農業政策(読み)のうぎょうせいさく(その他表記)agricultural policy

日本大百科全書(ニッポニカ) 「農業政策」の意味・わかりやすい解説

農業政策
のうぎょうせいさく
agricultural policy

国などの権力主体(政策主体)が、その領域内の農業を一定の方向(政策目標)に誘導するため、さまざまの手段(政策手段)を用いて、農産物ならびに農業生産要素市場に介入すること。一般に経済政策の一分野とされる。政策主体は、国であることが多いが、国を超える場合(ヨーロッパ連合=EUの共通農業政策)や、地方自治体である場合(自治体農政)もある。用いられる政策手段の主要なものとしては、(1)法令や行政指導による制度的規制、(2)財政投資や補助金の交付、(3)行政価格の設定、などがある。

[山本 修]

経済発展と農業政策

農業政策の内容は、経済発展とともに変化する。経済発展の初期においては、工業化に必要な労働力や資本、それに食料を供給する必要から、土地制度の整備や食料農産物の増産が主要課題となる。日本の場合も、明治初期の地租改正、それに続くさまざまの形での農業生産力増強政策はこのようなものであった。この段階では、どちらかといえば、農業は搾取される対象であったといえよう。

 しかし、経済発展がある程度進むと、農業の相対的地位の低下につれて農工間の不均衡発展が問題となり、農業保護が主要な政策課題となってくる。日本でも大正中期以降は、米価安定対策や小農保護対策が農業政策の主流をなしてきた。とくに1930年代の農業恐慌を契機に農業保護政策はいっそう強化された。

 第二次世界大戦中および戦後の食料不足の時期には農業に対する統制が強化され、食料増産が至上命題とされたが、1950年代に入るとふたたび農業保護政策が主流となった。一方、敗戦後の1946年(昭和21)には画期的な農地改革が実施され、農地所有構造は寄生地主制から自作農制へと一変した。

 1961年の農業基本法の制定によって農業政策の基調は大きく変化し、生産性の向上、生産の選択的拡大、自立経営の育成などが政策課題とされたが、現実には依然として農業保護的政策がとられ続けてきた。しかし1980年代に入って、米をはじめとする農産物の過剰傾向、内外からの農産物輸入自由化要求と保護農政批判の高まりのなかで、日本の農業政策も、産業として自立しうる農業を確立する方向へ向けて転換を迫られてきた。

 1990年代になって日本の農業政策はさらに大きく転換した。1993年末のガット(GATT、関税および貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンド農業合意の成立によって、農産物の国境調整措置だけでなく、国内の農業保護政策も強く国際的な規制を受けるようになり、また国内での市場原理優先の傾向もいっそう強まってきた。その反面、輸入農産物の増大に伴う食糧自給率(食料自給率)の低下(1999年度の供給熱量自給率=カロリーベースの自給率は40%)に対し、将来の世界の食料需給動向の不安定性に配慮して、自給率の向上を図るべきだとする意見や、農業のもつ食料供給機能以外の多面的機能(国土の保全、水源の涵養(かんよう)、自然環境の保全、景観の形成、文化の伝承等の機能)を重視すべきだとする見解も強まってきた。このような潮流のなかで1999年(平成11)11月農業基本法にかわる食料・農業・農村基本法が制定された。この法律では、食料・農業・農村政策の基本理念として、食料の安定供給の確保、多面的機能の発揮、農業の持続的な発展、農村の振興の四つが掲げられた。さらに、2000年3月には、基本法に掲げられた基本理念や施策の基本方向を具体化し、それを的確に実施してゆくための基本的な計画として食料・農業・農村基本計画(今後10年程度を見通して策定。おおむね5年ごとに見直し、変更を行う)が策定された。この基本計画では、食糧自給率の目標(2010年度で供給熱量自給率45%)が掲げられたことが大きな特徴である。

[山本 修]

農業政策の種類と実態

農業政策の分野はきわめて多岐にわたっているが、その主要なものは、農業生産政策、農産物価格政策農業構造政策の三つに分類できる。

[山本 修]

農業生産政策

農業生産政策とは、生産(作目構成)を一定の方向に誘導する政策と、生産性を向上するための政策である。前者の代表的なものとしては、高度成長期における畜産、野菜、果樹などの選択的拡大対策および1970年代以降進められてきた水田における米から他作目への転換対策があげられる。さらに2000年に策定された食料・農業・農村基本計画では食糧自給率の向上のため主要作目・畜産物についての2010年度に向けての生産努力目標が示され、その実現のための施策課題が明らかにされている。とくに国際競争力が弱く自給率の著しく低い麦、大豆等については、大幅な増産が計画されているが、そのためには生産コストの3割程度の削減が不可欠とされている。

