日本大百科全書(ニッポニカ) 「駿府藩」の意味・わかりやすい解説
駿府藩
すんぷはん
江戸初期および明治初年に駿河(するが)国府中(ふちゅう)(静岡市)に置かれた藩。駿河府中藩の略称で、駿府が安倍(あべ)郡に属するところから安倍藩ともいった。今川、武田、徳川そして豊臣(とよとみ)など各氏の支配を受けたこの地は、1600年(慶長5)豊臣系大名中村一氏(かずうじ)の子忠一(ただかず)が伯耆米子(ほうきよなご)に転封され、翌年伊豆韮山(いずにらやま)で1万石を領した徳川家康の譜代(ふだい)内藤信成(のぶなり)が4万石で就封、駿府藩(安倍藩)を立藩した。領地は安倍、有渡(うど)、庵原(いはら)の3郡内に広がっていた。06年信成は近江(おうみ)長浜に転封となったが、これは家康の駿府隠退にかかわる措置である。家康は駿府城を修築して07年ここを居城とするとともに、09年には水戸にいた十男頼宣(よりのぶ)に駿河、遠江(とおとうみ)両国(静岡県)で50万石を与え、ここに移らせた(頼宣の城地は遠州横須賀(よこすか)とする予定であったが、幼少であることから家康と同居する形になったという)。頼宣が名実ともに駿府藩主となりえたのは、家康が没した1616年(元和2)以降であった。しかしこの頼宣も19年には紀州和歌山に移り御三家(ごさんけ)の一つになった。頼宣転封により一時廃藩となったが、1624年(寛永1)将軍家光(いえみつ)の弟忠長(ただなが)(駿河大納言(だいなごん))が駿府に移り、駿河、遠江および甲斐(かい)(山梨県)3国で50万石(55万石説もある)を領し再立藩した。忠長は大井川に船橋を架けたり、丸子山の猿(浅間(せんげん)神社の神獣)を退治したため、これらが原因となって将軍家光の勘気に触れ、31年甲府で蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、翌32年所領は没収されたため廃藩となった。以来駿府城は駿府城代あるいは加番(かばん)らの番城となっていた。1868年(慶応4)5月、徳川氏の処分が行われ、家名は田安亀之助(たやすかめのすけ)(徳川家達(いえさと))を相続人にするということで存続が許され、かつその領地も駿河、遠江、三河(愛知県)の3国において70万石が与えられ再度立藩した。駿府藩とりわけ府中の名は不忠に通ずるとの同藩学問所頭取向山黄村(むこうやまこうそん)らの建議により、駿府あるいは府中を静岡と改称、静岡藩となった。1871年(明治4)廃藩置県により廃藩となった。
[若林淳之]