西行(読み)サイギョウ

デジタル大辞泉 「西行」の意味・読み・例文・類語

さいぎょう〔サイギヤウ〕【西行】

[1118~1190]平安後期の歌人・僧。俗名、佐藤義清さとうのりきよ。法名、円位。鳥羽院北面の武士として仕えたが、23歳で出家。草庵に住み、また諸国を行脚して歌を詠んだ。家集「山家集」。新古今集には94首が載っている。
《西行が諸国を遍歴したところから》諸国を歩き回ること。また、その人。

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共同通信ニュース用語解説 「西行」の解説

西行

平安時代末期の歌人・僧。出家後、高野山に住み、奥州、四国などへ旅をしながら、歌を残した。新古今集には最多の94首が選ばれた。

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精選版 日本国語大辞典 「西行」の意味・読み・例文・類語

さいぎょうサイギャウ【西行】

  1. [ 1 ]
    1. [ 一 ] 平安末期・鎌倉初期の歌人、僧。俗名佐藤義清(のりきよ)。法名円位。西行は号。鳥羽院下北面の武士として仕えたが、二三歳で出家。陸奥(みちのく)から中国・四国まで行脚(あんぎゃ)するなど生涯にわたって旅が多く、旅の体験を通して自然と心境とを詠み、独自の詠風を築いた。歌集に「山家集(さんかしゅう)」「西行上人集」「聞書集」「聞書残集」、自歌合に「御裳濯河(みもすそがわ)歌合」「宮河歌合」、歌論書に「西行談抄(だんしょう)」がある。「新古今和歌集」には九四首の最多歌数を入集させている。元永元~建久元年(一一一八‐九〇
    2. [ 二 ] お伽草子。一冊。作者未詳。歌人の西行が鳥羽院の女院を恋して出家、一人娘の情にほだされながらも別離して、和歌と仏道に励むという物語。室町時代末頃の成立か。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙
    1. ( 西行法師が諸国を遍歴したところから ) 諸方を遍歴すること。また、その人。
    2. ( 西行法師のように歩き回るところからかという ) アカニシ、タニシなど螺(にし)の類をいう女房詞。〔女中詞(元祿五年)(1692)〕
    3. ( 西行法師の富士見(ふじみ)の絵姿から、「ふじみ」の同音で ) 不死身(ふじみ)をしゃれていう語。
      1. [初出の実例]「鋸引(のこぎりびき)に摺付けても、ハハハハハおらは西行だはい。ナニ西行とは、ハテふじ身だはやい、切っても切ぬ水男」(出典:浄瑠璃・伊賀越乗掛合羽(1777)般若坂の隠れ家に身代の妙薬)
    4. さいぎょうざくら(西行桜)[ 一 ]」の略。
      1. [初出の実例]「西行と遊行は春のにしきなり」(出典:雑俳・柳多留‐五二(1811))
    5. 各地の人夫部屋を渡り歩く者をいう俗語。〔新聞新語辞典(1933)〕

せい‐こう‥カウ【西行】

  1. 〘 名詞 〙 西方に行くこと。東行西行の形で用いることが多い。
    1. [初出の実例]「東行西行雲眇眇、二月三月日遅遅」(出典:菅家後集(903頃)詠楽天北窓三友詩)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西行」の意味・わかりやすい解説

西行
さいぎょう
(1118―1190)

