中国,清代に兵乱の際,臨時に徴募された非正規の地方軍隊である。郷兵,練勇ともいう。郷はその局地的性格,勇は義勇兵を意味するが,実態は一種の傭兵であって郷村自衛の団練と区別される。清朝中期,正規軍である八旗,緑営の戦力の低下にともない,補助的に郷勇を使用する事例が現れ,白蓮教の乱(1796-1805)にいたっては,独立した戦力として大きな役割をはたすようになった。太平天国革命(1851-64)がおこり,八旗,緑営の腐敗,無能が明らかになると,郷勇が清朝軍事力の主力となり,作戦範囲も以前のように省境内に限定されなくなった。それとともに呼称も潮勇,楚勇,川勇など徴募地名を冠する例が多くなったが,とくに大きな役割をはたしたのが,湘勇(湘は湖南省の簡称),淮勇(わいゆう)(淮は安徽省北部の別称)である。1853年(咸豊3)曾国藩は地主の子弟を将校とし,農村青年を兵(勇)として湘勇を編成し,61年,李鴻章はこれにならって淮勇を編成した。
いずれも師弟関係や血縁・地縁など私的結合を紐帯として組織されて曾国藩,李鴻章の私兵的性格が濃く,それぞれ湘軍,淮軍と通称された。両軍とも正規軍に比してはるかに給与が高く,かつ西洋近代火器を導入して装備を改善したので戦闘力が強く,太平天国,捻軍など諸農民反乱の鎮圧の主力をつとめた。郷勇は兵乱終息とともに解散するのが原則であり,曾国藩は1864年(同治3)湘軍を解散したが,淮軍はひきつづき清朝の軍事的支柱として維持され,李鴻章の権勢を保障した。湘軍も左宗棠など湘軍出身の大官僚によって実質上継承されていたが,日清戦争においてまず淮軍が壊滅し,ついで湘軍系も馬脚を現したことによって,非正規の郷勇が正規軍を代行する時期は終わった。しかし袁世凱や段祺瑞が体現するように,淮軍は直接間接にのちの北洋軍閥につながり,湘軍系や各地の郷勇もまた近代中国における大小の地方軍閥の先駆となったのである。
執筆者:小野 信爾
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中国、清(しん)代の義勇兵。清の正規軍は八旗(はっき)と緑営であったが、18世紀後半、台湾で起こった林爽文(りんそうぶん)の反乱鎮圧に際し、臨時に義勇兵が組織されたのを最初として18世紀末の嘉慶白蓮(かけいびゃくれん)教反乱、ついで太平天国運動に際し、無力を暴露した正規軍を補うために、各地方で義勇兵を組織することが承認され、奨励された。これを郷勇といい、地方官が主体となって組織するものと、地方有力者=郷紳(きょうしん)が主体となって支配下の農民や遊民を組織するものとがあった。いずれも民衆反乱に対抗して支配秩序を守ることを任務とした。後者は郷土自衛のために費用を自弁して組織された団練(だんれん)を基礎としたが、しだいに官費で賄われる大規模な義勇兵となり、故郷以外にも進出して戦闘に従事するようになった。江忠源(こうちゅうげん)、曽国藩(そうこくはん)、李鴻章(りこうしょう)らが、それぞれ太平天国鎮圧のため故郷で組織した楚勇(そゆう)、湘勇(しょうゆう)、淮勇(わいゆう)はとくに有名で、淮勇は淮軍として清朝軍事力の中核となった。
[小島晋治]
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清末,正規軍の不足を補うために各地の地方官や郷紳(きょうしん)によって雇募された臨時の軍隊。郷勇の出現は正規軍の弱体化と民乱の頻発の結果であって,白蓮(びゃくれん)教徒の乱に郷勇が広く活用されて以来,戦乱のたびに重用されるようになった。特に太平天国の乱には曾国藩(そうこくはん)編成の湘軍(しょうぐん),李鴻章(りこうしょう)編成の淮軍(わいぐん)をはじめ,多数の郷勇部隊が正規軍以上の戦果をあげ,指揮官であった漢人官僚の勢力台頭の要因となった。
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