比叡山系の東麓
社名の表記は日吉・比叡・裨衣・日枝の四とおりがある(日吉社禰宜口伝抄)。本来は比叡山の地名にちなんで「ヒエ」とよばれていたが、のち好字「日吉」があてられるようになり、しだいに「ヒヨシ」とよばれたのであろう。「延喜式」神名帳は「ヒエ」「ヒヨシ」の両訓を付す。社域にある
日吉社の興亡の歴史は、山門と表裏一体の様相を呈してきた。そのため明治元年(一八六八)からの神仏分離の際には強い影響を受け、多くの社宝を失った。現在国宝の西本宮本殿などの建造物のほか、石造日吉三橋など多くの文化財がある。四月の祭礼日吉山王祭は前述の二つの祭祀発生が包含された古式豊かな祭礼である。なかでも午の神事(神輿の急坂くだり)、花渡り式、宵宮落し、湖上渡御などみるべきものが多い。
〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
日吉社の社歴は古く、「古事記」大国主神の段に「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海国の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
滋賀県大津市坂本に鎮座。正式には山王総本宮日吉大社と称し,旧官幣大社で現在は別表神社。全国の日吉(枝)(ひえ)社約3800余社の総本社。日吉(ひえ)社とか山王権現ともよばれる。比叡山の東の尾根にある牛尾山(小比叡峰または八王子山)の大山咋(おおやまくい)神(別名を山末之大主(やますえのおおぬし)神)が最初にまつられた地主神で,のち668年(天智7)に三輪の大己貴(おおなむち)神を比叡の山口に勧請して大比叡神とし,大宮とよばれて西本宮にまつられ,大山咋神は小比叡神とされて東本宮にまつられた。比叡山中に延暦寺が建立されると,この2神は天台宗守護の護法神として尊崇され,天台宗の興隆にともなって信仰を集めた。西本宮系の摂社聖真子(宇佐八幡)と客人(まろうど)(白山姫神),東本宮系の三宮,十禅師,八王子とともに山王七社とされ,神々はしだいに増加して,中世には中七社,下七社とあわせて山王二十一社を形成し,社内百八社,社外百八社の神をまつった。また諸国の比叡山末寺や所領,日吉社領には日吉社が勧請され,各地域に分布して現在にいたっている例も多い。
日吉社の祭りはもと山の神をむかえて豊作を祈るもので,4月12,13日(旧暦4月の中の午(うま)と未(ひつじ)の日)の祭りは古式をとどめ,また明治以前は4月8日の花まつりには比叡山の女人結界が開放され,結界内の花摘堂に花を供えに女性たちが参拝したと伝え,山の神をむかえる儀式が形を変えて残ったものとされる。4月14日(申(さる)の日)の大宮の祭りは山王七社の神事で,七社の神輿が湖上に出て唐崎の沖で〈粟津の御供〉をうける儀式で,10世紀末には山王祭の主要な祭祀となった。
神々は国家の手厚い保護をうけ,《延喜式》には名神大社に列し,大比叡神は正一位,小比叡神は従四位上の位階をうけ,二十二社にも加えられた。1071年(延久3)の後三条天皇の行幸をはじめとして,天皇,上皇,女院や貴族の参詣も多く,各社頭には参詣者のために彼岸所とよばれる参籠の施設も用意された。その一方では日吉社の霊威を背景に,武装した比叡山の僧徒たちが神輿をかついで入京し,寺家側の主張を通すための手段としたことは,僧兵の〈神輿振(みこしぶり)〉として有名である。1571年(元亀2)織田信長の兵火によって山上,山下の諸院とともに日吉社も灰燼となったが,豊臣秀吉の援助で復興が開始され,83年(天正11)から1601年(慶長6)の間に上七社の造営がほぼ完成した。江戸幕府に信望の厚かった天海は社殿や堂舎の造営を継続し,日吉社の南に東照宮を建てるなど,幕府の保護の基礎をかためた。儀式や教義も天海によって整備された。教学的な説明は中世以降延暦寺の学僧によって体系づけられ,山王一実神道として完成されたのである。明治初期の神仏分離によって,日吉社は延暦寺から離れた。このとき社頭で本地仏や仏具や仏典などが焼かれ,祭礼に僧が参加することも停止された。
