日本歴史地名大系 「渡合村」の解説 渡合村どあいむら 愛知県:東加茂郡足助町渡合村[現在地名]足助町渡合矢作川の支流阿摺(あすり)川に沿い、北から東にかけて御蔵(みくら)村、南は実栗(みぐり)村、西は月原(わちばら)村に接する。北部寄りを阿摺川が西に向かって流れる谷地形であるが、左岸の段丘はやや広く、山麓の傾斜地を形成する。街道は矢作川左岸から現旭(あさひ)町方面への重要路線として古くから開けており、現主要地方道瀬戸―設楽線が阿摺川右岸の山麓を通る。集落は主として街道沿いの山麓に点在。縄文時代早期・前期のヤゲ西(にし)遺跡が阿摺川左岸の西面した山麓の傾斜地に、同晩期の東田面(ひがしとうも)遺跡が同じ左岸の段丘上にある。 渡合村どあいむら 愛知県:西加茂郡藤岡町渡合村[現在地名]藤岡町上渡合(かみどあい)飯野(いいの)川の中流域にあって、西平川と折平(おりだいら)川が合流する地点に位置する。字弥陀前(みだまえ)の山林には一石五輪塔が一基ある。寛永一二年(一六三五)時には幕府領、元禄一一年(一六九八)から宝永六年(一七〇九)まで旗本京極高平仁十郎領。宝暦一三年(一七六三)から駿河中泉(なかいずみ)代官所支配、天保一三年(一八四二)には再び幕府領、明治元年(一八六八)には重原藩に属する。天保一三年の渡合村明細書上帳(藤岡村誌)によれば「御廻米の儀当村より越戸問屋迄道法四里、但シ馬弐俵付、鷲塚湊迄九里之間川船ニ而出シ申候」とあり、年貢米津出しは、越戸(こしど)(現豊田市)まで馬で運び、越戸から川船を利用して矢作川を下った。 渡合村どあいむら 愛知県:豊田市高橋地区渡合村[現在地名]豊田市渡合町・琴平(ことひら)町矢作川と巴(ともえ)川の合流点に位置し、背後からは標高一〇〇メートルほどの山が迫っている。文久二年(一八六二)の村絵図によると、集落は矢作川と巴川の作る直角部分に集中し、北側の山室(やまむろ)村との境近くにも一部存在している。両河川の川沿いにはりつくような形で本畑が作られ、山あいを縫うように田畑が開発されている。西端の岩倉(いわくら)村境には、吉田池と見のり池の二つの溜池もある。神明社・八王子社・観音堂の三つが並んで集落の中にある。 渡合村どあいむら 石川県:輪島市旧輪島市地区渡合村[現在地名]輪島市三井町渡合(みいまちどあい)打越(うちこし)村の南、河原田(かわらだ)川上流の山間に立地。正保郷帳に村名がみえ、高六八石、田方三町余・畑方一町四反余。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免四ツ六歩(能登奥両郡収納帳)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by