阪東妻三郎(読み)バンドウツマサブロウ

デジタル大辞泉 「阪東妻三郎」の意味・読み・例文・類語

ばんどう‐つまさぶろう〔‐つまサブラウ〕【阪東妻三郎】

[1901~1953]映画俳優。東京の生まれ。近代的な性格の英雄像を演じ、時代劇革新の一翼を担った。愛称、阪妻。代表作雄呂血」「無法松の一生」など。

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精選版 日本国語大辞典 「阪東妻三郎」の意味・読み・例文・類語

ばんどう‐つまさぶろう【阪東妻三郎】

  1. 映画俳優。本名田村伝吉。東京出身。はじめ歌舞伎を修業。大正一二年(一九二三)マキノ映画に入社、時代劇を中心に活躍し、阪妻(ばんつま)の愛称で呼ばれた。明治三四~昭和二八年(一九〇一‐五三

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「阪東妻三郎」の解説

阪東 妻三郎
バンドウ ツマサブロウ


職業
俳優

本名
田村 伝吉

別名
愛称=阪妻(バンツマ),前名=片岡 千久満,沢村 紀千助,阪東 要二郎,監督名=岡山 俊太郎

生年月日
明治34年 12月14日

出生地
東京市 神田区橋本町(東京都千代田区)

学歴
日本橋高小〔大正5年〕卒

経歴
大正5年小学校を卒業して11代目片岡仁左衛門に弟子入り、片岡千久満の名をもらって歌舞伎の舞台を踏む。その後、地方巡業や端役で映画に出たが、11年東京青年歌舞伎団を作り、阪東妻三郎を名乗った。12年マキノ映画製作所に入社。同年「紫頭巾浮世絵師」に出演、端役ながらそのニヒリストぶりが注目を浴び、続いて沼田紅緑監督「鮮血の手型」前後編で初めて主演、リアルな立ち回りが評判となった。14年阪東妻三郎プロダクションを設立。同年二川文太郎監督の「江戸怪賊伝・影法師」「雄呂血(おろち)」、15年志波西果監督「尊王」で剣戟俳優として人気を確立。旧来ない大胆で激しい殺陣で新しいチャンバラ映画を生み出して“阪妻”の名は全国に広まり“剣戟王”と呼ばれたが、やがてマンネリに陥り、トーキー時代に入ると細くてかん高い声と古くさいセリフ回しが“剣戟王”のイメージとそぐわず、不振を余儀なくされた。昭和12年プロダクションを解散して日活京都へ移り、マキノ正博監督の「恋山彦」で復活。努力により発声も克服し、16年稲垣浩監督の「江戸最後の日」では勝海舟役を好演。17年田口哲監督の「将軍と参謀と兵」で現代劇に初挑戦した。18年稲垣の「無法松一生」で富島松五郎役、23年伊藤大輔監督の「王将」で坂田三吉役を演じ、無知な庶民ながらも純粋な心を持つ人間像を描き出し、日本映画を代表する名優の一人となった。24年木下恵介監督の現代劇「破れ太鼓」でコミカルなカミナリ親父を演じて好評を博した。28年勝海舟の父に扮した時代劇「あばれ獅子」の撮影中に倒れ、51歳で急逝した。他の代表作に「血煙高田の馬場」「牢獄の花嫁」「おぼろ駕籠」「大江戸五人男」などがある。没後、長男の田村高広、三男の正和、四男の亮も俳優として大成した。岡山俊太郎の名で監督も手がけた。

没年月日
昭和28年 7月7日 (1953年)

家族
長男=田村 高広(俳優),三男=田村 正和(俳優),四男=田村 亮(俳優),孫=田村 幸士(俳優)

伝記
巣鴨撮影所物語―天活・国活・河合・大都を駆け抜けた映画人たち大林宣彦の映画談議大全『転校生』読本―ジョン・ウェインも、阪東妻三郎も、…田村高廣の想い出―日本人への遺言純情無頼―小説阪東妻三郎資料が語る丹下左膳の映画史―大河内伝次郎から豊川悦司まで阪妻―スターが魅せる日本映画黄金時代純情無頼―小説阪東妻三郎映画は陽炎の如く剣戟王阪妻の素顔―家ではこんなお父さんでしたキクゾーのチャンバラ大全剣戟王 阪東妻三郎マキノ出身のチャンバラスター―鳥人・高木新平 月形龍之介 阪東妻三郎 嵐寛寿郎殺陣―チャンバラ映画史嵐寛が風にゆがんだ俳優(スター)の美学 渡辺 武男 著大林 宣彦 著渡辺 一雄 著高橋 治 著田中 照禾 著山根 貞男 編,「阪妻映画祭」実行委員会 企画・監修高橋 治 著犬塚 稔 著田村 高広 著林家 木久蔵 著丸山 敞平 著伊吹 映堂 著永田 哲朗 著武田 秀夫 著佐藤 忠男 著(発行元 西田書店角川学芸出版,角川グループパブリッシング〔発売〕ビジネス社文芸春秋川喜多コーポレーション,展望社〔発売〕太田出版文芸春秋草思社ワイズ出版ワイズ出版ワイズ出版ワイズ出版社会思想社朝日新聞社未来社 ’09’08’06’05’04’02’02’02’01’01’98’97’93’91’87発行)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「阪東妻三郎」の意味・わかりやすい解説

