独立協会(読み)どくりつきょうかい

改訂新版 世界大百科事典 「独立協会」の意味・わかりやすい解説

独立協会 (どくりつきょうかい)

朝鮮の李朝末期に独立確保とブルジョア的国政改革とを主張して活動した政治結社。1896年7月に開化派系官僚を中心として結成され,会長は初め安駉寿(あんけいじゆ),98年に李完用尹致昊(いんちこう)と代わった。《独立新聞》(1896年4月創刊)がその機関紙的役割を担った。初期は高級官僚中心の団体であったが,ソウルに独立門,独立館,独立公園を建設するための募金運動を展開して自主独立思想を広めた。97年8月以降の討論会活動を通じて少壮会員が台頭し,98年2~3月のロシアの内政干渉・利権獲得に反対する闘争契機としてソウル市民の街頭集会(万民共同会)に支えられて大衆運動に進出した。以後守旧派政府との対決を強め,10月には中枢院改組半数を協会から選出)による立法機関化などの国政改革を要求する運動を進めるに至った。いったんは政府との間に国政改革案が協定されたが,11月に皇帝(大韓帝国),守旧派の巻返しにより協会解散・指導者逮捕の弾圧を受けた。万民共同会の抗議闘争により協会は再建されたが,改革要求は実現されぬまま12月に軍事弾圧を受けて協会は最終的に解散させられた。会員からはのちの愛国啓蒙運動・独立運動の活動家が輩出しており,独立協会は朝鮮のブルジョア民族主義運動の出発点といえる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「独立協会」の意味・わかりやすい解説

独立協会
どくりつきょうかい
Tokrip hyǒphoe

19世紀末,朝鮮で国家の自主独立と自由民権のために大衆運動を展開した政治団体。建陽1 (1896) 年7月に李商在,徐載弼,尹致昊,李完用らを中心に結成された。協会は機関誌『独立協会報』をもち,またハングル専用の『独立新聞』の発行,独立門建設活動などにより一般大衆の支持を受け,わずか3ヵ月で会員約1万名に達したという。こうして協会は民衆啓蒙団体から政治団体に変化し,軍事,財政,人事権にまで干渉するロシアを排除するため,市民を動員して万民共同会を開催して多くの成果を得た。また政府に無名徴税の全廃などを要求する一方,毒茶事件などをめぐって政府を指弾し,民衆の自覚を促した。協会は光武2 (98) 年 10月に官民合同による官民共同会を開催し,国政改善のための6ヵ条を決議した。しかし政府は決議案を空文化させ,協会幹部を懐柔,逮捕などのあらゆる手段を用いて弾圧し,同3年には皇国協会を示唆して流血事件を引起させ,独立協会を解散に追込んだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「独立協会」の意味・わかりやすい解説

独立協会
どくりつきょうかい

閔妃(びんひ)虐殺事件後、朝鮮、李朝(りちょう)政府のとった無定見な対外追従政策に反対する開明的知識分子が組織した団体。自主独立と内政改革・近代化を標榜(ひょうぼう)した。ロシア公使館で執務する国王高宗の帰還を要求したり、対清(しん)事大関係の象徴であった迎恩門、慕華館を、独立門、独立館にしたり、最初の国語新聞『独立新聞』を発行して、独立、民権思想の普及に努めた。また各種利権を求めてくる外国勢力の進出に反対し、政府に影響力を行使した。とりわけ1898年に開催した万民共同会と、その成果のうえに国王に提出した、外国人の利権要求を認めないなど六か条の改革案は、民衆の意思を反映した政治要求として知られている。保守反動派の妨害により失敗するが、愛国啓蒙(けいもう)運動の前提としての意味は大きい。

[姜 徳 相]

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