→山王神道 →日吉(ひえ)祭
執筆者:西口 順子
広い神域に,東西両本宮をはじめとして摂社宇佐宮,樹下神社,白山姫神社,牛尾神社,三宮神社,末社東照宮など国宝・重要文化財に指定されている社殿のほか,多くの摂社末社が鎮座し,また境内を流れる大宮川にかかる3基の石橋(大宮橋,走井橋,二宮橋)は日吉三橋とよばれ,また日吉山王金銅装神輿7基も重要文化財である。現在の境内の景観は織田信長の焼打ちにあったのち,天正から慶長期に再建したものを受けついでいる。注目すべきは,日吉造と称される本殿形式であり,東西両本宮と宇佐宮本殿に採用されている。日吉造は正面3間,側間2間の母屋(もや)の正面と両側面の3方に庇を付加した形で,母屋の2面に庇をもつ形式(厳島神社など),四面庇の形式(北野天満宮,八坂神社など)に発展する中途の段階の形を固定化したものと考えられ,その起源は天台宗の僧相応(831-918)が887年(仁和3)に東本宮を造立し,890年(寛平2)に西本宮を同じ形に改造したときにさかのぼる。また上部に山形をつけた山王鳥居は,他の社にみられない特異なものである。
執筆者:宮沢 智士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大津市坂本本町に鎮座。「ひえたいしゃ」ともよばれる。祭神は西本宮(ほんぐう)(大宮(おおみや))の大己貴命(おおなむちのみこと)、東本宮(二宮(にのみや))の大山咋命(おおやまくいのみこと)を主神とし、摂社五社をあわせて「山王七社(さんのうしちしゃ)」として知られる。『延喜式(えんぎしき)』の神名帳では日吉(ひえ)神社、名神(みょうじん)大社とあり、祭神は一座となっている。神名帳には「ひよし」の呼称もあったとされているが、『古事記』には日枝(ひえ)の字をあてている。1039年(長暦3)8月には二十二社官幣の社格に列している。
宗教的な起源は、東本宮系の神々が神体山(牛尾山(うしのおやま)、八王子山(はちおうじやま)、波母山(はもやま))頂上の磐座(いわくら)に祀(まつ)られ、山宮(やまみや)と里宮(さとみや)が営まれるという原始祭祀(さいし)に発し、西本宮は大津宮のときに天智(てんじ)天皇によって大和(やまと)(奈良県)の大神(おおみわ)の神を勧請(かんじょう)したことに始まるとされる。のち西本宮は僧最澄(さいちょう)から深い崇敬を受けて、比叡(ひえい)一山の地主神、天台一宗の護法神として、神仏習合の信仰形態を深めつつ大きな発展を遂げ、現在も全国に4000近い日吉山王系の神々が祀られている。その大きな原因の一つは、全国に散在する天台系寺院の境内鎮守として祀られ、また多くの山門領にも鎮守神として勧請されたからである。山王七社には、のち「中七社」と「下七社」が加わり、さらに中世末にはその他の末社を加えて「社内百八社」や「社外百八社」という大きな宗教組織が完成する。1571年(元亀2)9月、織田信長の比叡山三塔焼打ちの際に兵火を受け、中世以前のすべての建造物は焼失したが、古絵図をみると、境内には宝塔や彼岸所(ひがんじょ)など多くの仏教的な建造物がみえる。いまの建物は、東本宮・西本宮の神殿が桃山時代の建築で国宝に指定され、また各拝殿、楼門、樹下(じゅげ)神社など各摂社の社殿、拝殿、石橋などがいずれも桃山から江戸初期の再建で、国の重要文化財となっている。例祭は山王祭として名高く、とくに4月12日から15日(太陰暦では卯月中(うづきなか)の午(うま)から酉(とり)の日)には、七社の神輿(しんよ)(国の重要文化財)を動座して盛大に行われる。なお、七基の神輿は延暦(えんりゃく)寺の僧兵によってたびたび強訴(ごうそ)のため利用されたことで名高い。旧祠官(しかん)に樹下家と生源寺(しょうげんじ)家がある。
[景山春樹]
『景山春樹著『神体山』(1971・学生社)』
