法成寺(読み)ホウジョウジ

デジタル大辞泉 「法成寺」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐じ〔ホフジヤウ‐〕【法成寺】

京都市上京区にあった寺。治安2年(1022)に藤原道長創建し、荒神口こうじんぐちより北、寺町より東にあったと推定される。広壮な規模を誇ったが、のち、火災にあい、南北朝初期に廃絶。通称、京極御堂みどう、御堂。

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精選版 日本国語大辞典 「法成寺」の意味・読み・例文・類語

ほうじょう‐じホフジャウ‥【法成寺】

  1. 平安中期、京都にあった寺。御堂とも。治安二年(一〇二二)藤原道長が創建。最初の寺域は現在の寺町より東、荒神口より北で、方二町と推定される。顕・密・浄・禅各宗を混在。道長自身無量寿院阿彌陀堂)に住む。天喜六年(一〇五八全焼。鎌倉時代末に廃絶。

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日本歴史地名大系 「法成寺」の解説

法成寺
ほうじようじ

[現在地名]熊本市黒髪二丁目

黒髪くろかみ小学校の北裏側に位置し、菊池往還の旧三軒さんげん町から東の竹部たけべ出屋敷に入る路地の突当りにある。寺地の裏側は旧小松原こまつばら通に接する。福昌山と号し臨済宗妙心寺派、本尊釈迦牟尼仏。由緒は「国誌」に「旧飽田郡池田富ノ尾ニ之レアリシ古迹ノ寺号ヲハ、米田助右衛門是正入道助入願ニ依テ延宝三年此所ニ移シ造立シテ菩提寺トス、竹部見性寺ノ三級和尚ヲ中興開山トシ、妙心寺末寺ニ属ス、是正山鹿郡津留村新地ノ内三十石永々寄附ス」と記す。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「法成寺」の意味・わかりやすい解説

法成寺
ほうじょうじ

平安中期、京都に藤原道長が建立した寺で、現在は廃寺。その位置は、東は鴨川(かもがわ)、西は東京極(きょうごく)(現京都市東側)、南は近衛(このえ)(現荒神口通)にあたる。『栄花(えいが)物語』によると、栄華の絶頂期にあった道長は病気に苦しみ、1019年(寛仁3)3月21日に出家、自らの僧房としての寺院の造営のため、同年7月16日、土御門第(つちみかどだい)の東、鴨川畔に中河御堂(みどう)(阿弥陀(あみだ)堂)の造営を始め、無量寿(むりょうじゅ)院と名づけた。さらに十斎堂、三昧(さんまい)堂を建立した。1021年(治安1)には道長の北方(きたのかた)倫子も出家して、西北院が創建された。翌年には金堂、五大堂の落慶供養(らっけいくよう)が営まれ、法成寺と命名された。その後、薬師堂、後朱雀(ごすざく)天皇の中宮藤原嬉子(きし)のための三昧堂・尼戒壇(あまかいだん)、百体仏の釈迦(しゃか)堂などが次々に造営された。阿弥陀堂内には金色阿弥陀像9体が安置され、1027年(万寿4)道長は阿弥陀仏に五色の糸を結び、念仏の声に包まれて生涯を終えたと伝える。道長の死後東北院などの堂舎造営が続くが、1058年(康平1)法成寺は全焼した。長男頼通(よりみち)が復興。しかし、その後も火災、地震などにみまわれ、さらに、藤原氏の勢力後退に伴って衰微し、1333年(元弘3・正慶2)廃絶した。そのようすは『栄花物語』『小右記(しょうゆうき)』『扶桑(ふそう)略記』などに記されている。

[田村晃祐]

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改訂新版 世界大百科事典 「法成寺」の意味・わかりやすい解説

法成寺 (ほうじょうじ)