平安後期の歌人。藤原氏藤成(ふじなり)流の左衛門尉(さえもんのじょう)佐藤康清(やすきよ)の子。母は監物(けんもつ)源清経女(きよつねのむすめ)。法名は円位。大宝坊また大本坊と号した。佐藤家の先祖には俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)がおり、奥州藤原氏とも縁続きである。代々六衛府(りくえふ)の武官で検非違使(けびいし)などを勤める武勇の家であった。また、母方の祖父清経は今様雑芸(いまようぞうげい)や蹴鞠(けまり)に通じている風流な下級官人であったらしい。西行は俗名を義清(のりきよ)(憲清とも)といい、徳大寺実能(さねよし)の家人(けにん)となり、また下北面(げほくめん)の武士として鳥羽院(とばいん)に仕え、兵衛尉(ひょうえのじょう)となったが、1140年(保延6)23歳で出家した。藤原頼長(よりなが)の日記『台記(たいき)』に道心による遁世(とんせい)であるというが、早くから近親者の急死にあって無常を感じたためとか、悲恋の結果であるなどの伝説が生じ、近代には、親しく仕えた待賢門院(たいけんもんいん)や崇徳院(すとくいん)が疎外される政治状況を目のあたりにして出家したのかという説も唱えられているが、明らかではない。「嘆けとて月やは物を思はするかこちがほなるわが涙かな」など一連の恋歌は激しい恋愛体験もあったらしいことを思わせるが、出家以前妻子がいたことは確かであろうと考えられる
 出家後は嵯峨(さが)や鞍馬(くらま)の奥などにこもり、また伊勢(いせ)に下向しているが、のちには高野山(こうやさん)を本拠とする聖(ひじり)の生活に入った。真言宗に帰し、吉野の大峰(おおみね)で山伏(やまぶし)修行をもしているが、僧綱(そうごう)をもたず、上人(しょうにん)とよばれる生涯を送った。空仁(くうにん)や、のちに同行となった西住(源季政(すえまさ))などとともに、出家以前から和歌に親しんでいたが、以後はいよいよ詠歌に励み、信仰と詠歌が草庵(そうあん)と行脚(あんぎゃ)に終始した生涯の支えであったとみられる。しかし歌合(うたあわせ)の席などで都の歌人たちと広く交際することは比較的乏しく、旧主家である徳大寺家や崇徳院の関係で、待賢門院堀河(ほりかわ)、上西門院兵衛(じょうさいもんいんのひょうえ)などの女房たちやその周辺の人物、常盤三寂(ときわさんじゃく)とよばれた寂念(じゃくねん)、寂超(じゃくちょう)、寂然(じゃくぜん)ら丹後守(たんごのかみ)藤原為忠(ためただ)の子供たち、為忠の婿藤原俊成(しゅんぜい)など、限られた人々と親しかった。高野の僧の一人として平忠盛(ただもり)の家にも行っており、平氏に対しては親近感を抱いていたらしい。

 30代前後に、陸奥(みちのく)の歌枕(うたまくら)にあこがれ、藤原実方(さねかた)や能因(のういん)の足跡を慕って、最初の陸奥行脚を試みた。また30代のなかばごろ、『詞花(しか)和歌集』にその作品1首がよみ人しらずとしてとられている。

 50代の初め、仁安(にんあん)年間(1166~69)、讃岐(さぬき)(香川県)の崇徳院の墓陵参拝と弘法(こうぼう)大師の遺跡巡礼を目的として、中国、四国へ行脚した。1172年(承安2)には平清盛(きよもり)主催の千僧供養に参加し、1177年(治承1)には高野山の蓮華乗院(れんげじょういん)の移築にかかわっている。60代の初め、治承(じしょう)年間(1177~81)に、長らく生活の本拠であった高野山を離れて、伊勢の二見浦(ふたみがうら)の近くに移住した。同地では草庵生活のかたわら伊勢神宮の神官たちに和歌を教えていたと考えられる。1186年(文治2)、大神宮法楽のため藤原定家(ていか)、同家隆(いえたか)、寂蓮(じゃくれん)らに百首歌(ひゃくしゅうた)を勧進し、また俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)との約束によって、大仏再建の砂金勧進のために再度陸奥に下向した。途中鎌倉では源頼朝(よりとも)と会って、一夜を語り明かしている。この東国への旅で自讃(じさん)歌とされる「風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬわが思ひかな」の歌を得た。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり佐夜(さや)の中山」の詠もこのときのものである。陸奥から戻ったころ、まず俊成に加判を依頼した自歌合『御裳濯河(みもすそがわ)歌合』が、やや遅れて定家が加判した『宮河(みやがわ)歌合』が成り、これを伊勢の内宮(ないくう)・外宮(げくう)に奉納したが、自身は河内(かわち)の弘川寺(ひろかわでら)(大阪府南河内(みなみかわち)郡河南町)で病み、文治(ぶんじ)6年2月16日、「願はくは花の下(した)にて春死なむそのきさらぎの望月(もちづき)の頃(ころ)」というかねての願いどおり、同地に入滅した。年73。その没後撰(えら)ばれた『新古今(しんこきん)和歌集』には集中最多数の94首がとられ、慈円(じえん)、定家や後鳥羽院(ごとばいん)ら、後の世代の歌人に深い影響を及ぼした。

