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平安後期の歌人。藤原氏藤成(ふじなり)流の左衛門尉(さえもんのじょう)佐藤康清(やすきよ)の子。母は監物(けんもつ)源清経女(きよつねのむすめ)。法名は円位。大宝坊また大本坊と号した。佐藤家の先祖には俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)がおり、奥州藤原氏とも縁続きである。代々六衛府(りくえふ)の武官で検非違使(けびいし)などを勤める武勇の家であった。また、母方の祖父清経は今様雑芸(いまようぞうげい)や蹴鞠(けまり)に通じている風流な下級官人であったらしい。西行は俗名を義清(のりきよ)(憲清とも)といい、徳大寺実能(さねよし)の家人(けにん)となり、また下北面(げほくめん)の武士として鳥羽院(とばいん)に仕え、兵衛尉(ひょうえのじょう)となったが、1140年(保延6)23歳で出家した。藤原頼長(よりなが)の日記『台記(たいき)』に道心による遁世(とんせい)であるというが、早くから近親者の急死にあって無常を感じたためとか、悲恋の結果であるなどの伝説が生じ、近代には、親しく仕えた待賢門院(たいけんもんいん)や崇徳院(すとくいん)が疎外される政治状況を目のあたりにして出家したのかという説も唱えられているが、明らかではない。「嘆けとて月やは物を思はするかこちがほなるわが涙かな」など一連の恋歌は激しい恋愛体験もあったらしいことを思わせるが、出家以前妻子がいたことは確かであろうと考えられる
出家後は嵯峨(さが)や鞍馬(くらま)の奥などにこもり、また伊勢(いせ)に下向しているが、のちには高野山(こうやさん)を本拠とする聖(ひじり)の生活に入った。真言宗に帰し、吉野の大峰(おおみね)で山伏(やまぶし)修行をもしているが、僧綱(そうごう)をもたず、上人(しょうにん)とよばれる生涯を送った。空仁(くうにん)や、のちに同行となった西住(源季政(すえまさ))などとともに、出家以前から和歌に親しんでいたが、以後はいよいよ詠歌に励み、信仰と詠歌が草庵(そうあん)と行脚(あんぎゃ)に終始した生涯の支えであったとみられる。しかし歌合(うたあわせ)の席などで都の歌人たちと広く交際することは比較的乏しく、旧主家である徳大寺家や崇徳院の関係で、待賢門院堀河(ほりかわ)、上西門院兵衛(じょうさいもんいんのひょうえ)などの女房たちやその周辺の人物、常盤三寂(ときわさんじゃく)とよばれた寂念(じゃくねん)、寂超(じゃくちょう)、寂然(じゃくぜん)ら丹後守(たんごのかみ)藤原為忠(ためただ)の子供たち、為忠の婿藤原俊成(しゅんぜい)など、限られた人々と親しかった。高野の僧の一人として平忠盛(ただもり)の家にも行っており、平氏に対しては親近感を抱いていたらしい。
30代前後に、陸奥(みちのく)の歌枕(うたまくら)にあこがれ、藤原実方(さねかた)や能因(のういん)の足跡を慕って、最初の陸奥行脚を試みた。また30代のなかばごろ、『詞花(しか)和歌集』にその作品1首がよみ人しらずとしてとられている。
50代の初め、仁安(にんあん)年間(1166~69)、讃岐(さぬき)(香川県)の崇徳院の墓陵参拝と弘法(こうぼう)大師の遺跡巡礼を目的として、中国、四国へ行脚した。1172年(承安2)には平清盛(きよもり)主催の千僧供養に参加し、1177年(治承1)には高野山の蓮華乗院(れんげじょういん)の移築にかかわっている。60代の初め、治承(じしょう)年間(1177~81)に、長らく生活の本拠であった高野山を離れて、伊勢の二見浦(ふたみがうら)の近くに移住した。同地では草庵生活のかたわら伊勢神宮の神官たちに和歌を教えていたと考えられる。1186年(文治2)、大神宮法楽のため藤原定家(ていか)、同家隆(いえたか)、寂蓮(じゃくれん)らに百首歌(ひゃくしゅうた)を勧進し、また俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)との約束によって、大仏再建の砂金勧進のために再度陸奥に下向した。途中鎌倉では源頼朝(よりとも)と会って、一夜を語り明かしている。この東国への旅で自讃(じさん)歌とされる「風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬわが思ひかな」の歌を得た。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり佐夜(さや)の中山」の詠もこのときのものである。陸奥から戻ったころ、まず俊成に加判を依頼した自歌合『御裳濯河(みもすそがわ)歌合』が、やや遅れて定家が加判した『宮河(みやがわ)歌合』が成り、これを伊勢の内宮(ないくう)・外宮(げくう)に奉納したが、自身は河内(かわち)の弘川寺(ひろかわでら)(大阪府南河内(みなみかわち)郡河南町)で病み、文治(ぶんじ)6年2月16日、「願はくは花の下(した)にて春死なむそのきさらぎの望月(もちづき)の頃(ころ)」というかねての願いどおり、同地に入滅した。年73。その没後撰(えら)ばれた『新古今(しんこきん)和歌集』には集中最多数の94首がとられ、慈円(じえん)、定家や後鳥羽院(ごとばいん)ら、後の世代の歌人に深い影響を及ぼした。
