日本資本主義(読み)にほんしほんしゅぎ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「日本資本主義」の意味・わかりやすい解説

日本資本主義
にほんしほんしゅぎ

日本について資本主義の初期段階である重商主義の起源を求めると、16世紀末の織豊統一政権による海外植民時代にまでさかのぼることができる。しかし、江戸幕府成立後1639年(寛永16)に実施された鎖国によってその芽は摘み取られ、そのスタートは幕末1854年(安政1)の開港、本格的には1868年(明治1)の明治維新まで待たねばならなかった。以来1960年代までの100年近く、日本資本主義は欧米諸国と比べて最後発国、後進国として位置してきたが、1960年代以後の高度経済成長を通じて欧米諸国へのキャッチアップ(追いつき)を達成し、1980年代なかばには、1人当りGDP(国内総生産)でアメリカと肩を並べる「経済大国」に成長した。19世紀のパックス・ブリタニカ、20世紀のパックス・アメリカーナにかわって、21世紀には日本、NIES(新興工業経済地域)、ASEAN(東南アジア諸国連合)諸国とともに、近年躍進が著しい中国、インドを含めたアジアの時代が到来することが展望されている。

 この1世紀余に及ぶ日本資本主義の全過程に通じる特質としては、
(1)絶えず欧米先進諸国をモデルとし、そこから生産力や先進的諸制度を導入移植し、もってそこへのキャッチアップを図ろうと努めたこと、
(2)したがって、経済発展のスピードが速く、
(3)また、政府と民間経済主体とくに資本との緊密な協同がみられたこと、
が指摘できる。

 もっともその体質と構造は、第二次世界大戦における敗北を画期に、戦前と戦後では大きく変化した。その点を考慮して、以下、戦前期と戦後期に大別して叙述しよう。

[柴垣和夫]

戦前期

日本資本主義の成立

1868年、「尊皇攘夷(じょうい)」の復古的スローガンを掲げて成立した明治政府は、欧米列強の圧力のもとで一転して「文明開化、殖産興業、富国強兵」のスローガンに転じ、封建制度を撤廃して資本主義的近代化・工業化の政策を進めた。それは、直接的な生産力のほか、企業制度、財政・金融制度、運輸・通信など経済面のみならず、教育、兵制、私法、公法などの社会的・国家的諸制度を欧米先進諸国から移植する形で進められた。資本の原始的蓄積も、民間の資本蓄積の未熟を反映して政府主導で進められ、政府とそれに寄生する三井、三菱(みつびし)など特権政商との独特の癒着関係が形成された。

 これらの結果、日本資本主義は、商品経済と資本の自律的発展が長期間をかけて制度の近代化を促すという先進国(イギリス)型ではなく、「上からの資本主義」といわれる後発国(ドイツ)型の特質をもって成立した。1889年に発布された明治憲法による権威主義的国家体制がそれを象徴している。

 ところで、日本における資本主義的工業化の内実は、上述した政府主導によるものではなく、1880年代末から1890年代を通じての、主として関西地方の地主・商人の手による近代的綿糸紡績業の移植とその確立によってもたらされた。それは、原料綿花を主としてインドに依存し、製品である綿糸布を中国をはじめとするアジア各地に輸出し、アジアにおける日本の先進工業国としての確立を担った。

 しかし、鉄鋼、機械など重化学工業の確立は困難で、その製品は紡績機械を含めて欧米諸国からの輸入に依存せざるをえず、他方、在来の中小・零細企業で生産される生糸の対米輸出が成長することによって、対欧米諸国との関係では半製品輸出・工業製品輸入という後進国的連関が形成された。

 こうした対外連関の二面性に加えて、国内でも移植産業である機械制大工業と在来産業である中小・零細企業、さらには地主制を伴った小農経営という、産業・企業の重層構造が形成され、それが確立期日本資本主義の構造的特質となった。

[柴垣和夫]

早熟的帝国主義の挫折

19世紀末からアジアを舞台に本格化した帝国主義列強間の角逐は、年若き日本資本主義をも巻き込んだ。日清(にっしん)・日露戦争に勝利した日本は、台湾、朝鮮、南樺太(からふと)を植民地化し、幕末の不平等条約を解消して自らの帝国主義化を目ざし、軍備拡張を図った。しかし、そのために不可欠な重化学工業化は民間では担えなかったため、官営八幡(やはた)製鉄所や軍工廠(こうしょう)など政府の負担で進めざるをえず、日露戦費負担も加わって、日本資本主義は1907年(明治40)恐慌以降、慢性不況と外貨危機に陥った。第一次世界大戦によるブームが一時的にその危機を緩和したが、戦後1920年代には、公共投資がマクロの成長を下支えしたものの、民間部門では慢性不況が再現した。

 この過程で、一方では三井、三菱(みつびし)、住友などの旧政商が同族持株会社を設立して財閥コンツェルンに成長するとともに、綿工業でも強固なカルテルが形成され、金融資本による独占体制が確立した。都市化を背景とした大正デモクラシーによる政党政治が成立し、労働者・農民の運動、社会主義運動が本格化したのもこの時期のことであるが、後者は治安警察法、治安維持法による厳しい弾圧にさらされた。

 1929年(昭和4)に始まる世界恐慌は、国際金本位制の崩壊による世界経済のブロック化と、資本主義諸国の国家独占資本主義への移行を促したが、日本では、1931年の金本位制停止による為替(かわせ)下落→輸出急増と、満州事変に始まる中国侵略戦争下の軍需インフレによって、いち早く不況からの脱出に成功し、重化学工業化も進んだ。

 しかし、輸出の急増と中国侵略は、欧米列強とくにアメリカ、イギリス両国との帝国主義的対立を激化させた。それに対して、政権を手にした軍部ファシストは、ドイツ、イタリアのファシスト政権と枢軸を結んで戦争の拡大で対抗、第二次世界大戦に突入した。緒戦の優勢にもかかわらず、彼我の経済力の差によって、戦争の長期化とともに枢軸側は敗勢に転じ、1945年ドイツ、日本の連合国への無条件降伏によって日本帝国主義は崩壊した。

[柴垣和夫]

戦後期

戦後改革と経済復興

敗戦と同時に日本は連合国(実質的にはアメリカ)の占領下に置かれ、そのイニシアティブのもとで一連の戦後改革が実施された。それは、経済面における財閥解体、農地改革、労働改革、財政・金融制度改革のほか、国民主権、基本的人権および戦争放棄を三大原則とする新憲法の制定に象徴されるように国家・社会のあらゆる面での変革を含むもので、これによって日本資本主義は、戦前の権威主義的な、また戦中のファッショ的色彩を払拭(ふっしょく)し、戦間期ドイツのワイマール体制やアメリカのニューディールに源流をもつ福祉国家の枠組みをもつこととなった。

