清水山城跡(読み)しみずやまじようあと

日本歴史地名大系 「清水山城跡」の解説

清水山城跡
しみずやまじようあと

[現在地名]厳原町厳原西里

府中ふちゆうの西、清水山(二〇六メートル)にある城跡。文禄の役の拠点(朝鮮渡海の駅城)として築城された。国指定史跡頂上を一の丸と称し、東の端を三の丸、その中間を二の丸とする。二の丸の南麓に金石かねいし城がある。二の丸の下の鞍部から金石に下る山路の途中に清水の湧き出る泉があり、これが山内の貴重な水資源で、山名の由来とされる。天正二〇年(一五九二)豊臣秀吉朝鮮出兵に伴い、肥前名護屋なごや(現佐賀県鎮西町)を本営とし、壱岐勝本かつもと(現勝本町)とともに秀吉の渡唐に備えた御座所として築かれたものといわれ、対馬島主の宗義智は相良長毎・高橋直次・筑紫広門の三大名の合力を得て普請を行ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「清水山城跡」の解説

しみずやまじょうあと【清水山城跡】


長崎県対馬市厳原(いずはら)町にある城跡。厳原の中心部の西に接する独立状の丘陵、標高206mの清水山に営まれた城跡。文禄・慶長の役(1592~98年)に際し、豊臣秀吉は朝鮮出兵のための本陣として肥前国松浦に名護屋城を、玄界灘を隔てた出城として、壱岐島に勝本城、対馬に清水山城を築いた。清水山城は1591年(天正19)に築城。構築に際しては、森(毛利)高政が責に当たったといわれている。馬背状の稜線上に、地形に即して東から西に順次三の丸・二の丸・本丸を階段状に配し、三の丸と二の丸との間には細長い連絡部を設けている。各曲輪(くるわ)の入り口には門枡形がつくられ、本丸と二の丸跡のそれは、ほとんど旧状のまま残っている。稜線の両側を石塁で防御していることや、本丸の平面形態がほぼ円形に近いことなど、近世初頭の城郭としてはやや特異な形を示しており、近世初頭の陣城遺構として歴史的意義が大きいとされている。1984年(昭和59)に国の史跡に指定された。厳原港から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報