その生涯は早くから伝説を生じ、鎌倉中期ごろには絵を伴った『西行物語』が書かれたらしい。また、説話集『撰集抄(せんじゅうしょう)』の編者に仮託された。芭蕉(ばしょう)や明治の詩人たちが憧憬(しょうけい)した漂泊の歌人西行の生涯はこれらの伝説や説話に基づく部分も少なくない。家集『山家集(さんかしゅう)』『聞書(ききがき)集』などのほか、弟子蓮阿(れんあ)(荒木田満良(みつよし))の聞き書きした歌論書『西行上人(しょうにん)談抄』、『宮河歌合』への加判を求めた際の消息文である『定家卿(きょう)に送る文(ふみ)』がある。
[久保田淳]
『目崎徳衛著『西行の思想史的研究』(1978・吉川弘文館)』▽『久保田淳編『西行全集』全1巻(1982・日本古典文学会)』▽『有吉保著『王朝の歌人8 西行』(1985・集英社)』
平安時代末,鎌倉時代初頭の歌人。魚名流藤原氏,鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)の9代目の子孫で,曾祖父の代から佐藤氏と称した。父は左衛門尉康清,母は監物源清経の娘。俗名を義清(のりきよ)(憲清,則清,範清とも)といい,出家して円位,また西行,大本房,大宝房,大法房と称した。佐藤氏は代々衛府に仕える武門の家で,故実に明るく,紀伊国の田仲荘の預所として豊かであった。外祖父の清経は,今様や蹴鞠の達人で,遊里にも通じた数寄者として知られていた。西行は16歳のころ徳大寺家に仕え,18歳の年に巨額の任料を納めて左兵衛尉に任官した。また鳥羽院の北面の武士となり,和歌にすぐれ故実に通じた人物として知られていたが,1140年(保延6)23歳の若さで出家して人々を驚かせた。出家の理由は,種々推測されているが明らかではない。出家後は洛外に草庵を結んで修行につとめ,一品経を勧進して藤原頼長を訪ねたりしたが,44年(天養1)ころ陸奥,出羽に旅して歌枕を訪ね,49年(久安5)前後には高野山に隠遁してしばしば吉野山に入った。その間和歌に精進し,51年(仁平1)には《詞花和歌集》に1首入集,多くの歌人と交わったが,崇徳院,徳大寺実能,同公能,藤原成通らの死によって,しだいに公家社会から遠ざかった。68年(仁安3)には四国へ修行の旅に出,讃岐国の崇徳院の白峰陵にもうでて院の怨霊を鎮め,さらに弘法大師の旧跡を訪ねた。その後,高野山の蓮花乗院を造営するための勧進を行い,同院の長日談義をはじめるなど,高野山の興隆のために活動した。80年(治承4)には伊勢国に赴き,二見浦に草庵を結んで,和歌を通じて祀官の荒木田氏などと交わった。86年(文治2),伊勢を出て東大寺再建の勧進のために再び陸奥に赴いたが,その途中鎌倉で源頼朝に会い,弓馬のことを談じ和歌についても語った。陸奥の旅から帰った西行は,京都の嵯峨に住み,88年に成立した《千載和歌集》には18首が選ばれて,歌人として重んぜられるようになったが,89年,河内国の弘川寺に居を定め,〈願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ〉の歌のように,翌90年(建久1)の2月16日,弘川寺で73歳の生涯を閉じた。その後,1205年(元久2)に成立した《新古今和歌集》には,94首もの歌が選ばれ,和歌史における位置は不動のものとなった。
同時代の歌人たちからも天成の歌人と評された西行の歌は,平淡ななかにも詩魂の息づかいを伝える律動をもち,きびしい精進を経て得られた自由放胆な語法,あこがれ躍動する心を静かに見つめる強靱な精神と余裕ある調べ,草庵の生活を背景とした清冽な枯淡の心境など,他の追随を許さない個性をもっている。そのため和歌史上,西行は歌聖と仰がれる柿本人麻呂に匹敵する歌人とされるが,後世の和歌,さらに文学全体に与えた影響から考えれば,人麻呂よりもはるかに大きな位置を占めているといってよい。また王朝の優雅艶麗な美から転じて,精神的なものを求めるようになった中世の隠者文学の確立を告げる歌人として,文学史上,古代と中世を画する人物とされている。西行の歌には,花と月を詠んだ歌が多く,旅と自然の詩人として,後世の文学に影響を与えた。〈さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里〉〈ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならんとすらん〉〈吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき〉。西行の歌は,約1500首を収めた家集の《山家集》,他に《西行法師家集》《山家心中集》《別本山家集》などに収められ,晩年の自撰による《御裳濯河(みもすそがわ)歌合》《宮河歌合》などを合わせて,2000余首が伝えられている。また《聞書集》《西公談抄》は,晩年の西行に近侍した人が和歌や歌論を記したものである。