 この間、敗戦直後の悪性インフレと農工生産の激減により飢餓線上に陥った日本経済は、傾斜生産方式による生産復興、ドッジ・ラインによるインフレ終息を図ったが、その復興を決定的に促進したのは、東西冷戦を背景に1950年(昭和25)に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争による米軍特需であった。

 1951年9月、アメリカはサンフランシスコで対日講和会議を開き、日本政府はアメリカ陣営との片面平和条約に調印、それは1952年4月に発効した。これによって日本は旧植民地のほか千島を放棄し、形式的に独立を回復したが、同時に日米安全保障条約が締結されて米軍の日本駐留が維持され、日本の再軍備が促された。これに、その後のIMF、ガットへの加盟を加えて、日本は戦後確立したパックス・アメリカーナの「核とドルの傘」の下に編入され、その対外的枠組みを確定したのである。

[柴垣和夫]

高度経済成長期

単一保守党としての自由民主党の発足、講和問題で分裂していた社会党の統一、共産党の極左方針の清算によって、政界の「55年体制」が成立した。その1955年に始まる経済の高度成長は、戦後改革と片面講和によって形成された国内的・対外的枠組みに、重化学工業という内容を盛り込む過程であった。

 産業構造の重化学工業化は、鉄鋼・造船・重電といった古典的重工業、戦間期のアメリカで確立した自動車・家電など耐久消費財工業、さらには合繊・石油化学・電子・原子力などの新産業がほとんど同時並行的に形成される形で進み、その裏面で綿と生糸に代表される戦前の中心産業は斜陽化した。安価な中東原油の流入によってエネルギー革命が進み、石炭鉱業も衰退した。こうして産業構造は戦前のそれから激変したが、これを可能にしたのが、為替(かわせ)管理による国内市場の保護を前提としての、アメリカ・ブロックからの技術と資源輸入、国内の豊富で良質な労働力、家計の高貯蓄率による間接金融と資本蓄積優先の租税・財政構造であった。この過程で、戦後解体された財閥も独禁法体制のもとで企業集団という形で再編され、機械工業を中心に中小企業の近代化とその親企業との新しい系列化も進んだ。

 こうした経済力の向上を背景に、日ソ国交回復(1956)や、より双務化された内容への日米安保条約の改定(1960)が実現した。この安保改定をめぐっては大衆運動を背景とした厳しい政治的緊張が生じ、同時に闘われた三井三池炭鉱の大争議と連動したが、その敗北後、政治主義的労働運動は退潮し、「所得倍増計画」を打ち出した政府・財界の高度成長路線に飲み込まれていった。

 1960年代に入って、ドル危機を背景としたアメリカの圧力のもとで貿易、為替、資本取引の自由化が進められ、また若年労働力の不足による賃金高騰から1965年不況が発生して、日本経済の先行きに不安がもたれたが、それは同じ年に始まるアメリカのベトナム戦争介入の本格化に関連した輸出の急伸で解消され、設備投資も再燃して、1970年代初めまで輸出・設備投資主導型の大型景気が訪れた。この過程で各重化学工業は量産体制を確立して世界市場に進出し、貿易・経常収支は赤字基調から黒字累積に転じ、資本輸出も本格化した。1968年に日本のGNPは西ドイツを抜き、アメリカに次ぐ西側世界第2の「経済大国」に成長した。

 しかし、この過程は内外両面でさまざまな矛盾を際だたせた。すなわち、対外面では、輸出の伸張がアメリカや西ヨーロッパ諸国との貿易摩擦、開発途上国の反発を招き、ドル危機のいっそうの深化を促進して、1971年8月のニクソン新経済政策によるIMFの為替の固定相場体制崩壊の一因となった。国内では、クリーピング・インフレ(忍び寄るインフレ)の加速、公害、農業の荒廃と過密・過疎などの社会問題を深刻化させ、それは政治過程にも反映して自由民主党支持率の低下、都市部における革新自治体の簇生(ぞくせい)を招いた。

 公害規制と福祉優先の政策を推進した革新自治体に触発されて、自民党政府もその後を追ったが、「5万円年金」とその物価スライド制が実現し「福祉元年」がうたわれたまさにそのとき、1973年秋に勃発した石油危機によって、20年近く続いた高度成長時代は終わりを告げた。

[柴垣和夫]

石油危機とその克服

石油危機(オイル・ショック)は先進諸国を激しいスタグフレーション(インフレと不況が同時に発生すること)に陥れ、日本も1973年秋から1974年にかけて、2桁(けた)インフレと戦後初のマイナス成長を記録した。

 厳しい総需要抑制によるインフレの沈静ののち、大量の国債発行による財政スペンディング(財政支出で需要の減退をカバーし、景気回復させようとする政策)と企業ぐるみで進められた省資源、省力、金融コスト削減の「減量経営」、それに1978年ごろ開花したマイクロエレクトロニクス技術による技術革新が重なって、日本経済は先進国のなかでは最高のパフォーマンス(できばえ)を実現し、1979~1980年にイラン革命を背景として再発した第二次石油危機も比較的軽微な影響で克服した。その際、職工平等・長期雇用・年功賃金・企業別組合に支えられた日本的経営、ならびに徹底した現場主義、多能工制度とメカトロニクスの結合が可能にした多品種少量生産の日本的生産システムが大きな役割を果たし、それが国際的な注目を集めた。ハーバード大学教授E・ボーゲルの著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が国際的ベストセラーになったのはこのころのことである。

