平等院(読み)びょうどういん

精選版 日本国語大辞典 「平等院」の意味・読み・例文・類語

びょうどう‐いん ビャウドウヰン【平等院】

京都府宇治市宇治蓮華にある天台・浄土系単立寺院。山号は朝日山。源融(みなもとのとおる)の別荘跡で、のち藤原道長の山荘宇治殿となり、子の頼通が継承、永承七年(一〇五二)寺とする。本堂の阿彌陀堂藤原美術の粋を集めた華麗な建築で鳳凰堂と呼ばれる。本尊の阿彌陀如来坐像は定朝(じょうちょう)作。日本三名鐘の一つといわれる梵鐘は形の美しさで知られ、鳳凰堂・本尊とともに国宝。境内入口にある扇の芝は源頼政が自決した所。

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デジタル大辞泉 「平等院」の意味・読み・例文・類語

びょうどう‐いん〔ビヤウドウヰン〕【平等院】

京都府宇治市にある天台宗浄土宗系の単立寺院。山号は朝日山。藤原道長の別荘であったものを永承7年(1052)道長の子頼通が寺に改め、翌年阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立。開山は明尊。阿弥陀堂や堂内にある定朝作の阿弥陀如来像、51体の雲中供養菩薩などは国宝。梵鐘は日本三名鐘の一つ。平成6年(1994)「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。

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日本歴史地名大系 「平等院」の解説

平等院
びようどういん

[現在地名]宇治市宇治蓮華

宇治うじ橋上流の宇治川左岸に位置する。朝日山と号する天台浄土系の単立寺院で、本尊阿弥陀如来。藤原道長の別業宇治院を伝領したその子頼通が、末法の初年とされた永承七年(一〇五二)に別業を改めて仏殿としたことに始まる。「扶桑略記」同年三月二八日条に「左大臣(頼通)、捨宇治別業寺、安置仏像、初修法華三昧、号平等院」とあり、「伊呂波字類抄」には「改宇治別業五間・四面、中尊大日東向」と記され、当初は大日如来を安置したものであった。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔伽藍整備〕

天喜元年(一〇五三)には現存する阿弥陀堂(鳳凰堂、国宝)が建ち、同年二月一九日には「御仏奉丈六阿弥陀仏一躰、丑刻出京、午刻奉仏壇(中略)、法眼定昨日令着御、給柳色直垂一領云々」と「定家朝臣記」にみえるように、仏師定朝作の丈六阿弥陀如来坐像(国宝)が運び込まれている。その堂供養が行われたのは同年三月四日、「扶桑略記」には「百口高僧、設其供養、准御斎会、仏像荘厳古今無双」とあり、「伊呂波字類抄」に「導師僧正貞範奈良」とみえる。もとの本堂(大日堂)を亡失してのちは、この阿弥陀堂が平等院の中心伽藍とされてきた。なおこの堂が鳳凰ほうおう堂の別名でよばれるようになったのは近世初期からで、仏像を安置する中堂の左右に付された翼廊が鳳凰の展翅した姿に似るからだという。その後一二世紀初期までに、法華堂・多宝塔・五大堂・経蔵・不動堂・護摩堂・円堂などが、頼通以下師実・忠実ら藤原氏一門によって境内に建立された。

平等院
びようどういん

[現在地名]高野町高野山

源龍げんりゆう院跡の北にある。本尊は伝空海作の愛染明王。準別格本山。現在本中院ほんちゆういん谷の明王みようおう院が管理。開基は平等房永厳、貞応二年(一二二三)禅林ぜんりん寺静遍の再興とされる(諸院家析負輯・続風土記)。当初、持仏堂本尊釈迦三尊にちなんで釈迦院と号していたが、のち開基平等房永厳の名を院号としたという(諸院家析負輯)。高野山検校帳(又続宝簡集)に「第百廿六覚栄、俊日房、平等院、小倉人、(中略)、応永三丙子十二十九拝堂」とある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平等院」の意味・わかりやすい解説