 後者に属するものとしては、農業生産基盤の整備対策、機械・施設などの近代化対策および農業技術の開発・普及対策がある。このうち農業生産基盤整備対策については、1990年代後半になって、生態系等自然環境の破壊につながるとか、効果のあがらないむだな投資が多いといった批判が強まり、いくつかの事業は中止された。前述の基本計画では「生態系等の自然環境の保全や美しい景観の形成等環境との調和に配慮しつつ、事業採択に当たっての適切な費用対効果分析等による事業効果の評価を通じた事業の効率的実施を旨として」農業生産基盤整備対策を講ずるものとされている。

[山本 修]

農産物価格政策

農産物価格政策は、政府が市場に介入することによって農産物価格を一定または一定の幅の範囲内に安定させる政策である。そのもっとも代表的なのは食糧管理制度に基づく米価対策であった。そのほか、麦、大豆、繭・生糸、食肉、原料乳、乳製品、タバコなどについても、さまざまな形での価格安定ないし支持政策がとられてきた。政府による価格支持は、農家の所得の安定・維持には役だってきたが、ややもすれば需給の不均衡をもたらしがちであり、また生産性向上の成果が反映されないきらいがあり、さらに農産物の内外価格差増大の原因ともなっていた。

 1990年代に入って市場原理が重視されるようになり、農産物価格の形成に直接政府が介入する方式は逐次廃止されてきている。米については1990年10月から自主流通米についての入札が開始されたが、1994年食糧管理制度が廃止され、新たに「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」(食糧法)が制定された結果、流通する米の大部分が銘柄ごとの需給を反映した価格で取引されるようになった。麦については従来国産麦のほとんどが政府の管理下にあったものが、1999年度から一部入札が導入され2000年産から民間流通に移行し始め、2005年産は全量民間流通となり、2007年、政府無制限買入制度が廃止された。大豆も従来の不足払い制度が廃止された。ほかの作物・畜産物についても順次この方向に沿って価格政策の見直しが進行中である。

 ただ農産物の生産は天候に支配されやすいため、価格が不安定となり、とくに価格が著しく低下した場合に農業経営に大きな影響を与える。この影響を緩和するため、米については1998年産米から、生産者の拠出と政府の助成によって創設した資金を用いて、基準となる価格と下落した価格の差額の一部を補填(ほてん)する稲作経営安定対策が実施された。同様の仕組みは麦・大豆等についても導入されつつある。さらに個々の品目ではなく、農業経営全体として価格変動に伴う農業収入や所得の変動を緩和する仕組みについても検討中である。

 これと関連して、1990年代に入ると農産物輸入に関する国境措置(関税、輸入制限等)も大きく緩和された。それまでは、米、麦については国家管理貿易であり、米については完全自給を図るため原則として輸入を認めていなかった。また、牛乳・乳製品、牛肉、オレンジ等についても国内農業保護のため輸入制限措置がとられていた。しかし、とくにアメリカからの輸入自由化を求める圧力が強まり、輸入制限措置はしだいに緩和されてきたが、ついに1990年には牛肉、オレンジの輸入が自由化された。1986年から始まったウルグアイ・ラウンドの農業交渉は当時のヨーロッパ共同体(EC)とアメリカ、農産物輸出国と輸入国との対立が厳しく難航したが、1993年末ようやく合意に達し、日本は米について、関税化を猶予する特例措置を認められたものの、1995年から6年間毎年増大する最低限の量の輸入(ミニマム・アクセス)を義務づけられることとなり、さらに1999年には米の関税化に踏み切った。その他の農産物についても輸入制限措置は原則的に廃止された。

 1995年ガットにかわってWTO(世界貿易機関)が設立され、2000年から新ラウンド(新多国間交渉)が開始されることとなり、その協議分野を決めるため1999年11月に開かれたWTO閣僚会議において、日本は農業の多面的価値の重要性、食料安全保障への配慮、輸出入国間の権利・義務のバランスの確保を強調した提案を行ったが、この会議は各国の利害を調整できず、結局決裂した。2001年からはドーハ・ラウンドが始まり、農業分野では、関税・国内補助の削減、輸出補助金の撤廃等に関する交渉が行われ、日本は米の関税率引下げを迫られているが、2009年4月現在、合意には至っていない。