 その生涯は早くから伝説を生じ、鎌倉中期ごろには絵を伴った『西行物語』が書かれたらしい。また、説話集『撰集抄(せんじゅうしょう)』の編者に仮託された。芭蕉(ばしょう)や明治の詩人たちが憧憬(しょうけい)した漂泊の歌人西行の生涯はこれらの伝説や説話に基づく部分も少なくない。家集『山家集(さんかしゅう)』『聞書(ききがき)集』などのほか、弟子蓮阿(れんあ)(荒木田満良(みつよし))の聞き書きした歌論書『西行上人(しょうにん)談抄』、『宮河歌合』への加判を求めた際の消息文である『定家卿(きょう)に送る文(ふみ)』がある。

久保田淳

『目崎徳衛著『西行の思想史的研究』(1978・吉川弘文館)』『久保田淳編『西行全集』全1巻(1982・日本古典文学会)』『有吉保著『王朝の歌人8 西行』(1985・集英社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「西行」の意味・わかりやすい解説

西行 (さいぎょう)
生没年:1118-90(元永1-建久1)

平安時代末,鎌倉時代初頭の歌人。魚名流藤原氏,鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)の9代目の子孫で,曾祖父の代から佐藤氏と称した。父は左衛門尉康清,母は監物源清経の娘。俗名を義清(のりきよ)(憲清,則清,範清とも)といい,出家して円位,また西行,大本房,大宝房,大法房と称した。佐藤氏は代々衛府に仕える武門の家で,故実に明るく,紀伊国の田仲荘の預所として豊かであった。外祖父の清経は,今様や蹴鞠の達人で,遊里にも通じた数寄者として知られていた。西行は16歳のころ徳大寺家に仕え,18歳の年に巨額の任料を納めて左兵衛尉に任官した。また鳥羽院の北面の武士となり,和歌にすぐれ故実に通じた人物として知られていたが,1140年(保延6)23歳の若さで出家して人々を驚かせた。出家の理由は,種々推測されているが明らかではない。出家後は洛外に草庵を結んで修行につとめ,一品経を勧進して藤原頼長を訪ねたりしたが,44年(天養1)ころ陸奥,出羽に旅して歌枕を訪ね,49年(久安5)前後には高野山に隠遁してしばしば吉野山に入った。その間和歌に精進し,51年(仁平1)には《詞花和歌集》に1首入集,多くの歌人と交わったが,崇徳院,徳大寺実能,同公能,藤原成通らの死によって,しだいに公家社会から遠ざかった。68年(仁安3)には四国へ修行の旅に出,讃岐国の崇徳院の白峰陵にもうでて院の怨霊を鎮め,さらに弘法大師の旧跡を訪ねた。その後,高野山の蓮花乗院を造営するための勧進を行い,同院の長日談義をはじめるなど,高野山の興隆のために活動した。80年(治承4)には伊勢国に赴き,二見浦に草庵を結んで,和歌を通じて祀官の荒木田氏などと交わった。86年(文治2),伊勢を出て東大寺再建の勧進のために再び陸奥に赴いたが,その途中鎌倉で源頼朝に会い,弓馬のことを談じ和歌についても語った。陸奥の旅から帰った西行は,京都の嵯峨に住み,88年に成立した《千載和歌集》には18首が選ばれて,歌人として重んぜられるようになったが,89年,河内国の弘川寺に居を定め,〈願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ〉の歌のように,翌90年(建久1)の2月16日,弘川寺で73歳の生涯を閉じた。その後,1205年(元久2)に成立した《新古今和歌集》には,94首もの歌が選ばれ,和歌史における位置は不動のものとなった。