阪東妻三郎
ばんどうつまさぶろう
(1901―1953)

映画俳優。本名田村伝吉。明治34年12月14日東京に生まれる。日本橋高等小学校卒業。11世片岡仁左衛門の弟子となったが、小芝居に転じて阪東妻三郎を名のる。1923年(大正12)草創期のマキノ映画に入社。何本かに助演ののち、親友寿々喜多呂九平(すずきたろくへい)の脚本による『鮮血の手型』(1923)に主演して人気を得、『討たるゝ者』(1924)、『影法師』(1925)など、苦悩に満ちた人生を歩む反逆の剣士といったニヒルな役柄とリアルな殺陣(たて)で、またたくまに人気スターとなり、1925年には独立プロの盟主となった。クライマックスの激しい立回りがいまも語りぐさの『雄呂血(おろち)』(1925)によって剣戟(けんげき)王阪妻(ばんつま)の名を確立。阪妻プロは曲折を経て1936年(昭和11)まで続くが、作品的には恵まれず、一俳優として日活に入社。トーキーに不向きな発声を徐々に克服して『江戸最後の日』(1941)の勝海舟(かつかいしゅう)で演技開眼、1943年の『無法松の一生』で、これまでの英雄的役柄から一転して無知な庶民の純粋な人間像に新境地を開いた。第二次世界大戦後も、『素浪人罷(まか)り通る』(1947)、『おぼろ駕籠(かご)』(1951)などの時代劇を主に風格をみせたが、『王将』(1948)の阪田三吉、現代コメディ『破れ太鼓』(1949)の頑固親爺(おやじ)に、他の追随を許さぬ独自の人間像をつくりあげた。昭和28年7月7日京都で没。俳優の田村高廣(たかひろ)(1928―2006)、田村正和(まさかず)(1943―2021)、田村亮(りょう)(1946― )は実子である。

[吉田智恵男]

『丸山敞平著『剣戟王阪東妻三郎』(1998・ワイズ出版)』『秋篠健太郎著『阪東妻三郎』(1977・毎日新聞社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「阪東妻三郎」の意味・わかりやすい解説

阪東妻三郎 (ばんどうつまさぶろう)
生没年:1901-53(明治34-昭和28)

映画俳優。〈阪妻〉の呼名で親しまれ,豪快な立回りを見せたチャンバラ時代劇の大スターであるのみならず,スクリーンでも実生活でもその人間的な大きさで知られ,なかば伝説化されている名優。本名田村伝吉。東京生れ。11世片岡仁左衛門の門下に入り,1923年,マキノ映画に入社。大部屋俳優から主役をつかみ,ニヒリズムと乱闘を魅力とした寿々喜多呂九平(すすきたろくへい)脚本の一連の時代劇《鮮血の手型》(1923),《討たるゝ者》《逆流》(ともに1924),《江戸怪賊伝・影法師》《墓石が鼾する頃》《異人娘と武士》《雄呂血》(ともに1925)等々で人気を博して,剣戟王・阪妻の異名を取り,〈目玉の松ちゃん〉こと尾上松之助の1人斬るごとに見得を切る〈旧劇〉の古めかしさを脱して,ダイナミックな剣戟を生かした新しいチャンバラ映画の全盛時代をつくった。