平等院
びょうどういん

京都府宇治(うじ)市宇治蓮華(れんげ)にある単立寺院。山号は朝日山(あさひさん)。本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)。宇治は『源氏物語』の「宇治十帖(じょう)」の地であり、古来、山紫水明で、左大臣源融(とおる)が別業(べつぎょう)(別荘)宇治院を営んだことは名高い。それはのち、六条左大臣源重信を経て藤原道長の手に移り、たびたび遊宴が催された。宇治院(宇治殿とも)は道長より子頼通(よりみち)へ譲られるが、末法の初年とされた1052年(永承7)頼通は寝殿を仏殿(本堂)とし、翌年、宇治川の西岸に阿弥陀堂が建立された。東から西の極楽(ごくらく)浄土を望む位置に建てられ、阿字(あじ)池には翼廊付きの御堂(みどう)を配置し、堂内には定朝(じょうちょう)作の阿弥陀坐像(ざぞう)を安置するなど、極楽浄土を観想する当時の浄土思想に基づいてつくられた。初代の執印(しついん)(開山)は園城(おんじょう)寺の明尊(みょうそん)大僧正(そうじょう)。以後、1056年(天喜4)に法華(ほっけ)堂、1061年(康平4)に多宝塔、1066年(治暦2)に五大堂が造立された。頼通の没後、娘の四条宮藤原寛子(かんし)が住した。

 宇治は古代から交通の要衝で、646年(大化2)道登(どうと)が架橋した。1180年(治承4)源三位(げんさんみ)頼政(よりまさ)が園城寺に兵をあげ、奈良へ赴く途中宇治で平氏と戦い、平等院で自害した。梶原景季(かじわらかげすえ)と佐々木高綱の先陣争い(1184)も有名であり、承久(じょうきゅう)の乱(1221)では上皇方と北条方の対峙(たいじ)の所となった。建武(けんむ)年間(1334~38)楠木正成(くすのきまさしげ)が足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦ったとき付近一帯を焼き、平等院も鳳凰(ほうおう)堂、観音(かんのん)堂、鐘楼を残し焼失した。なお、鎌倉時代、西大寺叡尊(えいそん)は平等院の僧の勧めで、宇治橋修造、網代(あじろ)撤廃(殺生(せっしょう)禁断)を行い、浮島に十三重石塔を建てた。室町時代に近江(おうみ)(滋賀県)の三井寺円満(えんまん)院門主が兼務したが、明応(めいおう)年間(1492~1501)浄土宗の栄久上人(しょうにん)が管理し、浄土・真言(しんごん)・天台宗が対立し、浄土宗の浄土院と天台宗寺門派の最勝院の管理となり、現在、西院の住職が3年交替で代表役員を務めている。

[田村晃祐]

文化財

阿弥陀堂(国宝)は江戸時代初期より鳳凰堂とよばれた。屋上の銅製の鳳凰によるとか、中堂に両翼廊・尾廊をもつ建物の形が鳳凰を思わせるところからその名があるといわれる。中堂は桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)二間で裳階付(もこしつき)入母屋(いりもや)造、翼廊は桁行各折曲り延長八間、梁間一間の二階切妻造で、隅に宝形(ほうぎょう)造の楼閣があり、左右対称形をなす。背後に桁行七間、梁間一間一階の尾廊をもち、内部の荘厳(しょうごん)とともに平安時代の芸術の粋を尽くした名建築である。本尊阿弥陀如来坐像(国宝)は1053年(天喜1)定朝の晩年の作で、寄木(よせぎ)造、漆箔(はく)を施し、定印を結ぶ。華麗な飛天の光背をもち、木造の天蓋(てんがい)(国宝)の下、九重の台に座し、円満な顔、広く薄い胸、法衣の衣文(えもん)など貴族の趣味にあった和様彫刻の完成を示す名品である。堂内の長押(なげし)上の小壁には奏楽・歌舞をなす51躯(く)の雲中供養菩薩(ぼさつ)像(国宝)がかけられている。扉と板壁の「九品来迎(くほんらいごう)図」「日想観図」など壁扉(へきひ)画(14面、国宝)、本尊後壁壁画などで荘厳されている。また梵鐘(ぼんしょう)(国宝)は日本三名鐘の一つとして有名。観音(かんのん)堂(釣殿(つりどの))とその本尊十一面観音像は国指定重要文化財、庭園は回遊式庭園、境内は史跡・名勝に指定されている。1994年(平成6)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。古都京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)。

[田村晃祐]

『『古寺巡礼 京都8 平等院』(1976・淡交社)』『田口栄一著『名宝日本の美術9 平等院と中尊寺』(1982・小学館)』『太田博太郎他編『平等院大観』全3巻(1988~91・岩波書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「平等院」の意味・わかりやすい解説

平等院 (びょうどういん)