[山本 修]

農業構造政策

農業構造政策は農業経営構造の改善をねらいとする政策である。とくに日本では、零細農耕制からの脱却が最重要課題であり、農業基本法制定以来重視されるようになってきた。構造政策のための政策手段として重要なのは、農地制度である。1952年制定の農地法は、農地改革の成果を維持することを目的とし、自作農主義をたてまえとしていて、借地による規模拡大に対してはきわめて厳しい制限が付せられていた。しかし、地価の高騰のために、農地の購入(所有権移転)を通じて規模の拡大を図ることはほとんど不可能であった。農地法は1962年、1970年に改正され、とくに1970年の改正によって借地に対する制限はかなり緩和されたが、農地の流動化はそれほど進展をみなかった。1975年に「農業振興地域の整備に関する法律」が改正されて農用地利用増進制度が創設され、農地利用権の自由な賃貸借が認められるようになった。1980年制定の農用地利用増進法でこの制度はさらに拡充された。1995年にはこの法律にかわって、農業経営基盤強化促進法が制定され、効率的かつ安定的な経営(2000年の食料・農業・農村基本計画では「主たる従事者が他産業従事者と同等の年間労働時間で地域における他産業従事者とそん色ない水準の生涯所得を確保し得る農業経営」とされている)を育成し、これらの農業経営が農業生産の相当部分を担う農業構造を確立することが構造政策の目標とされ、このような農業経営に向けて経営改善を計画的に進めようとする農業者への農地の利用の集積、経営管理の合理化等の経営基盤強化を促進するための総合的措置を講ずることとされた。

 この方針は新しい基本法・基本計画にも受け継がれた。とくに専業として農業を営むものなど経営意欲のある農業者が創意工夫を生かした農業経営を展開できるようにするため、経営管理の合理化等の条件を整備して、家族経営の活性化と法人化の推進を図り、さらにこのような育成すべき農業経営に諸施策を集中することとしている。また、農業法人については、それまで株式会社形態のものは認められていなかったが、2000年の農地法改正によって、株式譲渡についての制限を設けたうえで株式会社形態の農業法人が認められることとなった。新しい基本法・基本計画では、また、新規就農者の育成、女性の参画の推進、高齢農業者の活動の推進とともに、集落等を基礎とする農業生産組織の活動の推進も掲げており、このような多様な担い手によって農業の持続的な発展を図ろうとしているといえる。そのため新しい基本法制定後、構造政策は農業経営政策とよばれるようになった。

[山本 修]

今後の展望

以上の政策のほか、1980年代以降農村の生活環境整備のための対策がとられてきたが、新しい基本法では農村の振興を基本理念の一つとして取り上げ、地域の農業の健全な発展を図るとともに、景観が優れ、豊かで住みよい農村とするため、農業生産基盤の整備と並んで、生活環境の整備や福祉の向上を総合的に推進することとしている。とくに農業の生産条件が不利なため過疎化が進行し耕作放棄地が増大している中山間地域については、1990年代以降新規作物の導入、地域特産物の生産・販売を通じた農業や他産業の振興による就業機会の増大、生活環境整備による定住の促進等の対策がとられてきたが、2000年度からは、新しい基本法に基づいてとくに耕作放棄を防止し多面的機能の維持を図るための生産者に対する直接支払い制度が導入された。

 農業政策の形成に際しては、従来、農業団体などの働きかけによって政治が過度に介入するという事例が少なくなく、かならずしも日本農業の体質強化につながらなかった。新しい食料・農業・農村基本法のもとでは、日本農業いかにあるべきかについての国民的合意に基づいて、合理的で適正な農業政策の形成がなされることが望まれている。

[山本 修]

『速水祐次郎著『農業経済論』(1985・岩波書店)』『大内力著『日本農業論』(1978・岩波書店)』『生源寺真一著『農政大改革――21世紀への提言』(2000・家の光協会)』『村田武・三島徳三編『農政転換と価格・所得政策』(2000・筑波書房)』『『図説食料・農業・農村白書』各年版(農林統計協会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「農業政策」の意味・わかりやすい解説

