日本大百科全書(ニッポニカ) 「静岡藩」の意味・わかりやすい解説
静岡藩
しずおかはん
1868年(慶応4)8月、駿府(すんぷ)(静岡市)を城地とし、徳川家達(いえさと)(田安亀之助(たやすかめのすけ))によってたてられた藩、初め駿府藩、府中藩とよばれた。大政奉還後、将軍徳川慶喜(よしのぶ)は、鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れ朝敵とされたが、静寛院宮(せいかんいんのみや)(和宮(かずのみや))らの宥免(ゆうめん)運動が功を奏し、徳川宗家は田安亀之助を慶喜の後継者とすることで家名の存続が許され、所領も70万石に削られはしたものの、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)および三河を与えられた。当時、駿府は府中ともよばれていたが、藩学問所頭取向山黄村(むこうやまこうそん)らの、府中は不忠に通ずるため改名すべしとの建言をいれ、1869年(明治2)6月20日、静岡(藩)と改名した。静岡に移った徳川宗家は家老平岡丹波(たんば)を中心に大久保忠寛(ただひろ)(一翁(いちおう))らの俊吏らにより、富国強兵を藩是とした積極的領内経営を展開した。すなわち、外国帰りの渋沢栄一の発案による商法会所(のち常平倉(じょうへいそう)会所)の設立、外人教師を招いての駿社学問所や西周(にしあまね)らによる沼津兵学校・同付属小学校などの開設、さらには無禄(むろく)移住をしてきた旧幕臣に帰農を勧め牧ノ原・三方原(みかたはら)などでのチャ栽培の開始などがそれである。また有能な幕臣が多く、中村敬宇(けいう)が『西国立志編(さいごくりっしへん)』をここで訳出・出版するなど、静岡藩の文化水準の高さをも示していた。71年廃藩置県により静岡県となる。
[若林淳之]