派を妥協・調和させようとする傾向は,現在に及んでいる。
現在の日本および諸外国の刑法理論の基本動向をとらえるとき,その一つの大きな流れは,後期旧派の基本的枠組みの中に新派の主張をある程度まで取り入れようとするものである。刑法の社会倫理的機能の強調を前提に,刑罰は道義的責任のある犯罪行為と均衡する応報であるが,そのような道義的責任論と道義的応報刑論の枠内で,一般予防・特別予防の目的をももつとし,犯罪も基本的に社会倫理違反(ないし道義違反)であり,主観的要素と客観的要素の総合であると理解するのである。
これに対して,他の新しい基本動向は,刑罰論においては,刑法の機能的考察と結びつく法益保護機能とそれに内在する謙抑主義の重視を前提に,刑罰の効果と限界を合理的,経験的,実証的に考えようとする。そして,一般予防の観点および行為者の社会復帰を内容とする特別予防の観点を重視しつつも,人権保障の見地から行為責任によって犯罪予防の観点に限界を設定して犯罪と刑罰との均衡を図ろうとし,形而上学的な道義的応報思想を排除しようとする。そして犯罪論においては,犯罪を法益侵害行為として理解することから出発して,責任を道義的責任としてではなく法的責任としてとらえ,客観主義犯罪論を明確化しようとするのである。この新しい動向は,刑法理論の系譜からみれば,前期旧派に注目することを基点として,刑罰論においては新派の問題提起をうけとめつつ,それに人権保障の見地から限界を設定し,犯罪論においては前期・後期旧派の客観主義を発展させようとするものといえる。
→刑罰 →刑法
執筆者:内藤 謙
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