 もっとも、大量の国債発行は財政危機を招き、1980年代に入ると、欧米で登場したサッチャー、レーガン両政権の新自由主義政策に連動して財政再建のための行政改革が追求された。行革では国鉄、電電公社、専売公社などの公共企業のJR、NTT、JTなどへの改組民営化が進められたが、財政面では歳出が抑制される一方、何度かの挫折のあとで一般消費税が導入された(1987年)。だがそれは内需を抑制し、レーガノミックス(Reaganomics アメリカのレーガン政権のとった経済政策。供給力=サプライサイド重視の立場から減税、財政支出削減、規制撤廃を進めた)が生み出した過度のドル高・円安の為替レートの影響も加わって、日本経済の外需依存を極端に高め、輸出の激増、貿易・経常黒字の累積による対外経済摩擦とりわけ対米摩擦を一段と激化させることとなった。すでに1971年に旧IMF体制が崩壊したあと、1973年春以降国際通貨体制は変動相場制に移行していた。変動相場制下での経常黒字の累積は、為替レートの円高圧力を生み出す一方、それにもかかわらず貿易構造の垂直分業(おもに原材料を輸入し、工業製品を輸出する貿易構造のこと)的なあり方のゆえに、円高によって貿易収支を調整するという機能が働きにくかったのであるが、レーガノミックス下の異常な円安が経常黒字のさらなる拡大をもたらしたのである。経常黒字の累積と1980年の外為(がいため)法改正による対外投資の自由化を背景に、対外証券投資が急増して日本は世界最大の債権国に成長するとともに、対外経済摩擦に触発されて対外直接投資も急伸した。逆にアメリカは債務国に転落したが、1985年9月ニューヨークのプラザホテルで開催されたG5(先進5か国財務相・中央銀行総裁会議。1986年からG7)は、国際協調によるドル高の是正を確認し(プラザ合意)、これによって円=ドルレートは1985年春の1ドル=260円から1988年1月の1ドル=110円にまで円高が進んだ。これは日本の輸出産業に冷や水を浴びせ、1986年から1987年にかけての円高不況をもたらす一方、それまで対外直接投資に消極的だったトヨタをはじめとする自動車産業の本格的海外進出を促した。

[柴垣和夫]

バブルとその崩壊

円高は輸出産業に一時的に冷や水を浴びせたものの、原油価格低下も加わって輸入物価を大きく引き下げ、日本経済は久方ぶりに、1987年以降1991年春に至る内需主導の大型景気を経験した。内需拡大によってNIES(新興工業経済地域)やASEAN(東南アジア諸国連合)諸国からの製品輸入が拡大し、全輸入に占める製品の割合は1989年に過半を超え、対米貿易黒字も1991年まで減少を続けて、険悪化していた日米摩擦も沈静した。

 この大型景気で特徴的だったことは、金融自由化に加えて、円高不況対策と対米金融支援のためにとられた低金利政策(1987年2月の公定歩合は、当時史上最低の2.5%)を背景に、土地と株式への旺盛な投資が行われ、しだいにそれが投機化してバブルを発生させ、いわゆるバブル経済をもたらしたことである。戦後一貫して上昇してきた土地価格が「土地神話」をつくりだした。地価上昇は企業の土地資産を増価して株価をつり上げ、企業はそれを利用して内外でエクイティファイナンス(新株発行を伴う資金調達)を行う一方、それにこれも地価上昇による担保価値の増加と低金利によって可能となった新たな借入金を加えて、さらなる土地、証券への投資を行った。一方銀行その他の金融機関は、エクイティファイナンスによる企業の銀行離れでだぶついた資金を、直接または住宅金融専門会社(住専)など系列のノンバンクを通じて積極的に提供した。この過程で銀行の審査機能が麻痺(まひ)し、暴力団がらみの地上げ資金が含まれていたことがのちに判明している。この間、卸売物価や消費者物価など一般物価がほとんど上昇せずに安定していたことが、政府・日銀を無警戒にしていた。だが、東京通勤圏における一戸建て住宅価格がサラリーマンの年収の5倍の限度を超えて10倍に達するに及んで、1989年(平成1)5月から日銀は公定歩合の引き上げに転じ(1990年8月に6%)、1990年5月には住専を除く金融機関の土地融資の総量規制に踏み切った。

 その結果、1990年1月からまず株価が、1991年には地価が下落を開始し、実体経済も同年1~3月期をピークに下降に転じ、バブルの崩壊が始まった。不況は1993年9月にいったんは底入れし、以後緩やかな回復過程に入ったといわれたが、同年から1995年春にかけての急激な円高(同年4月市場最高値の1ドル=80円)の影響もあって好況感は生まれず、ふたたび財政金融政策を総動員しての景気振興を図らなければならなかった。その結果1995年から1996年にかけて、この間の円安にも支えられた輸出産業の回復を契機に景気は反転したかと思われたが、おりから企業年金の破綻(はたん)や高齢化社会への移行に伴う公的年金危機が議論の的となるなかで、1997年4月の消費税の5%への引き上げが消費の徹底した沈滞を招き、さらには同年秋の東南アジア諸国の通貨危機のショックも影響して、不況の慢性化を招いた。

[柴垣和夫]

「失われた十年」

こうして、日本資本主義は1990年代を通じて「失われた十年」とよばれる平成大不況に呻吟(しんぎん)したが、この不況は「複合不況」ともよばれ、実体経済の不振とともに、金融不安を伴った点に大きな特徴があった。それは株価と地価が最高値の半額以下に暴落した結果担保価値が激減し、既存の貸出が不良債権に転化してしまったことによる。日銀は銀行の利鞘(りざや)確保のために公定歩合を段階的に引き下げ、1995年(平成7)8月にそれは0.5%という前代未聞の低水準となった。だが、それにもかかわらず、まず巨額の不動産融資を行っていたノンバンクの住専が破綻し、ついで信用組合、信用金庫、第二地方銀行などの一部、さらには都市銀行の一角を占める北海道拓殖銀行が破綻(1997年11月)するに至った。その他の都市銀行や信託銀行、長期信用銀行も株価と地価の下落で含み資産が底をつき、8%の自己資本を必要とするBIS(国際決済銀行)規制を維持できなくなるおそれが生じたため、政府は1998年10月一連の金融再生関連法ならびに金融早期健全化法を制定し、総額60兆円の公的資金を用意して信用秩序の維持を図らなければならなかった。この施策が最初に適用され、一時国家管理とされ、のちに民営化されたのが日本債券信用銀行(現、あおぞら銀行)と日本長期信用銀行(現、SBI新生銀行)の2長銀であった。総会屋への資金供与や一部顧客の損失補填(ほてん)で評価を落とした証券業界でも中小証券の整理が進み、やがて四大証券の一角を占める山一証券が廃業に追い込まれた(1997年11月)。1997年5月には再度外為法が改正されて為替業務が自由化され、金融、証券、保険にわたる東京市場の金融ビッグバン(ほかに金融持株会社設立、普通銀行の社債発行、銀行・信託・証券間に加えて保険業との間での相互参入の解禁など)が進められるとともに、2000年(平成12)から2004年にかけて都市銀行や大手信託銀行間の合併統合が進み、三井住友銀行、みずほ銀行、三菱(みつびし)東京UFJ銀行(2018年三菱UFJ銀行に改称)の三大メガバンク体制が形成された。

