生村(読み)よもぎゆうむら

日本歴史地名大系 「生村」の解説

生村
よもぎゆうむら

[現在地名]岡崎市蓬生町

村域南部でおと川と支流の古部こぶ川が合流する地点と古部川沿いの里道に集落と耕地がある。東は古部村、西は秦梨はたなし村・茅原沢ちはらざわ村、南は切越きりこし村、北は標高三一一メートルの通称三河富士の頂上を境として古部村・栗木くりき村・須淵すぶち村および高薄たかすき(現額田郡額田町)と各々山で接する。

中世、乙見おとみ庄に属すという。室町時代には幕府奉公衆の小島氏の本領であった。小島氏は「足利氏所領奉行番文」に小島掃部助、「文安番帳」に小島新蔵人、康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」には「弐貫五百文 小島掃部助殿 参河国額田郡内四ケ所段銭」とある。長享元年(一四八七)の「長享常徳院江州動座着到」には小島蔵人丞・三州小島左京亮とある。小島氏は松平氏の配下に置かれた。

生村
かずろうむら

[現在地名]総和町葛生

柳橋やぎはし村の南に所在。東端を長井戸ながいど(現在は水田)東枝、西端も長井戸沼西枝が南北に通る。南北に台地が続く。南部は平地林であった。天文二年(一五三三)下野中内の郷士宗久らが移住し、荒地を開拓して葛の根より葛粉を製造して資財をなしたため葛生と称したと伝えられる。

長井戸沼西枝に臨む台地には多くの遺跡があり、萩山はぎやまA遺跡は弥生・古墳時代。萩山B遺跡・鍋隠なべかくし遺跡・宮戸井みやとい遺跡・いそA遺跡・磯ノ木B遺跡・仁階木にかいぎA遺跡・仁階木B遺跡・杉の木すぎのき遺跡は古墳時代で土師器・須恵器が出土。


いくしむら

[現在地名]美濃市生櫛

長良川左岸に位置し、東は松森まつもり村、下有知しもうち(現関市)。生串・猪串などとも記し、村は上下に分れる。当村辺りの長良川は流路をしばしば変え、中世以前は村の東側(小俣川付近)を流れていたとされる。村名は神に捧げる玉串(五十串)に由来すると伝える。「和名抄」にみえる武藝むげ郡九郷のうちの生櫛郷の遺称地とされ、現揖斐いび谷汲たにぐみ村の横蔵よこくら寺蔵の大般若波羅蜜多経奥書に、永和三年(一三七七)七月二九日に「武儀郡山口郷生串瘡神宮安室書写」とある。当地の生櫛神社蔵の大永三年(一五二三)二月吉日の若宮八幡社社殿葺替棟札に村名がみえる。慶長一六年(一六一一)当村は幕府領と金森氏旧臣の旗本肥田忠親領の相給となり、慶長郷帳では下いくし村四五三石余(肥田忠親領)・上いて村(上いくしの誤記)一一二石余(幕府領)

生村
ひうむら

[現在地名]小千谷市

信濃川が大きく湾曲する内側に位置。対岸は小千谷村。信濃川沿いの山寺やまでら中子なかご木津きづの集落は枝村である。近世にはひよ村・冬村とも記す例もある。慶長一五年(一六一〇)まで春日山藩堀氏領、元和二年(一六一六)まで高田藩領、同五年まで幕府領、天和元年(一六八一)まで高田藩領、享保九年(一七二四)まで出雲崎いずもざき代官所支配、宝暦一〇年(一七六〇)まで長岡藩預所、同一三年まで高田藩預所。

生村
あしうむら

[現在地名]美山町大字芦生

知井ちい一二ヵ村の一。由良川最上流の山間集落。四方山に囲まれ由良川下流に田歌たうた村があり、支流の佐々里ささり川をさかのぼると白石しらいし村である。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、鎌倉時代以降は知井庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、天保六年(一八三五)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高七・二七六石、旧高旧領取調帳では五四・五四四石。生業は農業を主とし、林業・麻糸製造なども営んだ。

生村
くしゆうむら

[現在地名]長浜町櫛生・沖浦おきうら須沢すざわ

ひじ川河口の南岸を占め、西側は伊予灘に臨む比高二〇〇―三〇〇メートルの断層崖海岸で平地に乏しい。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多郡の項に「櫛生村 茅山有」とある。「西海巡見志」によって寛文七年(一六六七)頃の村勢をうかがうと、

<資料は省略されています>

とある。沖浦村・洲沢村は櫛生村の枝集落。「大洲秘録」には「米・大豆・タバコ・薯・胡麻・麦」の農産物をあげ、「土地悪しけれ共、民家繁昌して貧乏者少し間々富家有」として元文五年(一七四〇)頃の村況を伝えている。

生村
あしゆうむら

[現在地名]大沢野町芦生

神通川東岸に位置し、北はうしませ村、南は今生津いもづ村。塩の多久比礼志しおのたくひれし神社の社記に、天武天皇の時代、林弥鹿岐が礪波となみから船出して塩を求めて笹津ささづ・芦生へ来たという伝えがあり、宝暦一四年(一七六四)の調書(三州旧蹟志)に「塩壁山、高さ拾一間程、横七間程(中略)右山崩口晴天之時分、所々小石共白き塩のやう成砂かたまり吹出し、少々塩之味有之」とある。正保四年(一六四七)の「越中道記」によれば、牛ヶ増村まで八町、今生津村まで七町で、「芦生村より飛州国境迄ハ片岸かんへきニ而上下坂多御座候、乍去牛往来仕候、然共雪降十月より明ル三月迄牛も通路無御座候」と記される。

生村
うりゆうむら

[現在地名]都農町川北かわきた

都農町の西、東流する都農川中流右岸に位置する。南には三日月みかづき原が広がる。瓜生とも記される。南北朝期と推定される年月日未詳の某坪付写(伊東文書)には「新納野へう内ニ以上三町うりう」とみえ、この頃伊東氏の知行地であった。また南北朝期の土持氏の所領を示すとみられる年月日未詳の野別苻坪付(土持文書)に、野別苻のびゆうの内としてみえる「下とゝろ」は当地の下轟しもとどろとみられる。江戸時代は野別府のびゆう川北郷に属した。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領知目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)に村名がみえ、同年の高鍋藩領地覚(隈江家記)では高六九八石余。

生村
よもぎむら

[現在地名]勝山市遅羽おそわ町蓬生

禅師王子ぜぜおうじ山北支脈の東麓中央部に位置し、南は北山きたやま村・大袋おおぶくろ村。北は比島ひしま村の枝村中島の鵜島うのしまの渡によって勝山城下に至り、西は蓬生坂を越えて遅羽口おそわぐち村に至る。村名は、天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)に「遅羽村之内蓬生村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報