王翬(読み)オウキ(英語表記)Wáng Huī

デジタル大辞泉 「王翬」の意味・読み・例文・類語

おう‐き〔ワウ‐〕【王翬】

[1632~1717]中国初の画家常熟江蘇省)の人。あざなは石谷。号は清暉主人・耕煙外史・烏目うもく山人など。人物山水画にすぐれ、南宗画なんしゅうが北宗画を集大成し、画聖と称される。四王呉惲ごうん一人虞山ぐざん派の祖。著「清暉画跋」。

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精選版 日本国語大辞典 「王翬」の意味・読み・例文・類語

おう‐き ワウ‥【王翬】

中国、清代初期の文人、画家。四王呉惲(ごうん)の一人。字(あざな)は石谷。号は耕煙外史、烏目山人など。江蘇虞山の人。南宋北宋の画を合一して、当代の画聖と仰がれ、虞山派の祖となる。(一六三二‐一七一七

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改訂新版 世界大百科事典 「王翬」の意味・わかりやすい解説

王翬 (おうき)
Wáng Huī
生没年:1632-1717

中国,清代初期の画家。虞山(ぐさん)(江蘇省常熟)の人。字は石谷。号は耕烟散人,剣門樵客,烏目山人ほか。四王呉惲(しおうごうん)の一人。文人の家柄に生まれ,幼少より同郷の画家張珂に師事し,元末四大家の黄公望の山水画風を学んだ。のち王鑑に見いだされて門下にはいり,王時敏にもついて江南の収蔵家の古画を臨摹(りんも)した。画法典拠を古画におき,南宗画(なんしゆうが)風を技巧的にこなし,画聖と称される。60歳のとき,康煕帝の詔により北京にのぼり,《南巡図》12巻を制作。賞により清暉(せいき)主人と号した。のち帰郷して画作と子弟養育に当たった。門下に王玖(おうきゆう),楊晋(ようしん),李世倬(りせいたく),徐溶,上睿(じようえい),王犖(おうらく),宋駿業(そうしゆんぎよう)らがおり,虞山派と呼ぶ。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「王翬」の意味・わかりやすい解説

王翬
おうき
(1632―1717)

中国、清(しん)代初期の画家。王時敏(おうじびん)、王鑑(おうかん)、王原祁(おうげんき)、呉歴(ごれき)、惲格(うんかく)とともにいわゆる四王呉惲(しおうごうん)の一人。字(あざな)は石谷、号は耕煙外史、烏目(うもく)山人、清暉(せいき)主人など。虞山(ぐざん)(江蘇(こうそ)省常熟県)出身で、若年より画を学び、20歳のとき虞山に来遊した王鑑に画才を認められ、師事する。のち王鑑の友人王時敏の指導を得た。この二大画家に学んで大成した彼の山水画は清代第一と称され、しばしば皇帝の命を受けて画作し、62歳のとき康煕(こうき)帝の『南巡図』12巻を2年の歳月をかけて完成している。その後故郷に帰り、86歳で没するまでの20年余、画事と弟子の育成に努めた。彼はあらゆる画風を消化し、南宗画(なんしゅうが)と北宗画とを融合し、清朝画院の南宗画化を促し、また清朝南宗画の一大画派として栄えた虞山派を開くなど、後世に大きな影響を残した。

[星山晋也]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「王翬」の意味・わかりやすい解説

王翬
おうき
Wang Hui

[生]崇禎5(1632)
[没]康煕56(1717)
中国,清初の画家。常熟 (江蘇省虞山) の人。四王呉 惲 (ごうん) の一人。字を石谷,号を耕煙散人,康煕帝の賜号にちなみ清暉主人とも号した。初め王鑑に見出され,のちに王時敏の弟子となり,南北二宗の画風を集成して新様式を完成したといわれる。画技は師よりも優れ,清代第一の画家として名声を得た。清代絵画に甚大な影響を与え,この画系を虞山派と呼ぶ。

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世界大百科事典(旧版)内の王翬の言及

【四王呉惲】より

…中国,清代初期の正統派文人画家を代表する王時敏,王鑑,王翬(おうき),王原祁(おうげんき),呉歴,惲寿平の6人。清初六大家。…

※「王翬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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