田仲荘(読み)たなかのしょう

百科事典マイペディア 「田仲荘」の意味・わかりやすい解説

田仲荘【たなかのしょう】

紀伊国那賀(なか)郡にあった摂関家領の荘園で,現和歌山県内田(うちた)町の南半域に比定される。田中とも書いた。成立時期は不明。12世紀初めには摂関家領となっており,1110年藤原忠実(ただざね)から得分(とくぶん)の一部が近江日吉社(日吉大社)に法華八講(ほっけはっこう)料として寄進されている。この寄進と法華八講開始のことは中世には有名で,《平家物語》にも取り上げられている。その後近衛家領となるが,近衛家は荘務(しょうむ)権をもたず,領家職は浄土寺門跡(もんぜき)が室町末期まで伝領した。平安時代の後期から末期にかけ当荘預所(あずかりどころ)の佐藤仲清・能清父子は平家の威を借り(のちには鎌倉の下知と称して),南隣する荒川荘侵略,激しい境相論を起こした。特に能清は折からの源平争乱のなかで,荘内に城を構えて軍兵を集め,荒川荘に乱入したという。しかし能清の行動は源頼朝の支持を得られず,紛争は1186年に終息した。なお《尊卑分脈》には,歌人西行(俗名佐藤義清)は仲清の弟として記載されている。鎌倉時代には湯浅一族と党結合を固めている田中氏が地頭であったようである。15世紀半ば荒川荘内にあった当荘の入会山について紛争が起き,この山林相論は近世にも継続した。

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改訂新版 世界大百科事典 「田仲荘」の意味・わかりやすい解説

田仲荘 (たなかのしょう)

紀伊国那賀郡(現和歌山県紀の川市,旧打田町・旧桃山町)の荘園。11世紀の成立と推定される摂関家領荘園で,1110年(天永1)藤原忠実(ただざね)によって得分(とくぶん)の一部が日吉神社の法華八講料にあてられている。鎌倉時代には近衛家領となったが,近衛家は荘務権を有せず,領家職(りようけしき)は僧円基(近衛基通の子),僧慈禅(近衛兼経の弟)を経て,その法系である浄土寺門跡(もんぜき)が室町末期にいたるまで伝領した。12世紀後半の56年(保元1)以降,紀ノ川南岸の耕地をめぐって荒川荘との間に激しい堺相論が起こった。田仲荘の預所佐藤仲清・能清父子が平家の威勢を背景に押領を企てたためであるが,彼らの行動は鎌倉幕府に支持されず,紛争は86年(文治2)をもって終息した。なお《尊卑分脈》の記述を信じれば,仲清の弟は歌人として著名な西行(さいぎよう)(俗名佐藤義清)である。鎌倉時代には田中氏を称する武士がおり,湯浅党の一員となっている。室町時代にも荒川荘との紛争がみられるが,これは紀ノ川以南にあった田仲荘の入会(いりあい)権をめぐって起こったものらしい。
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世界大百科事典(旧版)内の田仲荘の言及

【荒川荘】より

…59年(平治1)美福門院が鳥羽上皇の菩提を弔うために高野山に寄進し,金泥一切経蔵料所とされた。成立当初より摂関家領田仲・吉仲両荘などとの間に領有をめぐる紛争があり,とくに田仲荘の預内舎人佐藤仲清・能清父子の侵攻は鎌倉初期まで執拗(しつよう)にくりかえされた。これは田仲荘域が紀ノ川以南まで及んでいて,荒川荘の北辺との境界があいまいであったためであろうが,高野山は64年(長寛2)在家70宇,田畠14町余を寺僧に配分する免家・分田支配を他荘にさきがけて創設し,これに対抗した。…

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