中国絵画における画派の一つ。北画ともいう。南宗画と対をなす概念で,明末万暦(1573-1619)のころ,董其昌や莫是竜ら華亭(今の上海市)の画家たちによって唱えられたいわゆる尚南貶北の論によって,宮廷画院系の職業画家たちの画が北宗画と呼ばれてけなされたのである。明においては,その前半には宮廷画院系の画が主流を占め,後半には蘇州を中心に成熟してきた市民の絵画,いわゆる呉派文人画が盛んになってきたが,16世紀前半,文徴明の活躍したころから文人画が優勢となり,16世紀の後半から17世紀初頭にかけて,董其昌が活躍したころになると,画といえばほとんどすべて文人画系のものとされるほどになり,あるいは多様化し個性派が輩出し,あるいは通俗化し文人画の職業化も普遍的となった。このような趨勢の中で,董其昌らは一時代前の文徴明と相前後するころ,すなわち文人画と画院系絵画とが拮抗し,あるいは後者がむしろ優勢といったころの職業画家たちを,みずからの呉派文人画に対する浙江の職業画家という意味で一括して浙派と呼んで攻撃目標にした。ここでは蘇州と杭州という伝統的な対抗意識もあるであろうが,画についての浙派という呼称は,董其昌のころにはすでに用いられていたらしい。
その由来は,画院系画家の始祖とされる戴文進が浙江の出身であること,画院系画家の出身地が,採用における地縁・血縁もあって浙江が多いことなどによるが,浙派と呼ばれる画家のすべてが戴文進系ではないし,その出身地も,様式や技法も多様である。董其昌らによって目標とされ,はなはだしくは狂態邪学とまでけなされた画家たちは,呉偉(湖北),王諤,鍾礼,朱端,汪質(以上浙江),汪肇(安徽),張路(河南),蔣嵩(江蘇),時儼,鄭顚仙,張復(復陽),沈仕,陳鶴,姚一貫(以上浙江)などで,とくに呉偉は筆墨の技巧を誇示し,彼以後の浙派では誇張的な表現と粗放な筆墨法が顕著となった。彼らは知性的で平明・典雅を尊ぶ文人画側からは俗悪と軽蔑されたが,この軽蔑は技巧・着想においては平凡な呉派文人画の側のコンプレクスの表われでもあり,万暦以後の文人画は浙派の技巧を陰に陽に取り入れている。北宗画とは以上の画家の画風を指し,広義には明代画院の画風を指すといえるが,その特色は主題こそ古めかしいが,濃厚な墨法と奔放な筆線によるダイナミックな画風にある。
ところが董其昌らは,北宗画の系譜をさかのぼらせて南宋画院の馬遠,夏珪,李唐,劉松年に基づけ,それらはさらに古く唐の李思訓に発するという。この系譜はかなり無茶なもので,李思訓は輪郭線でこまかくかたどって着色を施すいわゆる青緑(金碧)山水を描き,南宋画院はむしろ余白をうまく利用した構図と簡潔で洗練された筆墨法に特色があり,浙派となるとたしかに南宋画院の画風を受け継いでいるものの,そのほかに浙江地方に伝わった粗放な水墨画の伝統や,元代にまず文人画の側から興った復古運動,とくに北宋の李成・郭煕様式に基づく元代李郭様式の影響も強く,系譜自体には一貫性がなく,董其昌らの系譜づけによって浙派の具体的な実相はかえって曖昧になったといえる。
浙派の特色は人物画や花鳥画により顕著にあらわれるが,南宗画の深層に江南の山水画の伝統があったように,北宗画も華北の厳しい風景描写を抜きにしては考えられない。中国の山水画は黄河流域の風景描写を基にして発展を開始したといってよい。五代・北宋の近世初期において,広大な自然とまのあたりに対峙する感を与える華北山水画は,自我意識の高揚にも役立ったであろう。山水は行くべく望むべきものから居るべく遊ぶべきものへと展開するという北宋末の認識は,後者が市民社会の成熟に伴う文人画の理念とすれば,前者はまさに啓蒙期・草創期の理念である。行くべく望むべき大観的山水画の構成は,一片の江南と称される南宗画と違って,かなり技巧的に行われなければならず,それは高峰,幽谷,平原を組み合わせた構成主義的なものである。郭煕のいわゆる三遠法なるものもこれがためのくふうの一つであり,山石の堅さや険しさ,乾燥した平原の広がり,曲折する樹木を表すには筆(線)と墨(面)との間に,多様なタッチ(筆触,山や岩や樹木に用いられる皴法(しゆんぽう)など)の組織が必要であった。このような華北山水画を完成したのは,五代・北宋の荆浩,関仝(かんどう),李成,范寛らであるが,董其昌は彼らを南宗画の系譜に組み入れている。その点,問題をいよいよ錯綜させるが,北宗画の特色の一つとしては,構成主義的・技巧主義的な性格が顕著であるといえる。
→南宗画
執筆者:山岡 泰造
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中国、明(みん)代後期に莫是龍(ばくしりょう)、董其昌(とうきしょう)らが唱道した中国絵画南北両宗論から出たことば。禅宗の南頓北漸(なんとんほくぜん)に比したもの、あるいは地理上の南北に準じたものといわれる。南宗画の自然の感興を重んずる文人画的色彩の強い絵画に対して、技巧的な、職業画家による絵画を北宗画とし、その流れを、唐の李思訓(りしくん)・李昭道(りしょうどう)父子を祖として、宋(そう)の郭煕(かくき)、趙伯駒(ちょうはくく)、趙伯驌(ちょうはくしゅく)、馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)を経て、明の戴進(たいしん)、周臣(しゅうしん)らにつながり、呉偉(ごい)・張路(ちょうろ)・鍾礼(しょうれい)らいわゆる浙派(せっぱ)に帰着するものとした。彼らは職業画家、とくに画院に属する画家が多く、李父子の金碧青緑(こんぺきせいりょく)山水画、馬遠・夏珪の自然の一角を切り取り強調する「辺角の景」、呉偉らの荒々しい筆遣いによる自然や人物の個性的表現など、さまざまな姿を示している。一般的には南宗画の披麻皴(ひましゅん)(麻をほぐしたような柔らかい描線)の多用に対し、北宗画は斧劈皴(ふへきしゅん)(斧(おの)で割った跡のような力強い描線)を特徴とする。
明代に行われた「尚南貶北(しょうなんへんぼく)論」(南宗画を尚(とうと)び、北宗画を貶(しりぞ)ける)により、専門的職業画家の手になるいわゆる北宗画は、芸術的に一段と価値の低いものであると錯覚誤解されてきたのであるが、それは人々がその論に惑わされてきただけで、彼らの貶けるところの北宗画を除いては中国絵画史はまったく成り立たなくなる。いわばこの論は、明代詩書画に通じた文人たちの、職業画家に対する身分的優位とその絵画に対する嫌悪の情を表明したものであり、純粋な絵画史の追求ではなかった。なお「北画(ほくが)」とは日本での呼称で、中国とは意味内容を若干異にする。
[近藤秀実]
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…花鳥画についても五代・宋初から着色と水墨,写生と写意の2流が併存していたが,文徴明や董其昌にほぼ平行して陳淳や徐謂(じよい)が出て,水墨あるいは着色のつけたて,または粗放な水墨で写意的な花卉(かき)を描き,清初の惲恪(うんかく)も没骨(もつこつ)花卉を描いて,ともに南宗花鳥画の伝統を形成した。北宗画【山岡 泰造】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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