藤原道長が造営した摂関家全盛期を象徴する大寺。〈御堂(みどう)〉と呼ばれ,道長の〈御堂関白〉という異称も生まれた。1019年(寛仁3)から造営開始。金色の丈六阿弥陀像9体を安置した無量寿院(阿弥陀堂)を中心に,金堂,五大堂,十斎堂,講堂,薬師堂など諸堂の造営は,諸国の受領が争って分担し,その壮麗さは地上の極楽といわれて,《栄華物語》や《大鏡》に詳しい。1027年(万寿4)道長は阿弥陀堂内で,9体の阿弥陀仏の手に五色の糸を結び,《往生要集》の臨終行儀そのままに,西向き北枕に臥し,その糸を手にして念仏の声のなかで最期を迎えたという。1058年(康平1)焼亡し,道長の子の頼通が以前にもまして壮麗に再建したが,中世に入ると衰微し,室町時代前期には廃寺となった。寺址は現在の京都市上京区京都御所の東側で,鴨川に至る方2町の地域に比定されている。
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百科事典マイペディア 「法成寺」の意味・わかりやすい解説

法成寺【ほうじょうじ】

藤原道長の創建した寺。1020年京極の東辺(東山区本町付近)に阿弥陀(あみだ)堂を建立し,無量寿院といったが,1022年金堂以下落成とともに法成寺と称した。平安時代を代表する大寺だったが,南北朝時代にすたれた。御堂(みどう)ともよばれ,道長の異称〈御堂関白〉の由来となった。
→関連項目阿弥陀堂氏寺久多荘康尚定朝毛越寺

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「法成寺」の解説

法成寺
ほうじょうじ

京都市上京区にあった藤原道長創建の寺。1019年(寛仁3)に出家した道長が阿弥陀堂を建立し,無量寿院と名づけたのが始まり。22年(治安2)金堂・講堂の落慶供養に後一条天皇の行幸があった際,法成寺と名を改めた。その前年には道長の妻倫子(りんし)も出家して西北院を寺内にたてた。のち薬師堂・三昧堂・釈迦堂や,女の太皇太后彰子(しょうし)(上東門院)のための尼戒壇も造られた。道長は27年(万寿4)当寺阿弥陀堂で死去。その後も彰子や長男頼通らによって堂宇の造営が行われたが,58年(康平元)炎上,頼通によって再建された。摂関期には最大規模を誇ったが,鎌倉時代に衰退した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「法成寺」の意味・わかりやすい解説

法成寺
ほうじょうじ

京都市左京区にあった藤原道長建立の寺。はじめ自邸京極殿の東,賀茂川の西岸に阿弥陀堂を建立し無量寿院といったが,治安2 (1022) 年金堂,五大堂の落成に伴って法成寺と改称。その後薬師堂,釈迦堂,十斎堂などが建立され大伽藍を誇ったが,康平1 (58) 年全焼。その後再興されたが再度炎上し,文保1 (1317) 年金堂が倒壊して廃絶。

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旺文社日本史事典 三訂版 「法成寺」の解説

法成寺
ほうじょうじ

京都市上京区鴨川の西岸にあった寺
通称京極御堂・御堂。藤原道長が病のため出家して,1020年造営。道長はここで没した。'58年に焼失し,再建ののちも再三の失火天災で廃滅した。

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世界大百科事典(旧版)内の法成寺の言及

【藤原道長】より

…かの有名な〈この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば〉の歌は,この日の威子の立后を祝う公卿の宴席で,道長がみずから十六夜の月にかけて詠んだ歌である。しかしそのころから道長は病気がちになり,翌年3月出家して行観(のち行覚)と称し,ついで法成寺の造営に力を傾け,20年には無量寿院が完成し,9体の阿弥陀仏が安置された。さらに22年(治安2)には金堂も建ち,法成寺の名も定められ,引き続いて薬師堂や釈迦堂なども造立された。…

【平安時代美術】より

…膝の部分は後補であるが,上体のバランスがよく,気品のある忿怒相は,まさにこの時代の中央での作風を示すもので,康尚の作に比定されている。彼は20年(寛仁4)道長発願の法成寺(ほうじようじ)無量寿院丈六九体阿弥陀像造顕に子息定朝とともにたずさわるが,これより康尚の地盤は定朝に引きつがれ,定朝はやがて仏師としてはじめて僧綱位を受け,寄木造の完成や仏所の組織化が彼の功績に数えられ,彼の作品は〈仏の本様〉と称され,後世の規範とされたのである。彼の現存唯一の作品である平等院鳳凰堂阿弥陀如来像は,まさにそのことを証する傑作である。…

※「法成寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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