 経済の混乱に呼応するかのように、政治も混迷した。国際政治では1980年代末のソ連・東欧社会主義諸国の崩壊によって、東西冷戦の終結という大転換が生じたが、それはかならずしも世界平和につながらず、むしろ民族紛争などが絡んだ局地戦争が頻発した。日本では、バブル絶頂期の1989年に竹下内閣が退陣した後、2001年4月に小泉内閣が成立するまで短命内閣が続いた。その間、1993年7月の総選挙で自民党が過半数割れして55年体制の発足以来初めて非自民連立の細川護熙(もりひろ)内閣が成立し、衆議院選挙制度が小選挙区比例代表並立制に変更されたが、その後も自民、共産を除く諸政党の改名や離合集散が繰り返された。この間、一貫して野党を貫いてきた共産党の躍進が目だったが、世論調査が示すところでは「支持政党なし(無党派層)」が最大多数を占め、各種選挙での投票率も低迷し、経済・政治ともどもに混迷の度を強めた。

[柴垣和夫]

小泉構造改革と格差社会

2001年(平成13)4月、自民党にありながら無党派層の支持を背景に「自民党をぶっつぶす」と叫んで登場した小泉純一郎内閣は、「改革なくして成長なし」を合いことばに、新自由主義と市場原理に依拠した構造改革路線を追求した。同内閣は自民党内の守旧派の抵抗を排して公共事業の抑制による財政再建を進めるとともに、首相長年の持論で、これも党内の反対が強かった郵政民営化を唯一の争点とした衆議院の解散・総選挙(2005年9月)を実施して圧勝し、郵便、郵便貯金、簡易保険の3事業の民営化に着手した。だが、小泉改革でその後の日本経済に大きな影響をもたらしたのは、雇用にまつわる規制の緩和であった。この時期、産業界では、株主利益重視のアメリカ型経営導入の動きもあって、日本的経営の特質とされた長期雇用と年功賃金を見直す動きが強まっていたが、雇用の流動化を図るためとして、すでに1986年(昭和61)施行の労働者派遣法によって一部解禁が始まり、1999年(平成11)の原則自由化によって拡大していた民間による人材派遣が、2004年には製造業についても解禁された。その結果、2008年ごろには労働者全体に占める非正規労働者(派遣、請負、期間工、契約社員、パートなど)の割合は3分の1を占めるに至った。

 この間、金融機関の不良債権処理が完了したことやIT技術革新を背景に、景気は2002年1月を底として回復に転じ、2007年10月に至るまで69か月の上昇という戦後最長を記録したが、企業利益と株式配当は激増したのに対して、労働分配率は低下の傾向を示し、労働者の実質所得はほとんど上昇しなかった。年収200万円以下で働く非正規労働者がワーキングプアとよばれ、また人口の高齢化のいっそうの進展による影響もあって世帯間の所得格差が拡大し、「格差社会」化が大きな社会問題となった。

 一方、対外関係では、政治面で小泉内閣は、2001年9月の同時多発テロに対してアメリカのブッシュ政権が国連の決議を得ないまま始めたイラク戦争に全面的に協力して日米蜜月関係をつくりだす一方、繰り返された首相の靖国(やすくに)参拝で中国との関係は悪化した。しかし、経済面では、NIES、ASEAN諸国に続く新興工業国としてBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の工業化が展開するとともに中国との貿易関係が飛躍的に拡大し、2007年には日本の輸出入総額の首位がアメリカから中国に交替した。2006年9月に小泉内閣が退陣した後、後継の安倍晋三(あべしんぞう)、福田康夫の両内閣は中国との関係修復に努め、いまや台頭するアジアにおいてヨーロッパ連合(EU)やNAFTAに対抗できるアジア経済共同体の構想が取りざたされる状況が生まれるに至った。

[柴垣和夫]

2008年世界金融・経済危機と日本経済

2008年(平成20)秋、アメリカの住宅バブルとローンの証券化商品への投資ブームは、サブプライムローンの焦げ付きを契機としてアメリカの巨大銀行・保険・証券が破綻ないし破綻に瀕(ひん)する大規模な証券・金融危機に逆転し、グローバル化した経済のもとで世界的規模での証券・金融危機をもたらした。この危機は信用の収縮、株価の暴落からただちに実体経済の収縮へと連動し、1929年世界恐慌以来の「100年に一度」といわれる経済危機が始まった。

 日本では、1990年代に一回り先に経験したバブル崩壊の教訓から、欧米諸国に比べて金融面での打撃は相対的に小さかったが、製造業の生産収縮は著しく、上述の非正規雇用者の解雇、雇止めが盛行し、失業問題が大きな社会問題となった。2008年9月に発足した麻生太郎(あそうたろう)内閣は、米欧各国の政府ともども新自由主義政策から180度の路線転換を行い、金融機関への政府資金の注入、福祉関連への財政支出の拡大などのケインズ政策による福祉国家への回帰が展開された。この間政治の舞台では2007年7月の参議院選挙で自民・公明の与党は少数派に転落し、衆議院との「ねじれ」が生じたこと、安倍内閣以降の政権がいずれも総選挙の洗礼を受けていないことなどから、「100年に一度」の危機に有効に対処できなかった。

 他方、危機の震源地アメリカでは、2009年1月に初のアフリカ系アメリカ人B・H・オバマ(民主党)が大統領に就任し、国際協調主義を掲げて「単独行動主義」を展開した前任のブッシュ政権とは対照的な政策を打ち出した。しかし、このアメリカが20世紀を通じて世界の経済・政治・軍事を支配したパックス・アメリカーナを再現することは、おそらく不可能である。それは経済の面では、これまでアメリカを代表してきた巨大金融機関や自動車産業のビッグスリー(ゼネラル・モーターズ、フォード、クライスラー)の凋落(ちょうらく)に端的に表現されている。国際通貨としてのドルは、その代替通貨がみいだせないところからなお基軸通貨の地位を維持してはいるが、拡大する貿易・経常赤字と対外債務の前に凋落の可能性を秘めている。このアメリカに対して、ヨーロッパではEUが、ソ連解体後東欧諸国の加入を得て2018年現在28か国にまで拡大。2002年には単一通貨ユーロ(2018年現在加盟19か国)を創出した。世界金融危機ではアメリカ同様に大きな打撃を受けたが、地球温暖化への取り組みや福祉政策の堅固さからみて、国際社会での先駆的役割を期待された。

 問題はアジアであり、そのなかでの日本である。アメリカによる金融グローバリゼーションが挫折(ざせつ)した今日、21世紀において、中国、インドという人口大国を要するアジアは、生産基地として世界経済に占める比重をますます大きくしている。そのような環境のもとで、技術大国日本がどのような役割とリーダーシップを果たすことができるのか、それが問われているといわなければならない。