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「ひえ」とも。大津市坂本に鎮座。式内社。二十二社下社。旧官幣大社。祭神は大己貴(おおなむち)神(西本宮)・大山咋(おおやまくい)神(東本宮)。東本宮の創祀は牛尾山に降臨した大山咋神を現在地に祭ったとき,西本宮の創祀は近江遷都に際して667年(天智6)に三輪明神を勧請したとき,と伝える。のちに延暦寺の守護神とされた。850年(嘉祥3)西本宮が従二位,東本宮が従五位下に叙された。982年(天元5)円融天皇から奉幣使が発遣され,1071年(延久3)には後三条天皇の行幸が行われた。1571年(元亀2)織田信長の焼打にあったが,その後再建された。例祭は4月14日。東本宮・西本宮ともに国宝。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…およそ現在の滋賀県大津市坂本本町,下阪本,唐崎,比叡辻にあたり,古代は近江国滋賀郡大友郷に含まれる。延暦寺創建以前より大山咋(おおやまくい)命と大己貴(おおなむち)命を合祀する日吉社(日吉大社)の鎮座地であったが,良源が18代天台座主に就任する平安中期以降,延暦寺=山門の勢力拡大にともないその膝下領域としての重要性を増していった。中世には日吉社から東にのびる日吉馬場を主要道路としてその周囲に寺家,社家,日吉社彼岸所,生源寺,里房(さとぼう)などの山門支配機関が立ち並び,全国的規模で形成された山門領荘園を管理する中心地として,また山上への物資補給基地として多数の僧俗が居住することになった。…
…比叡山のふもと,滋賀県大津市に鎮座する日吉(ひよし)大社に対する信仰。この日吉大社は山王権現とも称された。…
…大津市坂本にある日吉山王社(日吉(ひよし)大社)の神仏や社殿を描いた垂迹(すいじやく)曼荼羅。山王社は神体山である八王子山を背に,東大宮三社と西大宮四社の上七社を中心に成立したが,延暦寺の鎮守として信仰されたため,つねに叡山の影響下で繁栄していた。山王曼荼羅はこのような叡山の宗教社会の中で要請され,山下の里坊や山王六講などの講で鎮守本尊として礼拝された。春日や熊野と同じように,本地仏を描いたもの,垂迹神を示したもの,神体山を背にした社景や個々の社殿に重点を置いたものなど,その形式はさまざまである。…
…外形はこの平面をそのまま立体化した形式であって,正面から見ると入母屋造のようであるが背面では軒を途中で切り落としたような姿をもつ。これを日吉造といい,滋賀県の日吉大社にのみ固有の形式である。
[その他の本殿形式]
以上のほか,本殿の前に礼堂を付加してあたかも仏堂のような形態とする京都の八坂神社本殿の八坂造(図8),本殿,石の間,拝殿を連結した京都北野天満宮の権現造(八棟(やつむね)造ともいう。…
…松,杉,ヒノキなどの常緑樹が一般的だが,神社によって特定の神木がある。有名なものに,京都の伏見稲荷大社や奈良の大神神社の験(しるし)の杉,福岡の香椎宮の綾杉,太宰府天満宮の梅,北野天満宮の一夜松(ひとよまつ),滋賀の日吉大社の桂,熊野大社,伊豆山神社の梛(なぎ),新潟の弥彦神社の椎などがある。奈良春日大社の神木(榊に神鏡を斎(いわ)いつけたもの)は中世に何度か興福寺の衆徒が春日大明神の御正体と称して担ぎ出し,朝廷に強訴(ごうそ)する手段とされた。…
…山内は三塔(東塔,西塔,横川)に分かれ,さらに16谷と2別所に区分されて,それぞれ教学や修法を競った(図)。山下の東坂本(大津市坂本)には一山の護法神として日吉大社があり,政所や里坊がおかれて山上生活を支え,京都側の西坂本(修学院付近)や八瀬なども基地として諸院や下級の奉仕者集団が存在した。11世紀後半から中世を通じ,比叡山はその霊威と財力と武力により強大な支配力を誇った。…
…滋賀県大津市坂本に鎮座する日吉(ひよし)大社で,4月14日を中心に行う祭り。山王祭ともいった。…
※「日吉大社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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