百科事典マイペディア 「荒川荘」の意味・わかりやすい解説
荒川荘【あらかわのしょう】
→関連項目神野真国荘
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紀伊国那賀郡(現和歌山県紀の川市,旧桃山町)の荘園。1129年(大治4)園城寺長吏行尊の寄進により鳥羽院領として成立。荒川郷の荘園化したものと考えられ,35年(保延1)の検注では田36町余,畠53町余,在家31宇となっている。しかし鎌倉中期の田数は101町余であって,厳密な検注が実施されたかどうか疑わしい。59年(平治1)美福門院が鳥羽上皇の菩提を弔うために高野山に寄進し,金泥一切経蔵料所とされた。成立当初より摂関家領田仲・吉仲両荘などとの間に領有をめぐる紛争があり,とくに田仲荘の預内舎人佐藤仲清・能清父子の侵攻は鎌倉初期まで執拗(しつよう)にくりかえされた。これは田仲荘域が紀ノ川以南まで及んでいて,荒川荘の北辺との境界があいまいであったためであろうが,高野山は64年(長寛2)在家70宇,田畠14町余を寺僧に配分する免家・分田支配を他荘にさきがけて創設し,これに対抗した。当荘には地頭はおかれなかったが,93年(建久4)在地で勢力のあった公文盛景が追放され,以後高野山の直務支配が確立する。ところが鎌倉後期の弘安年間以降,悪党事件が発生し,この鎮圧に高野山は手を焼いた。悪党の張本は源為時(法心)といい,荘内の山門末寺高野(たかの)寺の僧でもあった。荘外に追放されても,隣荘吉仲荘の縁者にかくまわれて還住し,1291年(正応4)には吉仲・名手両荘の悪党と結んで,多くの女人・牛馬を殺害,百姓の家屋に放火して資財雑物を略奪している。この悪党事件の結末はつまびらかでないが,高野山は自力では解決できず,しだいに幕府権力に頼らざるをえなくなっていく。1412年(応永19)から翌年にかけて,南北朝内乱で退転した寺領を再建するため,大検注が実施され,惣田数93町9反余,分米274石余が把握された。しかし再建の実は必ずしもあがらず,農民の年貢減免要求がくりかえされて59年(長禄3)には百姓請が成立した。当荘の荘官は高野山の寺僧が任命されるのが原則であったが,現地では平野・奥両氏がそれぞれ下司代,公文代として力をもっていた。
執筆者:小山 靖憲
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…鎌倉時代には近衛家領となったが,近衛家は荘務権を有せず,領家職(りようけしき)は僧円基(近衛基通の子),僧慈禅(近衛兼経の弟)を経て,その法系である浄土寺門跡(もんぜき)が室町末期にいたるまで伝領した。12世紀後半の56年(保元1)以降,紀ノ川南岸の耕地をめぐって荒川荘との間に激しい堺相論が起こった。田仲荘の預所佐藤仲清・能清父子が平家の威勢を背景に押領を企てたためであるが,彼らの行動は鎌倉幕府に支持されず,紛争は86年(文治2)をもって終息した。…
※「荒川荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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