無量寿院(読み)ムリョウジュイン

日本歴史地名大系 「無量寿院」の解説

無量寿院
むりようじゆいん

[現在地名]高松市御坊

高松城跡南、御坊ごぼう町の東端にある。紫山随願ずいがん寺と号し、真言宗御室派。本尊聖観音。天平一一年(七三九)光明皇后発願により行基開創と伝える讃岐国屈指の古刹。空海が嵯峨天皇に奏して堂塔を修造、真言伝法の談義所となり、光明皇后自筆と伝える法華経、法具などが寄進されたという(御領分中寺々由来)。当時は香川郡坂田さかた牟漏むろ(室山)にあり、現西春日にしかすが町の坂田廃寺が寺跡と考えられる。山号も古くは宝照山といったが、紫雲の瑞兆があったので紫山に改めたという(無量寿院随願寺記)


無量寿院
むりようじゆいん

[現在地名]岩出町大町

新義真言宗で、本尊阿弥陀如来。享保一四年(一七二九)の岩出組寺方指出帳写(藤田家蔵)によれば、古くは根来ねごろ(現岩出町)末であったが、根来寺衰退によって一時京都智積ちしやく院末となったという。かつては阿弥陀堂があり、この堂で「毎時不断之常光明真言」を行ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の無量寿院の言及

【定朝】より

…日本彫刻史上屈指の名匠といわれる。仏師僧康尚(こうじよう)の子と考えられ,1020年(寛仁4)康尚とともに藤原道長発願の無量寿院(のちの法成寺阿弥陀堂)の9体の丈六阿弥陀像をつくったのをはじめ,宮廷や藤原一門などの造仏に多くたずさわった。22年(治安2)法成寺造仏の功によって,仏師としてはじめて僧綱位の法橋に叙され,48年(永承3)には興福寺造仏の賞として法眼に進んでいる。…

【法成寺】より

…1019年(寛仁3)から造営開始。金色の丈六阿弥陀像9体を安置した無量寿院(阿弥陀堂)を中心に,金堂,五大堂,十斎堂,講堂,薬師堂など諸堂の造営は,諸国の受領が争って分担し,その壮麗さは地上の極楽といわれて,《栄華物語》や《大鏡》に詳しい。1027年(万寿4)道長は阿弥陀堂内で,9体の阿弥陀仏の手に五色の糸を結び,《往生要集》の臨終行儀そのままに,西向き北枕に臥し,その糸を手にして念仏の声のなかで最期を迎えたという。…

※「無量寿院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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