農業政策 (のうぎょうせいさく)
agricultural policy

政府の行う経済政策のうち,農業を対象としたものをいう。農業を自由放任するというのも一種の農業政策であるが,通常は,自由放任しておいたのでは農業が思うように良くならないと判断し,政府が介入するために,農業政策がとられている。その際,価値判断の基準とされるのが主として次の二つである。(1)生産力基準 豊富に農産物が供給されるかどうか。これも平時に安く供給する能力があるかだけを問うのと,非常時にも供給を確保できる潜在的能力があるかを問うのとでは結論は大いに違ってくる。(2)社会問題的基準 生産者は妥当な生活水準を享受しているかどうか。昔はこのほか,たとえば農村が強い兵士の給源として役立っているかどうか,というような基準が重視されがちであった。近年は良好な環境が保持されているかどうかを重視する傾向も現れている。農業政策を,それが主として目指している目的によって分類すると,(1)の生産政策と(2)の所得政策とに大別される。

農業政策をその目的ではなく手段で分類すると,価格政策,低利融資政策,補助金政策,構造政策,等々ということになる。目的を生産の増大においている政策を例にとって解説しよう。新技術の開発と普及は,農業経営者や農業間連企業だけに任せておいたのでは,不十分なことが多い。だから農業技術の研究所はどんな国でももつし,普及組織もたいていの国がもっている。それが本来的な生産政策だといってよいだろう。しかしそれだけでは不十分な場合がありうる。ある地方での新技術の先駆者となる農民の場合,思わぬ事態が生まれても相談できる人がなくて大失敗する危険があり,その危険をおそれて尻込みする,といったようなことがしばしばあるからである。そんな場合,補助金が先駆者を勇気づけることができよう。技術そのものに不安がなくても,市況の見通しに不安がある,ということがボトルネックになっているとすれば,価格安定政策が生産政策として機能できる。価格支持政策にしても,所得政策の一環としてしか理解されない傾向があるが,同時に生産を刺激する効果をもつことはいうまでもない。ただ,条件いかんによっては,価格支持政策は高コスト農家の温存という悪い効果をもたらすことがありうるが,そんな場合に限って,価格支持政策は生産政策ではない,といえるのである。なお,日本の1976年以前の麦価政策のように,価格支持の形をとってはいたものの,実は国内の小麦粉や配合飼料の価格安定をねらった運営をされていて,国際価格暴騰時には高い外麦を大量に輸入して国内に輸入価格より安く売り,外国の農民を喜ばせていた,といった例もある。自国の農業生産を促進しない価格政策もありうるのであり,政策の名前だけで内容を判断し,分類してはなるまい。

 価格(安定・支持)政策や補助金政策,融資政策以外に,重要な政策手段として構造政策がある。農地の所有や経営の構造に政府が直接介入することにより,生産力の増大,または所得分配の公正化をねらおうというものである。たとえば第2次世界大戦の直後,日本で実施された農地改革は,農地の所有構造に直接に手を触れたものであった。そのねらいは,GHQの〈農地改革に関する覚書〉(1945年12月)では,〈封建的不在地主ノ抑圧ニ依ル束縛……カラノ解放〉だとされ,社会問題的視点が強調されていたのに反し,日本の議会に政府が提出した〈自作農創設特別措置法案〉ではむしろ,〈農業生産力の発展〉のほうが強調されたりしたが,その間に矛盾はなかった。発端は軍国主義日本の民主化にあったけれども,小作地の所有権を農民に移し所得の分配状況を変えたことが農民の増産意欲を高め,戦後の食料危機をしのぎやすいものにした効果には,疑問の余地はないからである。

18世紀から19世紀の半ばまで,イギリスで遂行されたエンクロージャーといわれる土地整理も,構造政策の代表的なものである。中世的な三圃制のもとで,密居集落に住む農民が,村内の各所に散在する幾多の小地片を耕すという農耕法を改め,耕地を1戸1団地の農場状態に変え,垣根で囲って思い思いの輪作をし放牧するのが,生産力の最も早い向上方法だとされたのである。アメリカのように原住民を追い払ったあとの処女地であれば,その当時の生産力が要求するとおりの農場を区画することもできよう。だが伝統のあるヨーロッパの既耕地では,そうはいかない。隣の土地を耕す農民が没落するのを待つか,村じゅうの話合いで徹底的な交換分合を行うかである。まだ夜逃げをするほどではないが,垣根などに金をかけるより三圃式農法を続けているほうがよい,という程度の農民の多いことが,地主や富農にとっては目障りでならなかったらしい。そこでイギリスの政府は,土地整理の賛成者が,人数の大多数ではなくて面積の大多数を占めたとき,その村において土地整理を強行できるようにするという政策をとった。イギリス政府自体が農場の規模について政策目標を設定したわけではないが,土地整理の費用に耐えられない小農は土地を手放したし,大土地所有者が土地整理後は大規模借地農に土地を貸したがったこともあって,18~19世紀のイギリスはヨーロッパには珍しい大規模農業を実現させている。そのイギリスの土地整理政策をドイツが学び,さらにそれを日本が学んで始めたのが耕地整理事業である。ところが日本の耕地整理事業は周知のように,生産政策の一環としての土木事業という意味しかもたなかった。少なくとも1960年まではそうであった。似た名前の政策でも,国が変われば意味もまったく変わってくることを示す例である。