[柴垣和夫]

『楫西光速・大島清・加藤俊彦・大内力著『双書・日本における資本主義の発達』全13巻(1954~1969・東京大学出版会)』『大内力著『日本経済論』上下(1962、1963・東京大学出版会)』『香西泰著『高度成長の時代』(1981・日本評論社/日経ビジネス文庫)』『講座今日の日本資本主義編集委員会編『講座 今日の日本資本主義』全10巻(1981~1982・大月書店)』『宮崎義一著『日本経済の構造と行動』上下(1985・筑摩書房)』『中村隆英著『昭和経済史』(1986・岩波書店/岩波現代文庫)』『東京大学社会科学研究所編『現代日本社会』全7巻(1991~1992・東京大学出版会)』『井村喜代子著『現代日本経済論』(1993・有斐閣)』『都留重人著『日本の資本主義』(1995・岩波書店)』『長島誠一著『戦後の日本資本主義』(2001・桜井書店)』『ロナルド・ドーア著、藤井真人訳『日本型資本主義と市場主義の衝突 日・独対アングロサクソン』(2001・東洋経済新報社)』『福田泰久著『日本資本主義経済の歩み――「豊かな」日本経済の表と裏 幕末から2000年まで』改訂版(2004・清風堂書店)』『東京大学社会科学研究所編『「失われた10年」を超えて』ⅠⅡ(2005、2006・東京大学出版会)』『井村喜代子著『日本経済――混沌のただ中で』(2005・勁草書房)』『大石嘉一郎著『日本資本主義百年の歩み――安政の開国から戦後改革まで』(2005・東京大学出版会)』『金子勝著『戦後の終わり』(2006・筑摩書房)』『三和良一・原朗編『近現代日本経済史要覧』(2007/補訂版・2010・東京大学出版会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「日本資本主義」の意味・わかりやすい解説

日本資本主義 (にほんしほんしゅぎ)

明治維新を起点として資本主義経済を基調とする工業化の道を歩みはじめた日本は,1890年代から1900年代にかけて産業革命を遂行し,日露戦争後の1910年ころに資本主義社会の成立をみるに至った。日本資本主義の成立過程の大きな特徴は,自生的には資本家的生産の萌芽が未成熟な段階にあったなかで,すでに帝国主義の時代へ移行しつつあった先進資本主義諸国による圧迫とそれへの依存によって急速に展開し,そのために先進諸国への従属性をもつと同時に,その従属からの自立すなわち〈脱亜入欧〉をめざす明治政府の主導のもとに,朝鮮,中国への軍事的侵略に支えられて進展したことである。このような成立過程の特徴のために,日本資本主義は次に述べるような構造的特質をもつこととなった。

特質の第1は,国家資本が優位を占め,民間資本の発展が国家に依存する国家主導的性格である。それは具体的には,陸海軍工厰,官営製鉄所,国有鉄道等の国家資本の構成的比重の高さに,また国民総支出の10%を超える財政支出,および日本銀行,特殊銀行,大蔵省預金部を通ずる国家金融の役割の大きさに現れている。とくに,植民地銀行,特殊会社,鉄道および政府借款を通ずる朝鮮・中国支配は,民間資本進出の先導役を果たしただけでなく,資源と市場を確保することによって資本主義発達の重要な条件となり,日本は資本主義の成立と同時に帝国主義国となった。

そのことと関連して第2に,金属,機械等の重工業大経営が,繊維,食料品等の軽工業との再生産的関連をほとんどもつことなく,国家的・軍事的要請のもとに創設され,重工業の発展が軍需生産に傾斜する軍事的性格をもったことである。生産技術の世界的水準との極端な格差と資金調達力の弱さのため,民間の重工業=生産財生産が一般的に低位にとどまったなかで,官営の陸軍工厰,製鉄所および財閥の傘下にある大造船所は,財政資金の集中的支援をうけて突出的発展をとげた。日露戦争後には,それらはほぼ世界的技術水準に到達し,財閥系製鋼所の成立と相まって,造船業の自立化を達成し,鉄鋼自給率を上昇させたが,なお機械工業は一般的に低位にとどまり,鉄鋼自給率も低く,生産財および軍需品の多くを輸入に依存した。

第3に,それと対照的に繊維(紡織)工業が民間の工場制工業発達において主導的地位を占め,資本主義経済の基軸を構成していったことである。日本の繊維工業は綿業と絹業の二大部門から構成されていたが,工場制工業の発達を主導したのは綿業の紡績業と絹業の製糸業である。紡績業は紡績機械と原料綿花を輸入に依存し,最初から典型的な機械制大工業として発達し,輸入インド綿糸と対抗して国内市場を制覇するや,いち早く朝鮮および中国市場へ進出し,日露戦争後には朝鮮市場を支配し,中国市場でもインド綿糸を圧倒するに至る。綿織物業も紡績会社兼営織布を中心に,それに綿業先進地(泉南,知多)の機械製綿布が加わって朝鮮・中国向け輸出を増大し,日露戦争後には朝鮮・〈満州〉市場を支配するに至る。しかし綿業全体の対外収支は,綿花輸入代金の大きさのために支払超過であった。これに対し製糸業は国産製糸器械を用い零細農民の生産する原料繭に依存して,アメリカ市場に輸出先を集中させつつ発展し,日本の貿易収支を支える最大の輸出産業となった。

第4に,このような繊維工業を基軸とする工場制工業の発展には,農村から不断に大量に供給される低賃金労働力の存在が不可欠の条件であり,その意味で半封建的地主制下の零細農民の広範な存在は,日本資本主義をその根底において支える要因であったことである。農村過剰人口を供給源とする低賃金労働は,紡績業,製糸業の出稼型若年女子労働に典型的にみられたが,それだけでなく重工業,鉱山業,建設業等の不熟練男子労働でも広く存在した。農村過剰人口はまた,織物,製茶,和紙,畳莚,真田等の在来産業における零細工場,家内工業の広範な存続の基礎をもなしていた。