 同時代の歌人たちからも天成の歌人と評された西行の歌は,平淡ななかにも詩魂の息づかいを伝える律動をもち,きびしい精進を経て得られた自由放胆な語法,あこがれ躍動する心を静かに見つめる強靱な精神と余裕ある調べ,草庵の生活を背景とした清冽な枯淡の心境など,他の追随を許さない個性をもっている。そのため和歌史上,西行は歌聖と仰がれる柿本人麻呂に匹敵する歌人とされるが,後世の和歌,さらに文学全体に与えた影響から考えれば,人麻呂よりもはるかに大きな位置を占めているといってよい。また王朝の優雅艶麗な美から転じて,精神的なものを求めるようになった中世の隠者文学の確立を告げる歌人として,文学史上,古代と中世を画する人物とされている。西行の歌には,花と月を詠んだ歌が多く,旅と自然の詩人として,後世の文学に影響を与えた。〈さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里〉〈ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならんとすらん〉〈吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき〉。西行の歌は,約1500首を収めた家集の《山家集》,他に《西行法師家集》《山家心中集》《別本山家集》などに収められ,晩年の自撰による《御裳濯河(みもすそがわ)歌合》《宮河歌合》などを合わせて,2000余首が伝えられている。また《聞書集》《西公談抄》は,晩年の西行に近侍した人が和歌や歌論を記したものである。

 西行は若いときに公家社会から出離して,山里に閑居し,聖(ひじり)として各地を旅したために,その動静を記したものは,貴族歌人たちにとって早くから伝説化の芽をもっていた。旅の歌僧,遁世聖,西行に関する説話は《古今著聞集》《古事談》《沙石集》《源平盛衰記》などに記されておびただしい数にのぼり,《吾妻鏡》などにも採録されたが,とくに《撰集抄》は,鎌倉時代の各地の説話を旅する西行の見聞としてまとめたもので,西行の伝説化に大きな役割を果たした。他方西行の伝記を書いた《西行物語》《西行物語絵巻》も,中世の人々の間で,無常である現世を捨てて,孤独な旅の生活のなか花や月にあこがれる数寄の心を和歌に託すという,人間の生き方の理想をあらわすものとして読まれ,さまざまな西行伝説の原形となった。西行の伝説は,発心出家の動機と決断をめぐるもの,山居のきびしい修行にたえる行者の姿を語るもの,文覚や西住などとの交遊,崇徳院の供養に関するもの,頼朝にもらった銀の猫を門外に遊ぶ子供に与えたというような無欲潔癖な性格を伝えるもの,院の女房や江口の遊女と歌を読みかわしたというような数寄の心の持主として伝えるもの,など多方面にわたっている。室町時代に入ると,西行は連歌師の理想像となり,謡曲では幽玄の極致をあらわす人物として《雨月》《江口》《西行桜》《松山天狗》の主人公となり,他の数々の曲にも登場している。また御伽草子の《西行》などによっても,その名は広く知られることになった。江戸時代になって,西行を讃仰した人物として知られるのは芭蕉であり,〈わび〉〈さび〉の境地における先駆者と考えられた。西行の遊行伝説は各地に広まったが,蓑笠をつけた西行の後ろ姿に富士山を配した富士見西行の図は,文人画や浮世絵で好まれ,江口や三夕,小夜の中山などの浮世絵の画題も西行と関係のものである。西行はいわば日本人の間で,寺院や宗派を超えたものとして受けいれられ,理解された日本的な仏教の祖師であり,日本人の人生観や美意識を具現化した典型として伝説化された。
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百科事典マイペディア 「西行」の意味・わかりやすい解説

西行【さいぎょう】

平安末・鎌倉初期の歌人。俗名佐藤義清(のりきよ)(憲清・則清・範清とも)。法名円位。佐藤氏は平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)の子孫で,富裕な武門の家であった。西行は若くして鳥羽院北面の武士となり,院に目をかけられたが,1140年23歳で出家。その理由は明らかではない。しばらくは都の周辺に庵居していたが,のち高野山に入った。しばしば伊勢,熊野,吉野などに旅し,また能因の跡を追って陸奥に下向,歌枕を巡って詠作している。50歳代の初めには,崇徳院の墓参と弘法大師の遺跡巡礼のために四国へ旅し,1186年,69歳のとき,俊乗房重源に委嘱され,東大寺再建の勧進のため再度の奥州旅行に出,途中鎌倉の源頼朝にも謁している。だが,生涯を旅に過ごしたわけではなく,都近くにも住み,藤原俊成とその周辺の人びとを歌友として歌道に精進した。その歌は生活体験に基づく清澄な自然詠が多い。《新古今和歌集》には94首もとられ,以後の和歌史に大きな影響を与えている。家集に《山家(さんか)集》があり,歌談を弟子の蓮阿が筆録した《西行上人談抄》がある。《古事談》《沙石集》などに西行の諸国行脚に関する説話が数多くのる。
→関連項目朝妻大磯[町]懐紙河南[町]西行物語絵巻私家集白河関撰集抄宗祇田仲荘

