中国,清朝時代の民間自警組織。アヘン戦争時の仏山団練局などがその例である。もともと団集練丁(壮丁を招集訓練する)の意で,唐以来地方部隊の呼称に用いられたが,清朝では郷村自衛の臨時組織とし有時の際にのみ結成を許可された。だが,嘉慶年間(1796-1820)の白蓮教の乱においては,清朝正規軍の弱体を補うため,準正規軍(郷勇)として団練が傭兵化する例が生まれ,太平天国に際しては最初から団練とは別に湘軍,淮(わい)軍など郷勇が編成された。清末には団練はほとんど常設機構と化すが,在地の官紳,土豪が民衆から強制的に徴した金(捐)で私兵を養い,民衆を抑圧する〈地主武装〉に変質し,民間自警のたてまえとはほど遠い存在となった。中華民国になっても,団防,民団,保衛団などの名称で存続,強化され,反革命の最先端として中国共産党の指導する農民運動や土地革命戦争ときびしく対立した。
執筆者:小野 信爾
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中国古来の官設民兵組織。名称の起源は古く唐代にさかのぼり、常備軍の補助として民間の自衛団を改編し、団結兵、団練兵とよんで地方長官の兼任する団練使に率いさせた。節度使(せつどし)の軍閥化とともに藩(はん)軍の構成要素とされた。元、明(みん)の末期にも内乱対策として地方官や有力地主に率いさせた郷村自衛団を団練とよんだが、とくに有名なのは清(しん)末の団練で、官兵たる八旗、緑営が弱体化したので、郷村の治安維持のため郷紳(きょうしん)地主を中心とする武装自衛団が盛んとなり、18世紀なかば以降白蓮(びゃくれん)教の反乱鎮圧に政府もこれを利用し、有力地主や地方官の統率下に壮丁を徴集訓練し、糧食を自備して地方防備にあたる団練制度が生まれた。19世紀なかば以降太平天国や捻(ねん)軍の反乱鎮圧に大いに活用され、官が武器、糧食を与え、越境出征させられる募兵と大差ないものとなった。曽国藩(そうこくはん)の湘(しょう)軍や李鴻章(りこうしょう)の淮(わい)軍も、湖南、安徽(あんき)の団練を改編したものであった。民国時代には地方軍閥の郷村支配に利用され、保衛団、保安団、民団などの名で反動派の手足とされた。
[菊池英夫]
中国の農村で組織された自衛武装組織。自衛武装組織自体はどの時代にもみられるが,とりわけ清末に多くみられたものは郷紳(きょうしん)層を核に地縁・血縁で結成されたものが多く,太平天国の侵攻の時期には各地で組織された。曾国藩(そうこくはん)が組織した湘軍(しょうぐん)は湖南の団練を統合したもの。郷紳層がその中心となり,やがて地方分権化の傾向を強め,軍閥の母体になった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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[三元里の戦]
5月末,イギリス軍は広州城北方の三元里で,付近一帯の郷村指導者によって組織された平英団に包囲され,大打撃を被った。その後広州近隣では,郷村教育機関であった社学を中心に,地主,郷紳が地方自衛組織としての団練を作り,それらはアヘン戦争を機に拡大する傾向を示した。後にイギリス軍の広州入城要求に対しても社学は反対し,大きな威圧を加えた。…
…順調に正統出世コースを歩んだ曾国藩はやがて10年をこえる太平天国との対抗関係において歴史に名をとどめることになる。53年1月,服喪帰郷中のところを団練(郷土自衛団)組織を命じられた曾国藩は,旧来のそれを湘軍(義勇軍,湘は湖南省の雅名)に改組した。湘軍は兵士の給与もよく,儒教イデオロギーにもとづく郷党的団結を核に,従来の正規軍よりはるかに戦闘力があり,太平軍と戦って互いに勝敗があった。…
※「団練」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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