ベルギーの仏教学者。パリでシルバン・レビらに、オランダのライデンでケルンにインド学・仏教学を学び、帰国してゲント大学教授となる。のちチベット語・中国語を習得して仏教学研究に専心した。厳密な文献学的方法を用いて、すでにサンスクリット語原典が失われ中国・日本にのみ残る伝統的漢訳資料を解明。とくに『倶舎論(くしゃろん)』『成唯識論(じょうゆいしきろん)』の正確なフランス語訳注は世界の仏教研究の白眉(はくび)とされ、また西洋の仏教学を刺激し発展せしめた。ほかにチャンドラキールティ(月称)の『中論註(ちゅう)』のサンスクリット語テキストの校訂出版などの著書がある。ベルギーにフランス仏教学研究の一大支流としての伝統を植え付け、その弟子ラモットÉtienne Lamotte(1903―1983)を生んだ。赤沼智善(あかぬまちぜん)、宇井伯寿(ういはくじゅ)、山口益(やまぐちすすむ)、宮本正尊(みやもとしょうそん)ら日本の仏教学者とも深い親交があった。
[加藤純章 2017年4月18日]
フランスの画家。ノルマンディー地方のレ・ザンドリに生まれる。画家カンタン・バランに素質を認められ、18歳でパリに出て、肖像画家のフェルディナンド・エルやマニエリストのジョルジュ・ラルマンに師事。また、マリ・ド・メディシスの侍従アレクサンドル・クルトワを通じて王室所蔵のラファエッロの版画を研究し、強い影響を受ける。1622年、パリのイエズス会のために制作した装飾画がイタリアの詩人マリーノの目にとまり、その援助により念願のイタリア行きを果たす。ベネチアにしばらく滞在したのち、24年ローマに到着。ラファエッロの構成とベネチア派の色彩をもつ当時の作風は、やがてカラバッジョ派やピエトロ・ダ・コルトーナの影響により、ドラマチックな動きと明るい色彩をもつバロック的特色を示すようになる。円熟期から晩年にかけて、深い奥行をなす背景に、モニュメンタルな人物を配した均衡のとれた構図と抑制された色彩によって、高い精神表現を示す独自の古典主義様式を確立する。神話画、宗教画、風景画に優れ、知識階級に広い支持を得て、その名声により1640年ルイ13世に招かれてルーブル宮の装飾にあたるが、2年後ローマに戻り、以後フランスへ帰ることなく、同地に没した。だが、王立アカデミーの初代院長シャルル・ルブランによりその作風がアカデミズムの規範とされたため、フランスの美術伝統の形成に大きく寄与することになった。代表作に『アルカディアの牧人』、最晩年の『四季』連作(ともにルーブル美術館)など。
[黒田亮子]
『高階秀爾解説『世界美術全集16 プッサン』(1977・集英社)』
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