 26年,スター・プロのはしりとなった阪東妻三郎プロダクション(阪妻プロ)を設立,時代劇の阪妻王国をつくるが,トーキーに入ってからは,その口跡の悪さもあって低迷する。36年には,12年間続いた阪妻プロを解散。日活京都で撮ったマキノ正博監督《恋山彦》前・後編(1937)で阪妻復活が認められる。その後,チャンバラ,立回りのない時代劇《江戸最後の日》(1941。稲垣浩監督),《素浪人罷通る》(1947。伊藤大輔監督)や老練の円熟した立回りが印象的な伊藤大輔監督《おぼろ駕籠》《大江戸五人男》(ともに1951)で阪妻ならではの風格と貫禄を見せるが,晩年に至る名優・阪妻の人間的な魅力とイメージを決定づけたのは,〈無知〉な庶民(車夫)の純粋無垢な魂を描いた稲垣浩監督《無法松の一生》(1943)から,これも〈無学文盲〉の徒(将棋一途の無知で気のいい男・坂田三吉)の気高い魂を描いた伊藤大輔監督《王将》(1948)をへて,うわべはいばり散らしているものの根は無邪気でお人よしの〈雷親父〉の喜劇を描いた木下恵介監督《破れ太鼓》(1949)に至る現代劇であろう。51歳で病死。長男・田村高廣(1928-2006),三男・田村正和(1943- ),四男・田村亮(1946- )も俳優。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「阪東妻三郎」の解説

阪東 妻三郎
バンドウ ツマサブロウ

大正・昭和期の俳優



生年
明治34(1901)年12月14日

没年
昭和28(1953)年7月7日

出生地
東京市神田区橋本町(現・東京都千代田区)

本名
田村 伝吉

別名
愛称=阪妻(バンツマ),前名=片岡 千久満,沢村 紀千助,阪東 要二郎

学歴〔年〕
日本橋高小〔大正5年〕卒

経歴
大正5年11代目片岡仁左衛門の門に入り、片岡千久満の名をもらって歌舞伎の舞台を踏んだ。その後地方巡業や端役で映画に出たが、11年青年歌舞伎座を作り阪東妻三郎を名乗った。12年マキノ映画製作所に入社。同年「紫頭巾・浮世絵師」に出演、端役ながらそのニヒリストぶりが注目を浴び、つづいて沼田紅緑監督「鮮血の手型」前後編で主役、リアルな立ち回りで人気を得た。14年二川文太郎監督の「江戸怪賊伝・影法師」と「雄呂血(おろち)」でチャンバラ・ファンを熱狂させ、“阪妻”の名は全国に広まり、“剣戟王”と呼ばれた。同年阪妻プロを作り、昭和6年千葉に撮影所を建てたが火事で消失。新興キネマに移ったがトーキー出現で発声が不向きで人気は下降線をたどる。12年日活京都へ移り、マキノ正博の「恋山彦」で復活。発声も克服し、16年稲垣浩の「江戸最後の日」勝海舟役で好演。17年田口哲の「将軍と参謀と兵」で初の現代劇。18年稲垣の「無法松の一生」で富島松五郎役、23年伊藤大輔の「王将」で坂田三吉役を熱演し、日本映画を代表する名優の一人となる。他に「尊王」「闇」「血煙高田の馬場」「破れ太鼓」「おぼろ駕籠」など200本の映画に出た。田村高広、正和、亮は遺児。

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百科事典マイペディア 「阪東妻三郎」の意味・わかりやすい解説

阪東妻三郎【ばんどうつまさぶろう】

映画俳優。本名田村伝吉。東京生れ。歌舞伎界から1922年映画界入り。寿々喜多呂九平(すずきたろくへい)脚本の時代劇《影法師》《雄呂血》(ともに1925年)等でニヒルな反抗的ヒーローを演じ,〈阪妻〉の愛称で人気を獲得。稲垣浩監督《無法松の一生》(1943年),伊藤大輔監督《王将》(1948年),木下恵介監督《破れ太鼓》(1949年)等の現代劇でも名演技を示した。長男高広,三男正和,四男亮も俳優。
→関連項目時代劇映画牧野省三

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阪東妻三郎」の意味・わかりやすい解説

阪東妻三郎
ばんどうつまさぶろう

[生]1901.11.14. 東京
[没]1953.7.7. 京都
映画俳優。本名田村伝吉。 11世片岡仁左衛門の内弟子となり,舞台に出演したが,1922年映画俳優に転じ,『鮮血の手型』 (1923) で人気スターとなった。 27年プロダクションを創立,37年日活に入社,以後大映,松竹と転じ,阪妻の愛称でファンに親しまれた。主演作品『雄呂血』 (25) ,『無法松の一生』 (43) ,『王将』 (48) ,『破れ太鼓』 (49) ,『あばれ獅子』 (53) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阪東妻三郎」の解説

