津呂村(読み)つろむら

日本歴史地名大系 「津呂村」の解説

津呂村
つろむら

[現在地名]室戸市室戸岬むろとみさき坂本さかもと・津呂・菜生なばえ耳崎みみざき

室戸岬先端から北西へ、土佐湾を前に海岸段丘の山地を背にした村。東は東寺ひがしでら村、北西は室津むろつ村。江戸時代初期は室戸岬先端の坂本は三津みつ村に属したが、津呂湊の開削による津呂村の発展により津呂村の一部となった。

天正二年(一五七四)長宗我部元親の侵攻に対して室津城主は津呂西端の耳崎と室津・浮津うきつの境に出城を築き防戦したが、頼みの勇士宮地兵藤太が討たれたため、元親に降ったという。伝えによれば古くは人家は村域北西方の深井ふかい付近にあり、津呂湊の整備によって東南方へ移転したという。しかし慶長二年(一五九七)の秦氏政事記(蠧簡集)によれば、長宗我部氏の下で下田新左衛門がのちの港付近をさす東津呂の刀禰に任命されており、また守護細川氏の家臣多田元次の子で長宗我部氏に仕えた吉成(多田)五郎右衛門元平が、水主を率いて九州遠征に功をたて、元親より国中津々浦々諸公事免除の特権を与えられ、津呂に居を定めたということからも、その頃すでに津呂は港としての機能をもっていたことがわかる。

長宗我部地検帳では津呂は天正一五年の東寺地検帳に含まれ、坂本を合せて一〇町六反余。四一筆の居屋敷がみえる。有姓者・給人はいない。多田氏が居を定めたのは検地より後のようである。条件のよい耕地は大体最御崎ほつみさき(東寺)や王子権現(津呂王子宮)の仏神事祭礼田にあてられている。藩主山内一豊の弟康豊の入国に際し、甲浦かんのうら(現安芸郡東洋町)に迎え、海路浦戸うらど(現高知市)まで供をした功により多田元平は津呂村および同浦の庄屋を命じられた。当時岬東の鹿岡かぶか坂までが浦分の支配区域であった。元平の子義平は寛永初年突鯨法による捕鯨を始め、長男にこれを相続させ、庄屋役は末子が継いだ。慶長九年の大津波の際は、佐喜浜さきのはま談議所(のちの大日寺)にいた僧暁印の置文(「南路志」所引)に「東寺西寺の浜分ハ、男女四百人余死」とあるので、津呂付近の被害も大きかったと思われる。

津呂湊が江戸時代初頭に岩礁の間の船溜から港へと発展したのは、最蔵(勝)坊の尽力による。最蔵坊はもと石州武士小笠原一学で、主家が関ヶ原の役で敗れ減封されたため浪人し、六十六部として東寺の岩屋に逗留、山内忠義の知遇を得て東寺を再興したのち、津呂王子権現の西に三反三〇代の地を拝領、津呂湊の開削に当たった。


津呂村
つろむら

[現在地名]土佐清水市津呂

窪津くぼつ村の南に接する村(浦方)。南接する大谷おおたに村との境稲荷いなり崎はよく発達した海岸段丘で、西に半島一の白滝しらたき(四四六・六メートル)を負う。「土佐州郡志」に「縦横一町許、有港縦五間横十間、可容漁船十五六艘、戸十七、船一」とある。

天正一七年(一五八九)の津呂之村地検帳によれば検地面積四町四反余、屋敷数八、うち居屋敷七。屋敷のうちには要志庵が含まれ、名本ヤシキには名本善大良がおり、水主九良三良・同源四良・同大良次良が居住する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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