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朝日日本歴史人物事典 「西行」の解説

西行

没年:建久1.2.16(1190.3.23)
生年:元永1(1118)
平安末期の歌人。父は検非違使左衛門尉佐藤康清。母は監物源清経の娘。藤原秀郷の末裔に当たる。俗名,義清(憲清とも)。実家は相当に富裕だったようである。保延1(1135)年兵衛尉に任ぜられる。鳥羽院の下北面の武士で,徳大寺家の家人でもあり,待賢門院,崇徳院との縁も深かった。和歌のみならず,武芸,蹴鞠にも堪能であった。保延6年出家。法名,円位。遁世後は東山や嵯峨に草庵を結び,鞍馬,吉野大峰,熊野などの地で真言僧としての修行に励んだ。伊勢にも赴き,30歳代以前に陸奥を訪れてもいる。その後は主に高野山に拠ったが,都との往還もしばしばで,保元1(1156)年には鳥羽法皇の葬送に参り合わせ,保元の乱に敗れて仁和寺に籠った崇徳上皇のもとに馳せ参じてもいる。讃岐の崇徳上皇の配所にも歌を詠み送った。仁安2(1167)年もしくは3年には,弘法大師の遺跡巡拝と崇徳上皇の白峰陵参詣を目的とする中国・四国行に出立。晩年は伊勢に移住し,本地垂迹説に拠る神祇信仰を深めつつ,和歌を通じて内宮祠官荒木田氏の人々と交わった。文治2(1186)年再び奥州に下向。東大寺再建を目指す重源の依頼により平泉での砂金勧進を目的とする旅で,下向の途次鎌倉において源頼朝と面談したとも伝える。京都の歌壇とは比較的没交渉で,歌会,歌合に出詠した記録も乏しいが,寂然(藤原為業)など常磐家の人々および藤原俊成とは親しく,奥州再訪の直前には藤原定家・家隆,寂蓮らに『二見浦百首』を勧進。また『御裳濯河』『宮河』の2編の自歌合を編み,各々俊成,定家に加判を委嘱した。河内国弘川寺にて示寂。 家集に『山家集』『聞書集』『残集』『山家心中集』『西行上人集』があり,『西行上人談抄』はその歌論を伝える。『撰集抄』は西行に仮託した説話集で,『西行物語』とともに伝説的西行像の源泉を為す。『新古今集』入集第1位。花と月の歌人,旅と草庵の歌人として知られ,『後鳥羽院御口伝』では「生得の歌人」と評されるが,藤原定家などとは異なった位相においてではあるものの,王朝和歌の文学的伝統に自覚的に対峙し,自らの和歌の表現の在り方に心を砕く歌人でもあった。

(田仲洋己)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西行」の意味・わかりやすい解説

西行
さいぎょう

[生]元永1(1118)
[没]文治6(1190).2.16. 河内
平安時代末期の歌人。姓,藤原。俗名,佐藤義清 (のりきよ) 。父は左衛門尉康清。母は監物 (けんもつ) 源清経の娘。北面の武士として鳥羽上皇に仕え,左兵衛尉にいたる。 23歳のとき出家,法名,円位,また西行と呼ばれた。真言宗に属し,多く高野山に住み,奥羽,中国,四国などを遍歴,勧進などに従った。晩年は伊勢に移り,2度目の奥州旅行から帰ったのちは河内国弘川寺に住み同地で没した。在俗時代から和歌を詠み,出家後は修行のかたわら作歌に精進,寂念,寂然,寂超ら大原三寂,藤原俊成と親交があり,次第に歌名も上がった。しかし,宮廷やその周辺の貴族の家などで行われた歌会や歌合には参加していない。旅先での見聞など現実体験に基づく作品が多いのが特色。作風は平明率直で真実感にあふれるものが多いが,ときには和歌としての形象性に乏しいものもある。家集に『山家集』『異本山家集』『聞書集』『聞書残集』,自撰の歌合に『御裳濯河 (みもすそがわ) 歌合』『宮河歌合』がある。『千載集』『新古今集』などの勅撰集にも多く入集。『西行上人談抄』は西行の語った歌話を,弟子蓮阿が筆録したもの。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「西行」の解説

