日本大百科全書(ニッポニカ) 「都城址」の意味・わかりやすい解説
都城址
とじょうし
天子の住まいである宮と、諸官衙(かんが)(役所)、官人の居住地を計画的に配置した都市の遺跡。中国では城壁を周囲に巡らせた例が多いが、日本ではこれがつくられなかったと考えられるため、都京とよぶ場合がある。中国では秦(しん)の咸陽(かんよう)城、三国魏(ぎ)の鄴(ぎょう)城、前漢の長安城、後漢(ごかん)・北魏などの洛陽(らくよう/ルオヤン)城、唐の長安(ちょうあん)城・洛陽城、北宋(ほくそう)の開封(かいほう/カイフォン)、明(みん)・清(しん)の北京(ペキン)城などがある。朝鮮では高句麗(こうくり)の丸都城、新羅(しらぎ)の慶州、百済(くだら)の熊津(ゆうしん)(公州)・泗沘(しひ)(扶余)や、李朝(りちょう)の漢城(ソウル)などがある。古代の日本では、7世紀代の飛鳥(あすか)地方に小墾田宮(おはりだのみや)、板蓋宮(いたぶきのみや)などが営まれ、また難波(なにわ)(孝徳(こうとく)天皇)、大津(おおつ)(天智(てんじ)天皇)にも宮が造営されたが、京を伴った本格的な都城と考えられていない。中国の都城を模して古代日本で最初に成立したのは藤原京(ふじわらきょう)(694=持統8年遷都)である。発掘調査の成果などから復原された藤原京は、大和(やまと)の古道である中ツ道と下(しも)ツ道を東西の京極(きょうごく)とし、山田道と横大路(よこおおじ)を南北の京極とする12条8坊の条坊を形成した。平城京(へいじょうきょう)(710=和銅3年遷都)は、藤原京の東西両京極をそのまま北に延長し、これを左京とし、右京はこれを西に折り返しているため倍の幅となっている。南北は藤原京の12条を9条に減らしたが、1条分の間隔を2倍としたため南北長は1.5倍となった。日本の都城は唐の長安城を模してつくられていると考えられていたが、平城京が藤原京を規準にしてその規模を拡大して計画されたことがわかると、藤原京と唐の長安城の相違点の多いことから、北魏洛陽城など、より以前の中国の都城の構造を模したとする考えが出された。これに対し中国の学者から反論がなされるなど、日本の都城の源流については、明確な解決はついていない。
平城京の次に長岡京(ながおかきょう)(784=延暦3年遷都)、平安京(794=延暦13年遷都)と遷都が続くが、藤原京、平城京と長岡京、平安京とでは、条坊の区画割りの方法が大きく変化する。前者ではまず条坊の中心線を等しい距離に割り振って大路・小路(こうじ)を設定し、路に囲まれた部分を宅地とするため、大路に面した宅地は狭小になる。これに対し後者では、宅地の大きさを一定に保つため条坊間の距離はかならずしも一定しないことになる。また天皇の住まいである内裏(だいり)と朝政の場である大極殿(だいごくでん)の関係についても、藤原宮から平城宮にかけてしだいに独立する傾向を示し、長岡・平安両宮では完全に分離したものになるなど、律令(りつりょう)制の展開とともに大きな変化が認められる。
平安京は、羅城門(らじょうもん)を中心として左右に東寺・西寺を配し、また東市・西市・鴻臚館(こうろかん)など、古代都市として完成されたシンメトリカルな構造をもつものであったが、10世紀代に入ると右京はほとんど廃れ、律令制の衰退とともに都市機能も大きく変化してゆく。
[寺島孝一]
『西嶋定生編『奈良・平安の都と長安』(1983・小学館)』▽『八木充著『古代日本の都』(講談社現代新書)』