京都府宇治市にあり,現在は天台浄土系の単立寺院。朝日山と号する。本尊阿弥陀如来。藤原頼通が父道長から伝領した別荘の宇治院を,末法(まつぽう)初年にあたる1052年(永承7)寺に改め,翌年に中心伽藍となる阿弥陀堂(鳳凰堂)を建て,定朝作の丈六の阿弥陀座像を安置したことにはじまる。以来平安末まで,摂関家氏寺として一門の崇敬を受け,師実,忠実らによる諸堂塔の建立も続いて,全盛期を築いた。阿弥陀堂はさながら現世の浄土のようで〈極楽いぶかしくば,宇治の御堂(みどう)を礼すべし〉とまでいわれ,経蔵は《一切経》のほか天下の名宝が納められ,3月3日の一切経会は摂関家一門の参詣で大いににぎわった。だが,寺地が都の攻防の要衝にあったので,中世以降たびたび戦禍にまきこまれた。平家打倒の兵を挙げて敗れた源頼政は観音堂の側の〈扇の芝〉で自害し,1486年(文明18)山城国一揆の国人の集会は当寺で行われた。中世末には当初の堂舎のほとんどが焼失し,寺運も衰えた。建立当初から天台宗寺門派に属したが,中世末に浄土宗僧侶が止住して復興につとめ,また真言宗も進出し,近世にははじめ真言と浄土,のち天台と浄土の間に寺家の経営をめぐって争いがあり,確執は後世まで続いた。現在庭園は国の史跡・名勝に指定され,境内に阿弥陀堂や観音堂のほか,天台系単立寺院の最勝院,浄土宗の浄土院がある。
執筆者:

鳳凰堂(1053,国宝)は中堂,左右の翼廊,尾廊からなり,阿字池に東面して建つ。阿弥陀堂として創建され,棟に金銅の〈鳳凰〉(国宝)をあげ,また建築全体の形状が翼をひろげた鳥の姿を思わせるところから,江戸時代以降鳳凰堂の名で呼ばれる。中堂は3間×2間,入母屋造の母屋に,四周1間通の裳階(もこし)をつけ,正面と側面は吹放しとする。外観は中堂の入母屋造の屋根を大きく,軒の出も深くとり,裳階屋根は軽く扱って,正面中央1間のみ切り上げて変化をつけ,その左右に折れ曲がった翼廊を連続させ,隅に楼閣を配するなど,優美で変化に富み,かつ安定感のあるみごとな構成を示している。中堂の内部は須弥壇,柱,長押(なげし),天井には装飾文様や漆,螺鈿,金具が施され,来迎壁,扉,壁には〈九品来迎図〉などを題材とした壁扉画(国宝)が描かれて荘厳される。須弥壇上に安置された本尊阿弥陀如来座像(国宝)は鳳凰堂と同時期のもので,大仏師定朝の手になる現存唯一の遺作。その円満な相好,優雅な衣文などに和様の美をもった典型的な藤原仏の姿をみることができ,技術的にも完成された寄木造の手法をとっている。本尊上部にはけんらんたる方形の天蓋(国宝),さらに長押上の小壁には51体の雲中供養菩薩像(国宝)が掛けてあり,阿弥陀如来をとりまいて極楽から来迎する様をあらわしている。以上のように鳳凰堂の内部は本尊を中心に絵画,彫刻,工芸の粋を尽くして浄土の世界をこの世に現出したかのような豪華な空間がつくられている。鳳凰堂の北には観音堂(鎌倉,重要文化財)があり,寄棟造の簡素な建物で,釣殿とも呼ばれる。内部に十一面観音立像(平安末,重要文化財)を安置する。鐘楼の梵鐘(平安,国宝)は形に優れ,音の三井寺,銘の神護寺のものとともに天下の三鐘の一つに数えられている。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「平等院」の意味・わかりやすい解説

平等院【びょうどういん】

京都府宇治市の宇治川西岸にある天台浄土系の単立寺院。源融(みなもとのとおる)の別業(なりどころ)〈宇治院〉をのち藤原道長譲り受け,その子藤原頼通が1052年寺としたもの。鳳凰(ほうおう)堂(国宝。中世までは阿弥陀堂とよばれ,平等院の中心伽藍)は定朝作の阿弥陀如来座像(国宝)を本尊とする中堂の周囲に裳階(もこし)をつけ翼楼を設けたもの。扉(とびら)や壁には九品来迎図が描かれ,51体の雲中供養菩薩の彫像が取り付けられている。境内は国の史跡・名勝に指定されており,1994年世界文化遺産に登録。
→関連項目荒川荘宇治宇治[市]久多荘古都京都の文化財(京都市,宇治市,大津市)天蓋琵琶湖国定公園源隆国無量光院跡