西行
さいぎょう

1118~90.2.16

平安末期の歌人。俗名佐藤義清(のりきよ)(憲清とも)。康清の子。母は源清経の女。武門の家に生まれ,鳥羽院の北面の武士として仕え,和歌・蹴鞠(けまり)などに活躍した。1140年(保延6)23歳で出家。その後,仏道と和歌に励み,高野山や伊勢国に住する一方で,奥州・四国などを旅した。「詞花集」に1首,「千載集」に18首入集したが,死後成立した「新古今集」には最多の94首が選ばれ,歌人としての名声が高まった。家集「山家(さんか)集」「西行上人集」「聞書(ききがき)集」「残集」。「山家心中(さんかしんちゅう)集」「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」「宮河歌合」は自撰の秀歌集。旅する歌僧として伝説化され,その和歌とともに後代の文学に大きな影響を与えた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西行」の解説

西行 さいぎょう

1118-1190 平安後期-鎌倉時代の歌人,僧。
元永元年生まれ。佐藤康清の子。北面の武士として鳥羽(とば)上皇につかえ,23歳で出家。生涯の大半を奥州から九州までのさすらいの旅ですごす。花と月の歌がおおく,独自の歌風は飯尾宗祇(そうぎ),松尾芭蕉(ばしょう)らに影響をあたえた。「新古今和歌集」に94首がおさめられている。文治(ぶんじ)6年2月16日死去。73歳。俗名は佐藤義(憲)清(のりきよ)。歌集に「山家(さんか)集」など。
【格言など】嘆けとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな(「小倉百人一首」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「西行」の解説

西行
さいぎょう

1118〜90
平安末期の歌人
藤原秀郷の子孫。 俗名佐藤義清 (のりきよ) 。もと鳥羽法皇に仕えた北面の武士。23歳で出家し,旅の詩人としてほとばしり出る感慨を歌に託し,自然・人生を叙情的に歌った。『新古今和歌集』で一番多く歌がおさめられている。家集に『山家集』1巻。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「西行」の解説

西行
(通称)
さいぎょう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
軍法富士見西行 など
初演
延享2.2(京・中村粂太郎座)

出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報

デジタル大辞泉プラス 「西行」の解説

西行

古典落語の演目のひとつ。「西行法師」とも。

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世界大百科事典(旧版)内の西行の言及

【木挽】より

…白木とは,スギ,ヒノキなどの黒皮をむいた建築用材のことで,白木屋とはそれを扱う材木屋の別称である。集材地には地元出身の専業者も多かったが,サイギョウ(西行)という渡(わたり)職人が各地の親方をたよりにして,転々と一種の旅職として全国を放浪した。このほか,山村の農民で農閑期の副業としてこれに就労するものもいて,ノキバコビキ(軒場木挽)と呼んだりした。…

【佐藤氏】より

…秀郷から数えて6世の孫の左衛門尉公清をはじめとして,その子の季清,孫の康清らがみな左衛門尉になったため,左衛門尉の左と藤原の藤をとって佐藤というようになったという。この一族出身で有名な人に歌人の西行がいる。彼は俗名佐藤義清,はじめはやはり左衛門尉で,鳥羽院の北面の武士であった。…

【山家集】より

西行の家集。3巻。…

【撰集抄】より

…収録説話には仏教的なものが多いが,和歌,漢詩,芸能に関するものもある。本書は長いあいだ西行の著であると信ぜられ,享受されてきた。〈遁世者〉として,〈漂泊の歌人〉としての西行像の形成にはたした役割は大きい。…

【田仲荘】より

…田仲荘の預所佐藤仲清・能清父子が平家の威勢を背景に押領を企てたためであるが,彼らの行動は鎌倉幕府に支持されず,紛争は86年(文治2)をもって終息した。なお《尊卑分脈》の記述を信じれば,仲清の弟は歌人として著名な西行(さいぎよう)(俗名佐藤義清)である。鎌倉時代には田中氏を称する武士がおり,湯浅党の一員となっている。…

【御裳濯河歌合】より

…伊勢の内宮に奉納した西行の自歌合。成立は奥州から帰った1187年(文治3)ころか。…

※「西行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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