こうして日本資本主義においては,いろいろな産業部門の発展が極端に不均衡な形をとり,機械制大工業,手工制零細工場,小営業,家内工業,零細農業等,発展段階が異なるさまざまの生産形態が重層的に存在するに至った。このような不均等発展は,産業諸部門が相互に社会的関連をほとんどもたないで他律的に発展したことによるが,それはまた大工業にとっての国内市場を狭隘(きようあい)にし,さらなる対外進出に駆りたてるものであった。日本の貿易は,(1)重化学工業製品輸入のため入超を続ける対ヨーロッパ貿易,(2)多額の生糸輸出により巨額の出超を示す対アメリカ貿易,(3)綿花,米等の工業原料,食料品の巨額の輸入のため赤字を続ける対東南アジア貿易,(4)綿製品の輸出により黒字を増大させる対東北アジア(中国,朝鮮)貿易の四つの主要局面から構成され,これを世界貿易体系との関連で要約すれば,(1)(2)の対欧米貿易では繊維原料を輸出して重化学工業製品を輸入する後進国型貿易関係をもち,(3)(4)の対アジア貿易では工業原料を輸入し綿製品を輸出する先進国型貿易関係をもつという二面性をもっていた。第1次大戦前には重化学工業の未成熟のため欧米からの輸入が増大し,また東南アジアへの工業製品輸出には大きな制約があったため,日本の貿易は絶えざる入超に悩まされた。こうして重化学工業の自立化とアジア市場の支配の強化が必至の課題として要請された。

広範な半封建的諸関係を温存する農村を土壌とし,アジア大陸への軍事的侵略によって支えられ,繊維工業を発展の基軸とした日本資本主義の基本構造は,第1次大戦以後,とりわけ1930年の昭和恐慌,31年の〈満州事変〉以後,一定の変容をとげる。

その第1は重化学工業化の進展である。それは第1次大戦期における造船-鉄鋼の産業連関を中心に,その他電力,電機,化学等,民間重化学工業の顕著な発達によって開始された。しかし,欧州大戦という外在的契機による急激な経済膨張と重化学工業化は,生産手段生産の一般的低位性と産業構造の分断性を根本的に解決するものでなく,むしろ電力飢饉,鉄鋼不足にみられるような限界を露呈した。しかも,当時の新興産業である電力,化学などの例外を除き,多くの部門は,大戦終了と欧米資本の東洋市場への復帰および世界的な軍縮のなかでの軍需の停滞により,急激な収縮ないし低迷を余儀なくされた。

 しかし不況下の1920年代に多くの重化学工業部門では,政府の保護政策に依存しつつカルテルを組織して外国商品に対抗し,合理化により生産力基盤を強化することに努めた。さらに電力化,都市化による需要の拡大に支えられて20年代後半に重化学工業は一定の発展を示し,20年代末には,鉄鋼,工作機械,人造肥料等の分野を除き,多くの分野でほぼ国内市場を確保するに至る。そして,大恐慌後,賃金水準の一般的低落を基礎に,低為替政策による輸出拡大と〈満州事変〉による軍需に支えられて景気が回復するなかで,軍需品,鉄鋼,船舶,電機等の旧来の重工業が発展するだけでなく,航空機,自動車,紡織機械,化学肥料,染料,化学繊維等の新興重化学工業も発展の緒につくが,この重化学工業化には大きな特徴=限界があった。すなわち,1934年時点で,(1)民間工業における重化学工業の比重は職工数でも生産額でも50%に満たず,多くの分野でようやく国内自給化を達成した程度にとどまり,(2)重化学工業化が〈満州事変〉による軍需と対満投資による対満輸出に支えられたものであり,(3)最大の伸びを示し自給化を達成した鉄鋼業においても,輸入屑鉄・銑鉄に依存した発展が銑鋼アンバランスを拡大した点にみられるように,産業構造の対外依存性を脱却しえず,(4)重工業部門における大企業の優位が確立し,財閥もこの分野への進出を開始するが,他面では電力化の進んだ零細工場も増大し,下請制が成立してきたことである。そこに日本資本主義の段階的な変容と構造的特質の持続が示されている。

段階的変容の第2は,第1次大戦以後鉱工業労働者数が急激に増大し,農村から都市へ大量の人口が流出し,就業人口構成と階級構成に大きな変化が生じたことである。かかる変化を基礎に大戦末期より大企業を中心に大規模な労働争議が続発し,それが賃金水準を押し上げていった。しかしなお就業人口構成では農林水産業就業者が50%以上を占め,階級構成における中間層の分厚い存在という特質も持続された。そして20年代には新たに大企業と中小企業との間にいわゆる二重構造(とくに賃金格差構造)が成立し,重工業大企業では熟練工を企業内に確保するための年功賃金制(年功的労使関係)が成立し,また労働争議に対処して工場委員会制度による労働者の企業内組織化が進んでいった。それに対応して政府の労働政策も,労働組合を事実上公認してそれを取り締まる方向に転換してくるが,治安警察法の改正と同時に制定された労働争議調停法が,その母法となるべき労働組合法が成立せずに施行され,20年代後半に頻発する中小企業の労働争議に適用されながら,集団的労資関係の未成熟のまま警察行政と結びついた法外調停が主流となった点にみられるように,労働権の公認を基礎とする現代的労資協調体制は成熟しないで終わった。

段階的変容の第3は,第1次大戦期の急激な農産物市場ならびに労働市場の拡大を契機にして農村へ貨幣経済が浸透し,一方で地主層の有価証券投資が進み,他方で自小作・小作農民の商品生産者化,兼業農業化が進み,それを背景にして20年恐慌後米価が低迷するなかで小作争議が広範に展開し,そのために地主採算が悪化して地主制が後退過程に入ったことである。小作争議の高揚に対処して農商務省官僚の主導により半封建的地主小作関係を改革する新しい農地立法が企画されるが,地主勢力の反対により,小作権を強める農地法と小作組合法は成立せず,直接に小作争議の鎮定をはかる小作調停法だけが成立する(1924)。また中間層を維持拡充して農村秩序の安定をはかる自作農創設維持規則もつくられるが(1926),それは創設計画面積の狭小さと創設方式が地主に有利な間接・自由創定方式とを特徴とする微温的な政策にとどまった。小作調停法は小作関係を近代化する実質的内容を含まず,対立する地主と小作農民の利害を行政によって調停しようとするもので,運用いかんで地主の権限を抑制する面もあったが,それだけでは小作争議の鎮定と農民統合に十分な機能を果たしえず,同時に警察による取締りと産業組合,協調組合の育成が進められた。30年代前半の大恐慌で農村が長期不況に落ち込み,小作争議が再び激発したのに対して,政府は応急的に大規模な救農土木事業を実施し,さらに〈自力更生〉を基本とする農山漁村経済更生運動を展開して農民の統合をはかったが,この過程で大地主を中心に地主的土地所有は減退しながらも,地主制の基本的枠組みは維持されていった。