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平等院」の意味・わかりやすい解説

平等院
びょうどういん

京都府宇治市の宇治川河畔にある寺院。天台,浄土両宗に属し朝日山と号する。藤原道長の別荘をその子頼通が譲り受け仏寺としたもので,永承7 (1052) 年に本堂,翌年に鳳凰堂 (国宝) を造立。その後法華堂,多宝塔,宝蔵などが建てられたが,延元1=建武3 (1336) 年兵火で焼け,室町時代の衰運を経て,現在では鳳凰堂,観音堂,鐘楼だけが残る。鳳凰堂は阿弥陀浄土を具現化したもので,扉や壁面は,『九品来迎図』や『日想観図』などの板絵 16面 (国宝) や雲中供養仏で飾られている (→平等院鳳凰堂壁扉画 ) 。本尊『阿弥陀如来坐像』は定朝の作 (1053,国宝) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平等院」の解説

平等院
びょうどういん

京都府宇治市宇治蓮華にある寺。現在は単立寺院。藤原道長の別業宇治殿を譲られた子の頼通が,1052年(永承7)に仏寺として平等院と称した。この年は入末法の第1年であり,阿弥陀如来の救済と極楽浄土への往生を願い,念仏や観想の実践の場としての阿弥陀堂が造営された。これが鳳凰堂で,翌年竣工した。鳳凰堂のほか塔・五大堂・不動堂・愛染堂などもあいついで建立されたが,反平家の合戦をおこした源三位頼政が当寺境内で自害するなど,源平合戦の一戦場にもなり,1336年(建武3・延元元)の楠木・畠山両氏の合戦では堂舎もいくつか焼失している。1950~56年(昭和25~31)に鳳凰堂の解体修理が行われた。鳳凰堂を中心にして周囲に池を巡らせた庭園は国史跡・国名勝。

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世界の観光地名がわかる事典 「平等院」の解説

びょうどういん【平等院】

アメリカのハワイ州オアフ島、霧深いコオラウ山の麓、カネオにある寺院。1968年に日本人移民100周年を記念し、宇治の平等院を模して建てられた。朱色の建物は、日本国外では最大の日本庭園に囲まれ、1万尾以上のコイが2エーカーの池で泳ぎ、野生の孔雀が敷地内を歩き回っている。鐘楼(しょうろう)・茶室・日本庭園には滝もあり、線香の香りも気持ちを落ち着かせてくれる。

出典 講談社世界の観光地名がわかる事典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「平等院」の解説

平等院

京都府宇治市にある寺院。宗派は天台宗・浄土宗系の単立。山号は朝日山。本尊は阿弥陀如来。1052年、藤原頼通が別荘「宇治院」を寺としたもの。10円玉の表面に描かれる鳳凰堂(阿弥陀堂)は国宝。他にも数多くの文化財を保有。「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。「宇治平等院」とも呼ばれる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「平等院」の解説

平等院
びょうどういん

京都府宇治市にある寺院
関白藤原頼通 (よりみち) が,末法初年にあたる1052年,宇治川のほとりにあった自分の別荘を寺にしたもの。源平合戦以来しばしば戦火にあい,境内には鳳凰堂・観音堂を残すのみである。

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事典 日本の地域遺産 「平等院」の解説

平等院

(京都府宇治市宇治蓮華116)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

世界大百科事典(旧版)内の平等院の言及

【阿弥陀堂】より

…求心堂平面をもつ堂は平安前期に円仁によって建立された比叡山の常行(じようぎよう)三昧堂のように中心に仏壇をおき,周囲1間通りに行道できる庇(ひさし)をめぐらし,さらに孫庇をめぐらした方五間堂の省略形から発展したとも考えられる。その左右に翼廊を付し,前面に苑池を設けた形は1053年(天喜1)に藤原頼通が造営した平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)で,白河天皇の法勝寺(1077)や藤原基衡の平泉毛越(もうつ)寺(1150ころ)なども浄土になぞらえて,苑池に面する伽藍とされた。小型の方三間堂(阿弥陀堂)は全国各地に設けられ,京都法界寺阿弥陀堂は方5間に裳階(もこし)を付した発展形式をもつ。…

【藤原頼通】より

…72年(延久4)出家,法名を蓮華覚(のち寂覚)と号したが,その翌々年の2月2日没した。世に宇治殿と称し,その宇治の別業を寺とした平等院は,道長の建てた法成寺と並んで,永く摂関家の氏寺として重んぜられた。【橋本 義彦】。…

【頼政】より

…シテは源頼政の霊。旅の僧(ワキ)が宇治の里に赴くと,1人の老人(前ジテ)が現れて所の名所を教え,平等院に案内する。扇の形に残された芝を見て僧が質問すると,これは源頼政が扇を敷いて自害した跡だと説明し,自分こそその頼政であると名のって消える。…

※「平等院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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