瀬長亀次郎(読み)せながかめじろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「瀬長亀次郎」の意味・わかりやすい解説

瀬長亀次郎
せながかめじろう
(1907―2001)

沖縄の運動家、政治家。沖縄県豊見城(とみぐすく)村(現豊見城市)に生まれる。順天中学を経て第七高等学校に入学したが、社会科学研究会などに参加し、放校となる。治安維持法違反で投獄される。のち中国で軍務に服するが、軍隊内でも反戦活動を行う。第二次世界大戦後、1947年(昭和22)沖縄人民党結成書記長となり、沖縄の本土復帰運動の第一線にたつ。1952年3月、第1回琉球(りゅうきゅう)立法院選挙当選後の就任式でアメリカへの宣誓拒否。1954年10月には共産主義者隠匿の罪で検挙、投獄(懲役2年)された。1956年12月那覇市長に当選するが翌年に追放されるなど、アメリカの弾圧を受けた。1969年ジョリオ・キュリー平和賞受賞。1970年11月衆議院議員当選。「亀さん」の愛称で親しまれる。沖縄本土復帰後の1973年、人民党と日本共産党の合流と同時に初代県委員長・党中央副委員長となる。その後、同党国会議員団総会長などを務める。1990年(平成2)に政界引退著書に『沖縄人民党』などがある。

[小田部雄次]

『『沖縄人民党』(1970・新日本出版社)』『『瀬長亀次郎回想録』(1991・新日本出版社)』『琉球新報社編『不屈――瀬長亀次郎日記』(2007~ ・琉球新報社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「瀬長亀次郎」の解説

瀬長 亀次郎
セナガ カメジロウ

昭和・平成期の政治家 日本共産党名誉幹部会委員;元・衆院議員。



生年
明治40(1907)年6月10日

没年
平成13(2001)年10月5日

出生地
沖縄県島尻郡豊見城村

学歴〔年〕
七高理科(旧制)中退

主な受賞名〔年〕
ジョリオ・キュリー平和賞(フランス)〔昭和44年〕

経歴
戦前は京浜地区で労働運動に参加、治安維持法違反で3年の刑を受けた。のち沖縄朝日新聞の記者、毎日新聞那覇支局員。戦後21年「うるま新報」(現・琉球新報社)社長となる。22年沖縄人民党を結成し、書記長となり、以後政治運動に専念、沖縄の革新勢力のリーダーとして活躍した。27年初の立法院議員選挙で最高得票を獲得し琉球政府立法院議員に当選、就任式典では居並ぶ米軍高官を前に宣誓を拒否した。29年米軍による同党弾圧で2年間投獄された。31年武力による米軍用地の強制収用に抵抗する“島ぐるみ闘争”の中で圧倒的な人気で那覇市長に当選したが、わずか10ケ月で米軍から追放された。45年初の国政参加選挙から衆院議員に当選。48年沖縄人民党は日本共産党に合流、党幹部会副委員長となる。連続7期務め、平成2年引退。地元では沖縄革新の顔として“カメさん”の愛称で親しまれた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「瀬長亀次郎」の解説

瀬長 亀次郎
セナガ カメジロウ


肩書
日本共産党名誉幹部会委員,元・衆院議員

生年月日
明治40年6月10日

出生地
沖縄県島尻郡豊見城村

学歴
七高理科(旧制)中退

経歴
戦前は京浜地区で労働運動に参加、治安維持法違反で3年の刑を受けた。のち沖縄朝日新聞の記者、毎日新聞那覇支局員。戦後21年「うるま新報」(現・琉球新報社)社長となる。22年沖縄人民党を結成し、書記長となり、以後政治運動に専念、沖縄の革新勢力のリーダーとして活躍した。27年初の立法院議員選挙で最高得票を獲得し琉球政府立法院議員に当選、就任式典では居並ぶ米軍高官を前に宣誓を拒否した。29年米軍による同党弾圧で2年間投獄された。31年武力による米軍用地の強制収用に抵抗する“島ぐるみ闘争”の中で圧倒的な人気で那覇市長に当選したが、わずか10ケ月で米軍から追放された。45年初の国政参加選挙から衆院議員に当選。48年沖縄人民党は日本共産党に合流、党幹部会副委員長となる。連続7期務め、平成2年引退。地元では沖縄革新の顔として“カメさん”の愛称で親しまれた。