西行は若いときに公家社会から出離して,山里に閑居し,聖(ひじり)として各地を旅したために,その動静を記したものは,貴族歌人たちにとって早くから伝説化の芽をもっていた。旅の歌僧,遁世聖,西行に関する説話は《古今著聞集》《古事談》《沙石集》《源平盛衰記》などに記されておびただしい数にのぼり,《吾妻鏡》などにも採録されたが,とくに《撰集抄》は,鎌倉時代の各地の説話を旅する西行の見聞としてまとめたもので,西行の伝説化に大きな役割を果たした。他方西行の伝記を書いた《西行物語》《西行物語絵巻》も,中世の人々の間で,無常である現世を捨てて,孤独な旅の生活のなか花や月にあこがれる数寄の心を和歌に託すという,人間の生き方の理想をあらわすものとして読まれ,さまざまな西行伝説の原形となった。西行の伝説は,発心出家の動機と決断をめぐるもの,山居のきびしい修行にたえる行者の姿を語るもの,文覚や西住などとの交遊,崇徳院の供養に関するもの,頼朝にもらった銀の猫を門外に遊ぶ子供に与えたというような無欲潔癖な性格を伝えるもの,院の女房や江口の遊女と歌を読みかわしたというような数寄の心の持主として伝えるもの,など多方面にわたっている。室町時代に入ると,西行は連歌師の理想像となり,謡曲では幽玄の極致をあらわす人物として《雨月》《江口》《西行桜》《松山天狗》の主人公となり,他の数々の曲にも登場している。また御伽草子の《西行》などによっても,その名は広く知られることになった。江戸時代になって,西行を讃仰した人物として知られるのは芭蕉であり,〈わび〉〈さび〉の境地における先駆者と考えられた。西行の遊行伝説は各地に広まったが,蓑笠をつけた西行の後ろ姿に富士山を配した富士見西行の図は,文人画や浮世絵で好まれ,江口や三夕,小夜の中山などの浮世絵の画題も西行と関係のものである。西行はいわば日本人の間で,寺院や宗派を超えたものとして受けいれられ,理解された日本的な仏教の祖師であり,日本人の人生観や美意識を具現化した典型として伝説化された。
執筆者:大隅 和雄
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(田仲洋己)
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1118~90.2.16
平安末期の歌人。俗名佐藤義清(のりきよ)(憲清とも)。康清の子。母は源清経の女。武門の家に生まれ,鳥羽院の北面の武士として仕え,和歌・蹴鞠(けまり)などに活躍した。1140年(保延6)23歳で出家。その後,仏道と和歌に励み,高野山や伊勢国に住する一方で,奥州・四国などを旅した。「詞花集」に1首,「千載集」に18首入集したが,死後成立した「新古今集」には最多の94首が選ばれ,歌人としての名声が高まった。家集「山家(さんか)集」「西行上人集」「聞書(ききがき)集」「残集」。「山家心中(さんかしんちゅう)集」「御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)」「宮河歌合」は自撰の秀歌集。旅する歌僧として伝説化され,その和歌とともに後代の文学に大きな影響を与えた。
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…白木とは,スギ,ヒノキなどの黒皮をむいた建築用材のことで,白木屋とはそれを扱う材木屋の別称である。集材地には地元出身の専業者も多かったが,サイギョウ(西行)という渡(わたり)職人が各地の親方をたよりにして,転々と一種の旅職として全国を放浪した。このほか,山村の農民で農閑期の副業としてこれに就労するものもいて,ノキバコビキ(軒場木挽)と呼んだりした。…
…秀郷から数えて6世の孫の左衛門尉公清をはじめとして,その子の季清,孫の康清らがみな左衛門尉になったため,左衛門尉の左と藤原の藤をとって佐藤というようになったという。この一族出身で有名な人に歌人の西行がいる。彼は俗名佐藤義清,はじめはやはり左衛門尉で,鳥羽院の北面の武士であった。…
…西行の家集。3巻。…
…収録説話には仏教的なものが多いが,和歌,漢詩,芸能に関するものもある。本書は長いあいだ西行の著であると信ぜられ,享受されてきた。〈遁世者〉として,〈漂泊の歌人〉としての西行像の形成にはたした役割は大きい。…
…田仲荘の預所佐藤仲清・能清父子が平家の威勢を背景に押領を企てたためであるが,彼らの行動は鎌倉幕府に支持されず,紛争は86年(文治2)をもって終息した。なお《尊卑分脈》の記述を信じれば,仲清の弟は歌人として著名な西行(さいぎよう)(俗名佐藤義清)である。鎌倉時代には田中氏を称する武士がおり,湯浅党の一員となっている。…
…伊勢の内宮に奉納した西行の自歌合。成立は奥州から帰った1187年(文治3)ころか。…
※「西行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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