平安後期の公卿。後三条天皇皇子輔仁親王の男。母は大納言源師忠の女。白河上皇の猶子となり,1115年(永久3)白河殿において元服したが,19年(元永2)源の姓を賜って臣籍に下り,従三位に直叙された。破格の優遇である。以後累進して22年(保安3)には20歳の若さで内大臣に昇り,さらに右大臣を経て,36年(保延2)左大臣に進んだ。47年正月病により辞官,ついで出家して成覚と号したが,2月13日没した。時の内大臣藤原頼長はその日記に,〈大臣人となり容貌壮麗にして,進退度あり,糸竹の道(琵琶および笙)に長じ,入木の様に習う。また和歌に巧みにして,詳しく我朝の礼儀に習う〉と評し,〈官家の良臣を失う,あに悲しからずや〉と嘆いている。その別荘の称により,花園左大臣と呼ばれ,その日記はもとは80余巻もあったという。
執筆者:橋本 義彦
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平安後期の公卿(くぎょう)。別荘が洛北(らくほく)の花園(京都市右京区)にあり花園左大臣とよばれた。後三条(ごさんじょう)天皇皇子輔仁(すけひと)親王の二男。母は大納言(だいなごん)源師忠(もろただ)の女(むすめ)。1115年(永久3)元服し白河(しらかわ)天皇の皇子とされたが、19年(元永2)源氏の姓を賜り臣籍に降下。内大臣、右大臣を経て36年(保延2)左大臣に上る。47年(久安3)1月病により辞職、2月3日出家し(法名成覚)、13日に没した。幼少から利発で美しく、白河・鳥羽(とば)天皇に愛され、鳥羽天皇は皇太子にとも考えたという。詩歌、音楽、書などに秀(すぐ)れ、装束(しょうぞく)の新制度を考案した。日記『花園左大臣有仁公記』(園槐(えんかい)記)、有職故実(ゆうそくこじつ)書『春玉秘抄(しゅんぎょくひしょう)』『秋玉(しゅうぎょく)秘抄』などがある。
[吉田早苗]
(渡辺晴美)
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