受賞
ジョリオ・キュリー平和賞(フランス)〔昭和44年〕

没年月日
平成13年10月5日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「瀬長亀次郎」の意味・わかりやすい解説

瀬長亀次郎 (せながかめじろう)
生没年:1907-2001(明治40-平成13)

沖縄の社会運動家,政治家。沖縄県出身。父親はハワイへ出稼ぎに行っていた。七高(現,鹿児島大学)に進み,社会科学研究会に入るが,2年で放校になる。以後,横浜,川崎などの職場を転々とし,労働争議に参加して治安維持法違反で懲役3年の刑を受け,1935年に出獄する。その後,中国で軍務に服し,軍隊内で反戦活動を行う。40年除隊し,《毎日新聞》沖縄支局記者,46年《うるま新報》社長となる。47年沖縄人民党を結成し,書記長となり,52年琉球立法院に当選,就任式では1人アメリカへの宣誓を拒否した。54年10月人民党はアメリカの反共政策で弾圧され,他の党員とともに検挙される(人民党事件)。56年12月那覇市長となるが,57年11月市町村自治会法改正で追放され,65年の琉球立法院選挙では開票と同時に失格宣言を受けた。67年12月,12年ぶりに本土渡航をし,沖縄の実情を報告する。69年復帰運動と平和に貢献したとしてジョリオ・キュリー平和賞を受ける。70年衆議院議員となり,72年沖縄人民党は日本共産党と合流する。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「瀬長亀次郎」の意味・わかりやすい解説

瀬長亀次郎【せながかめじろう】

政治家。沖縄県出身。1923年社会科学研究会での活動を理由に第七高等学校を放校処分。1947年沖縄人民党を結成,米占領政策への徹底した批判を展開した。1952年琉球政府立法院議員となるが,1954年人民党への弾圧を強化した米軍に逮捕され,2年間投獄。1956年那覇市長に当選,危機感を強めた米民政府は市の銀行預金を凍結し融資・補助を打ち切ったが,市民による自発的納税運動が起こった。根強い反米機運に直面した民政府の強権的法律改正により,翌年退陣を余儀なくされ,投獄を理由に10年近く被選挙権も剥奪される。1968年立法院議員に当選,1970年初の国政参加選挙で衆議院議員(人民党)となり,その後日本共産党から立候補して7期連続当選した。1990年健康を理由に引退。著書は《沖縄からの報告》など。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「瀬長亀次郎」の意味・わかりやすい解説

瀬長亀次郎
せながかめじろう

[生]1907.6.10. 沖縄
[没]2001.10.5. 沖縄
政治家。一貫した大衆左翼運動家。第2次世界大戦後 1947年沖縄人民党を結成し書記長となった。 1952年初の琉球立法院選挙で当選,米軍宣誓を拒否。弾圧され入獄。 1956年那覇市長に当選したが,1年後追放される。こうした闘争歴で,沖縄の抵抗運動の偶像的存在となった。 1969年復帰運動と平和に貢献したとしてジョリオ=キュリー平和賞を受ける。 1970年初の国政参加選挙で衆議院議員に当選,1972年沖縄人民党は日本共産党に合流し,瀬長は党中央の副委員長に就任した。 1990年衆議院議員退任。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「瀬長亀次郎」の解説

瀬長亀次郎 せなが-かめじろう

1907-2001 昭和後期-平成時代の政治家。
明治40年6月10日生まれ。昭和7年治安維持法違反で入獄。22年沖縄人民党を結成し,書記長として本土復帰運動を主導する。27年立法院選挙に最高得票で当選。31年那覇市長に当選したが,翌年米軍により追放される。45年衆議院議員(当選7回)。48年共産党に合流し,党副委員長。平成2年引退。平成13年10月5日死去。94歳。沖縄県出身。第七高等学校中退。著作に「沖縄からの報告」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「瀬長亀次郎」の解説

瀬長 亀次郎 (せなが かめじろう)

生年月日:1907年6月10日
昭和時代;平成時代の政治家。日本共産党幹部会副委員長;衆議院議員
2001年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android