段階的変容の第4は,貿易構造の変化である。1920年代後半に前述のような工業生産の拡大により貿易収支は入超が減少するが,それは主としてヨーロッパからの重化学工業製品輸入の減少,アメリカへの生糸輸出とアジア,アフリカへの綿布輸出および〈満州〉・中国への機械器具輸出の増大によるものであった。このうち対米生糸輸出の増大は,〈永遠の繁栄〉を誇ったアメリカで絹織物の大衆商品化に伴う生糸需要の増大によるが,それは同時に生糸が人絹糸にとって代わられる段階に達していたことの表現であり,大恐慌によってそれが現実化し,生糸輸出は激減する。そのほかの対英生産財輸入の減少,アジア,アフリカヘの綿布輸出および対満機械器具輸出の増大という新しい傾向は,大恐慌,〈満州事変〉後の30年代にいっそう明確になる。そしてこの新しい傾向は,欧米帝国主義国との緊張関係を増幅した。

第2次大戦における日本の総力戦体制,統制経済の展開には,日本資本主義の特徴,矛盾が如実に現れた。第1に,日本資本主義の対外依存性と重化学工業の一般的低位性のために,外国貿易とくに外貨不足問題がつねに重要な意味をもったことである。戦時経済運営の中枢をなした物資動員計画が,外貨枠の割当てを中心として編成され,貿易見通しが狂うたびにつぎつぎと改訂を余儀なくされたことが,それを集中的に表現している。日本の国際収支構造は,日中戦争の進展により中国占領地が円ブロックに編入されたため大きく変化し,外貨決済を必要としない対〈満州〉・中国貿易とそれ以外の第三国貿易と,異質な二面から構成されるに至り,前者の円ブロック貿易は外貨獲得の手段にならなくなり,対欧米貿易における入超を〈満州〉・中国への出超によって相殺するという従来の構造が崩壊してしまった。しかもこの間に,石油,鋼,屑鉄,銅,機械等の重要基礎資材輸入を中心として対米貿易依存が増大したため,中国支配をめぐるアメリカとの対立,日独伊三国同盟の締結やインドシナ進駐を機に強化されていったアメリカの対日禁輸は,日本経済にとって決定的な打撃となった。日本政府はそれに代わる南方資源の確保をめざして対米開戦に踏みきるが,それは新たに海上輸送力=船舶確保問題を生み(物資動員計画も外貨に代わって船腹が規制の枠となる),そして船舶不足が敗戦の最後の決め手となった。

 第2に,戦時経済の進展は産業構造,就業構造の急激な重化学工業化をもたらしたが,この戦時重化学工業化は,正常な産業構成の高度化による重化学工業化ではなかったために,大きな限界をもっていたことである。もともと軍部による総力戦体制構築=〈生産力拡充〉構想は,内地と植民地とを含めて総力戦に耐えうる新たな生産力体系を創設しようとするもので,その実行計画は既存の生産力をはるかに超えるものであり,しかも戦争の拡大に伴う軍需の急増にしたがって計画がつぎつぎと拡大改訂されていった。それにつれて資材配当,資金供給が軍需産業に集中し,基本産業向けを年々削減していったため,基礎資材生産の実績が計画を大きく下まわり,1941年ころをピークにして以後減少に転じていった。民需産業はそれ以上に資材配当,資金供給が制限され,1937年ころをピークにしていち早く生産が停滞した。日本の鉱工業生産はすでに太平洋戦争開始直前に限界に達していた。太平洋戦争に入るや,紡織機械の屑鉄化や企業整備,徴用など,軍需=重工業による民需=軽工業の破壊がさらに進展していった。それと同時に農業生産も,基幹男子労働力の徴兵・徴用と資材配給制限により急速に低下し,そのため生活必需物資の不足による生活水準の低下は日中戦争期から始まり,太平洋戦争期にそれが加速化し,終戦時には飢餓水準に近づいていた。45年8月のポツダム宣言の受諾を待つまでもなく,日本資本主義は崩壊の寸前にあった。

敗戦と同時に日本は植民地を失い,軍隊が内外にわたって機能を停止し,植民地支配と軍事力への依存を不可欠の条件としてきた日本資本主義は,解体への第一歩を踏み出したが,なおしばらくは旧来の支配機構はそのまま存続した。それを破砕したのはアメリカ占領軍による民主化政策であり,それを機に変革運動も急速に高揚してくる。アメリカ占領軍の初期の対日政策の基本方針は,〈降伏後における米国の初期対日方針〉(1945年9月発表)に示されているように,日本が再びアメリカの脅威とならないための非軍事化と,そのアメリカの目的を将来にわたって保障するための民主化とにおかれた。この方針のもとに占領直後から1947年にかけて,軍隊の解体,軍工厰の管理,教育の自由主義化,労働者の団結権の保障等々の旧秩序の民主主義的変革と,財閥解体,農地改革等の経済民主化とがつぎつぎと実行に移された。しかし,ヨーロッパ情勢の緊迫からアメリカの世界政策が〈冷戦の論理〉を明確にし(1947年3月,トルーマン・ドクトリン),中国革命の進展に伴う東アジアの革命的情勢の進展につれて,47年から48年にかけてアメリカの対日政策は,非軍事化=民主化を基調とする政策から,日本に〈反共の防壁〉としての役割を期待する経済自立化政策へ転換をとげていった(1948年1月,ローヤル陸軍長官声明)。

 ここでは,日本資本主義の基本構造にかかわる三つの主要な経済改革,財閥解体,労働改革,農地改革について,民主化政策とその転換をみておこう。

財閥解体には,日本経済の非軍事化=民主化のため侵略戦争の一翼を担った財閥コンツェルンを解体する狭義の財閥解体の側面と,一般的な経済民主化のための経済力集中排除=独占禁止の側面と,二つの側面が含まれていた。前者の狭義の財閥解体は,1945年11月持株会社解体に関する指令を起点とし,財閥資本家の期待を裏切って実行され,46年9月から47年9月までに合計83社が持株会社の指定を受け,四大財閥ほか中小財閥を含む財閥本社の解散,三井物産・三菱商事の解散,指定会社の有価証券の強制譲渡等の措置が行われた。さらに財閥家族の所有有価証券の強制譲渡等の追加措置が行われ,財閥コンツェルンはほぼ完全に解体された。これに対し後者の集中排除=独占禁止は,日本の資本家団体が頑強に抵抗し,アメリカ国内の批判もあってなかなか実現せず,47年11月に至って過度経済力集中排除法(集中排除法)という妥協的形態で実行に移されたが,指定対象会社は48年2月の325社がピークで,以降占領政策の転換とともに急速に後退し,最終的には日本製鉄,三菱重工業など18社にとどまった。そして48年から始まった独占禁止法(1947年4月公布)改正の動きが49年6月に実現し,その後〈企業グループ〉という新しい形での資本の再結集がはかられていった。

