日本大百科全書(ニッポニカ) 「李完用」の意味・わかりやすい解説
李完用
りかんよう / イワニョン
(1858―1926)
大韓帝国期の政治家。韓国併合に強く関与したために、韓国では対日協力者という意味の「親日派」の代表とされている。
京畿道(けいきどう/キョンギド)広州(クァンジュ)生まれ。1887年、アメリカ公使館に勤務。1894年、金弘集(きんこうしゅう/キムホンジプ)内閣で外務協弁(外務次官)、1895年、朴定陽(ぼくていよう/パクチョンヤン)(1841―1904)内閣で学部大臣(文科大臣)を務めるとともに、親露勢力に接近した。
1896年2月、李完用らが高宗をロシア公使館に移して(俄館播遷(がかんはせん)、露館播遷ともいう)、親露派内閣の金炳始(きんへいし/キムビョンシ)(1832―1898)内閣が成立すると、外部大臣になる。1901年、一時政界を引退するが、1904年に復帰し、日露戦争で日本が勝利して以後、対日協力姿勢に転じた。1905年、朴齊純(ぼくせいじゅん/パクチェスン)(1858―1916)内閣で学部大臣となり、同年11月、韓国の外交権を日本に移す第二次日韓(にっかん)協約(乙巳(いっし)保護条約)の締結に賛成した。韓国では現在、このとき条約に賛成した李完用らを「乙巳五賊(いっしごぞく)」とよぶ。
1907年5月、参政大臣(6月より内閣総理大臣)となる。高宗が、第二次日韓協約の無効を訴えようとしてオランダのハーグに密使を派遣したハーグ密使事件が起こると、高宗に退位を迫って純宗(1874―1926)へ譲位させた。1907年7月、韓国の内政権を日本が掌握する第三次日韓協約に調印して、同年10月に日本国勲一等旭日大綬章を受章したが、これらに反発する民衆に自宅を焼かれ、独立運動家の李在明(りざいめい/イジェミョン)(1890―1910)に襲われ重傷を負った。
1910年8月、韓国併合条約に調印し、併合後は伯爵となる(1920年より侯爵)。朝鮮総督府の諮問機関である朝鮮総督府中枢院顧問などを務める。1926年(大正15)2月、死のまぎわに、大勲位菊花大綬章叙勲が決定された。
[武井 一]