 資本主義の政府が,農業経営の規模を拡大したいという意思表示をはっきりとして構造政策を展開するようになったのは,1950年代末以降である。アメリカはトラクタリゼーションを,ヨーロッパ大陸諸国に比べれば弱い価格支持政策のもとで,構造政策ぬきで,1930年代に穀作部門について完結できたけれども,フランスや西ドイツはそうはいかなかったからである。工業ならば,強い企業はまず自由に規模を拡大して,生産物市場から弱小企業を駆逐する。たが農業では,まず土地市場で弱小経営を駆逐しないことには規模の拡大もできない。そういう農業の特徴が,古い歴史のある国ほど農業経営の規模拡大を妨げており,したがってなんらかの構造政策を必要とするという関係にある。西ヨーロッパの構造政策で理想像とされているのは,1夫婦または親子2夫婦が農業に専従し,諸機械をフルに利用しているような規模の経営である。日本の農業基本法(1961)も同様な〈自立経営〉の育成を政策目標として掲げた。しかしその後の自由民主党の政治は,同法を無視しているかのようであり,同法を改正する労さえ惜しんで,補助金(農業補助金)のばらまきを続けている。しかもその補助金には,生産政策として無意味に近いもの,選挙のための集票策でしかないという感じさえするものが,まれでない。

他方で,社会主義諸国の農業政策は,構造政策偏重であり,農業集団化さえすませてしまえば,それだけで万事うまくいくかのように判断している傾きがあった。スターリン時代のソ連,東欧がとりわけそうであり,価格政策はむしろ農業を収奪して重工業建設の財源をつくるためのもの,と位置づけられているかのようであった。スターリンの死後,価格政策なしでは国民の食生活を豊かにするほどの食糧供給も得られないことがしだいに認識され,農政も手直しが進んでいる。しかし,集団農業の生産性があまり上がらないとあれば,大合併を進めるとか,国営農場に吸収するかというふうに,〈大きくしさえすればよい〉式で,構造政策が安易に乱用される傾向はやはり強い。しかし,家族農業中心の農業政策を展開している社会主義国もある。スターリンにより早くから異端者扱いされたユーゴスラビアは別格としても,ポーランドがそうである。ポーランドは1950年代から農業集団化政策に対する抵抗が強く,小農が土地の80%以上を耕しつづけていたが,政府としてはやはり集団化政策を断念せずにきていた。小農にはトラクターを売らないとか(1960年代),後継者のいない小農の土地は老人年金を餌に国有化するとか(1970年代)の小農安楽死政策をとり,反面で国営農場を補助金政策でうるおしてきた。しかし1980-82年の経済破綻(はたん)と独立自治労組〈連帯〉の運動があり,ヤルゼルスキ首相は小農の永遠性を認めると宣言した。一時しのぎの思いつきでないとすれば,注目に値しよう。

 中国ではスターリン主義的な価格大系の見直しが,やっと1979年華国鋒主席によってなされはじめ,80年に実権を握った鄧小平は,生産の各戸請負制(初めは容認しただけだったが後には奨励に転化)へと踏み切った。土地の所有権は集団に残されているが,事実上の家族農業である。似たシステムはハンガリーでも1960年代末からとられたことがあるが,機械化が進むにつれて廃止していくという条件つきであり,実際にもまた実施面積を縮小しつつあるという。しかし中国の場合,各種の農業機械を農民の各戸,または数戸共同に,売ったり貸したりする試みを広げている。社会主義国の農業は今後,集団農業の道を選ぶにしても,小ぢんまりした集団のほうが優れているということになるかもしれない。
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