中国、清(しん)末の軍隊。1861年李鴻章(りこうしょう)が安徽(あんき)省淮河南岸の団練を基礎に湘(しょう)軍に倣って編成した義勇軍で、正確には淮勇という。500人からなる営を基本単位とし、各営は四つの哨(しょう)、各哨は八つの隊からなる。兵士はすべて将官が直接に徴募し、統領が営官を、営官が哨長を、哨長が什(じゅう)(隊)長を直接選任した。したがって湘軍同様、私的性格が濃厚だった。1862年4月6500人の兵力で安慶からイギリス船で上海(シャンハイ)に入って以後、しだいに洋式銃砲で装備し、編制もこれに応じて変化した。太平軍と戦う過程で質量ともに強化され、65年には6、7万に達して、清朝最強の軍隊となり、捻(ねん)軍鎮圧に功をあげた。李鴻章ら淮系官僚政客集団の最大の資本となったが、清仏戦争と日清戦争に敗れて力を失い、袁世凱(えんせいがい)の新建陸軍(新軍)にその地位を譲った。
[小島晋治]
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淮勇(わいゆう)ともいう。清末,太平天国討伐のため李鴻章(りこうしょう)が1862年,湘軍(しょうぐん)の編制にならって郷里の淮南地方で組織した郷勇(きょうゆう)部隊。上海に進出して江蘇の太平天国を討伐したのち,捻匪(ねんぴ)(捻軍)の平定(66~68年),陝西(せんせい)回教徒(ムスリム)の反乱平定(68~70年)に従軍した。李鴻章の直隷総督就任(76年)によって直隷に移駐した。淮軍は近代的な装備をもつ清国最強最大の軍隊であったが,その構成が同郷的・同族的結合関係を根幹としていたため,私的な統属関係が強く,李鴻章の半ば私兵的な軍隊として彼の勢力を支える基盤となっていた。日清戦争で主力は壊滅し,義和団事件で残存部隊も壊滅した。
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…1853年(咸豊3)曾国藩は地主の子弟を将校とし,農村青年を兵(勇)として湘勇を編成し,61年,李鴻章はこれにならって淮勇を編成した。 いずれも師弟関係や血縁・地縁など私的結合を紐帯として組織されて曾国藩,李鴻章の私兵的性格が濃く,それぞれ湘軍,淮軍と通称された。両軍とも正規軍に比してはるかに給与が高く,かつ西洋近代火器を導入して装備を改善したので戦闘力が強く,太平天国,捻軍など諸農民反乱の鎮圧の主力をつとめた。…
…【藤原 彰】
[中国]
中国では,古く唐代から軍閥の存在が指摘されているが,歴史的に重要なのは近代のそれである。近代中国の軍閥の起源は太平天国鎮圧戦争のために組織された曾国藩の湘軍,李鴻章の淮軍(わいぐん)等にもとめられる(郷勇)。清朝支配下にあってはなお文官を軸に編成されていた支配体制が,辛亥革命による専制王朝体制の崩壊とともにむきだしの軍人支配に移行する。…
…56年には,建都以来進行していた諸王間の隠微な権力闘争が,流血の大分裂として爆発し,東王がその部下約2万とともに北王韋昌輝に,ついで北王が天王に殺害され,衆望を担った翼王石達開が天王の圧迫に耐えかねて20万の大軍を率いて天京を離脱する悲劇を演じた(南王馮雲山と西王蕭朝貴は南京占領までに戦死)。これに乗じて曾国藩が儒教と伝統的秩序の擁護をかかげて,湖南の儒者・地主を中核に組織した義勇軍(湘(しよう)軍),ついで李鴻章が安徽で組織した淮(わい)軍が攻勢に転じ,太平軍は60年までに天京上流の従来の地盤を喪失した(図)。
[外国の干渉と敗北]
第2次アヘン戦争と北京条約(1860)によって,清朝をその対華政策の支柱として再編することに成功したイギリス以下の列強は,初期の中立政策を放棄し,1860年以降,天京以東の江蘇・浙江省に新たな活路を求めて進出してきた太平軍に,上海,寧波などで武力攻撃を加え始めた。…
※「淮軍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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