中国古代殷王朝の創設者。殷の始祖契(せつ)より14世目。武湯,武王,天乙,成湯ともいわれ,卜辞では唐(湯と同音),成,大乙と書く。亳(はく)(河南省偃師県)に都をおき,伊尹(いいん)などの賢臣を用い,異民族をも心服させ,その徳は禽獣にもおよんだという。夏の属国の韋(河南省滑県南東),昆吾(河南省許昌県東)などを滅ぼして疆域を拡大した。夏王の桀は暴政を行い,人心が離反したので,これを攻めて滅ぼし,殷王朝を創設した。湯王に関する伝承は《尚書》や《詩経》などにもかなり記載されるが,それらの成立が後世のものであったり,あるいは具体性に欠けるため,不明な点が多い。第1期の卜辞では〈唐〉あるいはまれに〈成〉と書かれるが,第2期以降は〈大乙〉とよばれるようになる。理由は明らかでない。しかし卜辞によると,湯以下の先王とそれ以前の祖先とは祭祀では明らかに差異があり,当時の人びとも,湯(大乙)を殷王朝の最初の王と考えていたことは明らかである。
執筆者:伊藤 道治
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生没年不詳。殷(いん)王朝創始の王。始祖、契(せつ)より数えて14世にあたるという。『史記』には成湯、天乙といい、『詩経』には武湯、湯、武王ともいうが、甲骨文では唐、大乙、高祖乙などとよばれている。湯は亳(はく)に都を移し、葛(かつ)、昆吾(こんご)、三(さんそう)を征し、ついに夏(か)を討って桀(けつ)を破り、天子の位についた、という。湯の都したという亳の所在については古来異説が多いが、1983年、河南省偃師(えんし)県西の尸郷溝(しきょうこう)に、殷代初期と推定される城壁が発見された。南北約1700メートル、東西約1200メートル、面積約190万平方メートルの都城址(とじょうし)で、『漢書』地理志の「尸郷、殷湯の都せしところ」など、古文献に多く「西亳」とする地がこれであろうと推測されるに至った。
[松丸道雄]
『中国社会科学院考古研究所河南第二工作隊「偃師商城発掘簡報」(『考古』1984年第六期所収・科学出版社)』
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…名は摯,阿衡あるいは保衡と号す。年70まで有莘氏の国で農耕に従事したが,有莘君の娘が殷の湯王の妃となると,料理番としてそれに従い,料理にたとえて湯王に政治を説き,宰相に任ぜられた。そののち湯王を助けて夏の桀王を討ち滅ぼし,殷王朝を開くのに力があった。…
…後の周の人びとが殷とよぶようになるが,その理由は明らかではない。
[歴史]
殷王朝は,《史記》によると成湯天乙(いわゆる湯王,甲骨文では唐,大乙とよぶ)が,夏王朝の桀(けつ)王を倒して滅ぼし,創設したといわれる。夏王朝の存在は確認されないが,甲骨文の発見によって殷の存在は確認され,王系による逆算と,考古学的年代測定とにより,大乙による王朝の創立は前17世紀末もしくは前16世紀初と推定されるに至った。…
…宮殿を豪奢にし,美女たちを集め,淫靡な音楽を好み,酒池肉林の遊びをなしたなどとその悪行が伝えられる。その配下にあった湯王は,徳を修め諸侯を心服させて勢力を養っていた。やがて湯王は兵を起こして桀をうち,これを鳴条(めいじよう)の野(や)に破ると,新しく商(殷)王朝を開いた。…
※「湯王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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