灰田有紀彦(読み)ハイダ ユキヒコ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「灰田有紀彦」の解説

灰田 有紀彦
ハイダ ユキヒコ


職業
作曲家 ミュージシャン

肩書
日本ウクレレ協会会長

本名
灰田 可勝(ハイダ ヨシカツ)

グループ名
グループ名=モアナ・グリー・クラブ(MGC),灰田晴彦とニュー・モアナ

生年月日
明治42年 4月24日

出生地
ホノルル

学歴
獨協中(旧制)〔昭和4年〕卒 慶応義塾大学予科〔昭和8年〕卒

経歴
父は米国で医学を学び、郷里の広島で開業するつもりでいたところ、帰路に立ち寄ったハワイで在ホノルル総領事代理に日系人向けの医者になってくれるように懇願され、ホノルルで開業したという経歴の持ち主。日系2世で、五人きょうだいの二男としてホノルルで生まれるが、大正10年10歳の時に父を失う。11年一時帰国し、父の郷里に墓を建立して再びハワイに戻るつもりいたところ、12年9月帰国準備を整えて帰国の船便を待っていた時に関東大震災が起こり、空き巣に遭ってパスポートを含む荷物一式を盗まれてしまったため、ハワイ行きを諦めて日本で暮らすことになった。父の跡を継ごうと独協中学に通い、昭和4年卒業。日本大学医学部に進むつもりでいたが、願書を届ける途中で紛失して一浪し、中央大学を経て、6年慶応義塾大学に進学。3年、中学5年の夏に友人たちとハワイアンの演奏をしたことをきっかけに、4年ハワイアンバンドのモアナ・グリー・クラブ(MGC)を結成し、ハワイアン・ギター、スティール・ギターを担当。当初8人で始めたが間もなく3〜4倍のメンバーにふくれあがり、6年には弟の稔勝が歌手として正式に加入。創設者・中心人物としてグループを牽引し、我が国におけるハワイアンの先駆となった。8年ハワイ大学進学のため渡ると、地元新聞のインタビュー記事を読んだバッキー白片と知り合ってその日本行きにアドバイスをした他、地元のハワイアン・ギターの名手ウィリアム・K.モケに師事。同年ビクターとの専属の話が持ち上がったため進学を断念、ピック・ギターの名手としてモケに紹介されたジェリー・栗栖博二を伴って帰国。11月の帰朝公演で初めて灰田晴彦と改名、合わせて弟の稔勝も灰田勝彦に名を改めた。9年東京帝国大学教授・桂弁三の娘と結婚(妻のいとこにソニー会長の盛田昭夫がいる)。10年ビクター専属となり、11年には弟も専属となった。太平洋戦争が始まると、17年MGCを灰田晴彦と南の楽団と改称したが、18年解散した。この年の3月、東条英機首相直々のお声がかりによりビルマの国家元首バー・モーの歓迎演奏会に出演、ビルマ側にもわかるようにと英語曲やハワイアンを演奏するようにいわれ、敵性音楽をおおっぴらに演奏した。20年8月の終戦の日には、日比谷の宝塚劇場で産業戦士の家族慰問演奏会の指揮を執っていた。戦後はすぐに勝彦や浜口庫之助らを迎え、バンドを灰田晴彦とニュー・モアナとして再建し、活動を再開。22年2月横浜の国際劇場に出演した際、楽屋の入り口に立っていた母娘から“とにかく歌が好きな娘で、なんとか好きな道に進ませてやりたいので歌を聴いて欲しい”と頼まれたので歌ってもらったところ、子どもながら堂に入った歌唱力に目をみはり、日劇に出演できるように働きかけ、その娘の門出にと「ただひとつの花」という曲を贈った。その娘こそ後年の美空ひばりで、彼女は贈られた「ただひとつの花」の楽譜を大切に保存していたという。34年日本ウクレレ協会を設立、会長に就任。戦後、もく星号事件で亡くなった漫談家大辻司郎と字画が同じなので改名するように妻から勧められ、灰田暦弘、灰田有紀彦と2回にわたって名前を変えた。勝彦が歌ったヒット曲「森の小径」「鈴懸の径」の他、「トリポリ(舟唄)」「マウイ・ワルツ」などを作曲している。

受賞
日本レコード大賞顕彰(第21回)〔昭和54年〕

没年月日
昭和61年 10月16日 (1986年)

家族
弟=灰田 勝彦(歌手)

親族
岳父=桂 弁三(冶金学者)

伝記
日本ハワイ音楽・舞踊史―アロハ!メレ・ハワイ 早津 敏彦 著(発行元 長崎出版 ’07発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

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