阪東妻三郎 ばんどう-つまさぶろう

1901-1953 大正-昭和時代の映画俳優。
明治34年12月14日生まれ。田村高広・田村正和の父。11代片岡仁左衛門の弟子。大正12年マキノ映画にはいり,時代劇「雄呂血(おろち)」などに出演。剣戟王(けんげきおう)阪妻の異名をとり,チャンバラ時代劇の大スターとなる。また「無法松の一生」「王将」などの名演技で知られた。昭和28年7月7日死去。51歳。東京出身。本名は田村伝吉。

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367日誕生日大事典 「阪東妻三郎」の解説

阪東 妻三郎 (ばんどう つまさぶろう)

生年月日:1901年12月13日
大正時代;昭和時代の俳優
1953年没

阪東 妻三郎 (ばんどう つまさぶろう)

生年月日:1901年12月14日
大正時代;昭和時代の俳優
1953年没

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世界大百科事典(旧版)内の阪東妻三郎の言及

【時代劇映画】より

…寿々喜多呂九平(すすきだろくへい)脚本,金森万象監督,市川幡谷主演《浮世絵師・紫頭巾》がそれで,画面展開のスピード感,物語の怪奇ロマン的魅力,虚無的な人物像のなまなましさ,そして真剣を用いた立回りの迫真性と,あらゆる点で新鮮さに満ちていた。この作品の大ヒットに続いて,マキノ映画では,沼田紅緑監督《鮮血の手型》《討たるゝ者》や二川文太郎監督《逆流》《江戸怪盗伝・影法師》等々,寿々喜多呂九平脚本の時代劇が連作され,これらに主演した阪東妻三郎は一躍スターになって,〈剣戟(けんげき)王〉とまでいわれた。そして,阪東妻三郎は独立し,寿々喜多・二川コンビと組んで,浪人の抵抗と反逆の心をすさまじい乱闘シーンで爆発させた《雄呂血(おろち)》(1925)をつくった。…

【素浪人罷通る】より

…1947年製作の伊藤大輔監督の映画。GHQ(連合軍総司令部)の指示で刀をふりまわす立回り(チャンバラ)を禁じられた占領下でつくられた時代劇の傑作で,天一坊と伊賀亮の物語を伊藤大輔ならではのダイナミックな映像(例えば押し寄せる御用提灯の渦を屋根の上から見下ろすようにとらえたカメラ)と格調あるタッチ(呼吸の長い移動撮影,〈反逆児〉伊賀亮を演ずる阪東妻三郎の堂々たる貫禄)で描いて当時〈出色の娯楽作品〉と評された。阪妻プロ(阪東妻三郎プロダクション)に迎えられて妻三郎の第1回トーキーとして撮った《新納鶴千代》(1935)以後ずっと低迷していた伊藤大輔がようやく創作意欲を回復した作品で,このあと続けて阪妻主演で名作《王将》(1948)を撮り,戦後の新しいキャリアを築いていくことになる。…

【丹下左膳】より

…大河内伝次郎はさらに54年まで,つまり四半世紀にわたって丹下左膳を演じ続けた。ほかに丹下左膳を演じた俳優としては,第2次世界大戦以前に月形竜之介,戦後に阪東妻三郎,水島道太郎,大友柳太朗,丹波哲郎,中村錦之助(のち萬屋錦之介)がいる。 このように数多くの丹下左膳映画がつくられてきたのは,片目片腕の虚無的な主人公の怪人ぶりが波乱に富んだストーリーのなかで魅力的に発揮されることに時代劇ならではのおもしろさがあるためであるが,それにからまって,妖婦櫛巻お藤や少年チョビ安など周辺人物の多彩さ,またほとんどの場合に主役が丹下左膳とともに大岡越前守を一人二役で演じたこと(一人三役・四役の場合もあった),さらには丹下左膳が女ものの長襦袢を着ていることに見られる衣装の華やかさ等々,あらゆる要素が映画的な魅惑を放っていることも見落とすことはできない。…

【忠臣蔵映画】より

…この間,天活(天然色活動写真),国活(国際活映),帝国キネマ,松竹など,次々誕生する新会社も,こぞって,忠臣蔵映画をつくった。 初のトーキー〈忠臣蔵〉は,32年の松竹作品《忠臣蔵》で,衣笠貞之助監督,阪東妻三郎の大石内蔵助,林長二郎(のち長谷川一夫)の浅野内匠頭などのオールスター・キャストである。34年には日活が,伊藤大輔監督,大河内伝次郎の大石内蔵助,片岡千恵蔵の浅野内匠頭で,トーキー《忠臣蔵》をつくった。…

※「阪東妻三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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