労働改革は1945年10月のマッカーサーの五大改革指示を起点とし,労働組合法の制定(1945年12月公布,翌年3月施行)から始まり,さらに労働関係調整法(1946年9月),労働基準法(1947年4月)および国家公務員法(1947年10月)等の制定によって近代的労働立法が体系化された。これによって日本ではじめての団結権,団体交渉権が保障され,8時間労働制が法定された。日本の支配層は労働改革に消極的であり,占領軍の改革指示が本格化してはじめて微温的改革に踏みきった。労働組合運動は1945年末から急速に拡大,高揚し,46年前半には経営民主化闘争から生産管理・業務管理争議が激増して経営権を脅かした。これに対し占領軍および日本政府は〈違法スト〉弾圧に乗り出した(頂点は1947年二・一ゼネスト禁止)が,それはなお当初からの対日占領政策の枠内にあった。占領政策の転換はここでも48年から明確になり(画期は1948年7月マッカーサー書簡,政令201号),49年にかけて経営合理化,ドッジ・ラインと続くなかで弾圧(とくにレッドパージ)が強化され,労働運動は後退していった。そして国家公務員法の改正,新労組法の制定等の再改革がなされ,生産管理争議,経営協議会で勝ちとった労働協約が破棄され,団体交渉権が制限されていった。このように労働改革は大きく旋回したが,はじめて近代的労働権が成立し,なお日本的特性をもつとはいえ欧米なみの労使関係の社会改良的枠組みがつくられた。

農地改革は占領軍の態度がまだ明確でなかった1945年末に,農林省官僚によって独自に農地改革案が作成された点に特徴がある。この第1次農地改革法は,強制譲渡方式による自作農創設や小作料金納化等の点で戦前の農地政策から飛躍していたが,地主保有地を大幅に認めた点に限界があったため占領軍により批判され,その後対日理事会での討議をへて46年10月第2次農地改革法(自作農創設特別措置法と農地調整法)が成立する。それは急速・広範な強制・直接創立方式による自作農創設と小作関係の近代化,および改革実施主体の農地委員会の民主化等の点で,戦前来の農地政策と質的に異なっていた。その実施により小作地のほぼ80%,約200万町歩が解放され,地主的土地所有は根底から解体された。第2次農地改革法成立前から農民運動が急速に拡大・高揚し,地主の土地取上げに対抗しただけでなく,その先進部分は土地管理組合による農地共同管理と農業共同経営を基軸とする農村構造変革をめざしたが,占領軍はそのような農地改革法の枠組みから逸脱する運動や山林解放には反対しつつ,〈反共の防壁〉たる自作農の創設を遂行していき(1950年ポツダム勅令),農民運動は農地改革の進展につれて急速に退潮していった。財閥解体と労働改革が占領政策の転換により退潮したのに対し,農地改革だけはそのまま遂行された点に占領軍の民主化政策の特徴があった。

以上三つの主要経済改革は,戦前の軍事的・半封建的性格をもつ日本資本主義の基本構造を変革するものであったが,その過程は同時に日本資本主義をアメリカに従属させ,重化学工業を基軸とする資本主義として新たに再建する過程でもあった。日本の工業生産指数は,敗戦時の1946年に戦前(1934-36基準)の約1/4に低下し,ドッジ・ラインの設定された49年までに約1/2に回復し,朝鮮戦争を経た51年に戦前水準を超えるに至るが,その間未曾有のインフレーションを収束し,生産復興を軌道づけた主要な契機は,第1に賃金抑制の物価体系の設定と基幹産業への重点的財政投融資およびアメリカの対日援助,第2に占領軍の対日政策の転換(1948年5月ドレーパー使節団報告)で具体化された政策(賠償緩和・集中排除緩和による日本経済自立化,対日援助打切り,均衡財政の確立,為替レート設定による貿易拡大)を強力に実施したドッジ・ライン(1949)であったが,しかしそれだけでは,すなわち第3の契機である1950年以後の朝鮮戦争ブームがなければ日本の急速な経済復興はありえなかった。
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朝鮮戦争による特需景気で戦前水準を回復した日本経済は,1955年から73年の石油危機の勃発まで,20年近くにわたってめざましい高度経済成長を実現した。この間1957年,62年,65年,71年と数年おきに経験した景気後退期にも成長率はプラスを維持し,年平均の実質GNP成長率は約10%と,世界史的にも未曾有の高成長をなしとげたのである。その結果,1968年にはGNPの総額で西ドイツを追い抜き,西側世界でアメリカに次ぐ第2の経済大国となった。このような高度経済成長の内容は,民間設備投資に主導された産業構造の高度化,とりわけ製造業の重化学工業化であった。製造業に占める金属,機械,化学の比重は,出荷額構成で1955年の51%が65年に62%,70年に66%に達し,鉄鋼,造船のような旧型重工業から自動車,家電などの耐久消費財産業,合繊,石油化学,電子,原子力などの新興産業まで,欧米先進諸国の半世紀以上の成果を約10年間で実現し,1965年以降は設備の大型化,量産化を通じて,国際的にも一流の水準にキャッチアップしたのである。ここに,綿と絹とを産業構造の中軸とした戦前の日本資本主義との決定的変化がある。

では,こうした重化学工業化を内容とした高度経済成長を可能にした条件は何であったのか。基礎的には,第2次大戦後の国際環境の変化が日本の重化学工業化を外から強制した側面がある。日米安保体制のもとでの中国市場との遮断,中国を含め植民地を脱したアジアの途上諸国での繊維工業の発展という戦後の環境のもとでは,繊維を中心とした戦前型産業構造への回帰は不可能であり,緊密化した日米経済関係に依拠しつつ重化学工業化の道を追求するほかなかった。1950年代後半に策定された三つの経済計画で,〈設備の近代化〉(経済自立5ヵ年計画,1955),〈重化学工業化〉(新長期経済計画,1957),〈産業構造の高度化〉(国民所得倍増計画,1960)が〈重点政策課題〉として掲げられたのは,その点を示している。そしてより積極的には,このような重化学工業化の課題を実現するうえでの具体的条件に恵まれていたことである。すなわち,すぐれた重化学工業をつくりあげるためには,技術,資源,労働力,資金といった生産要素の調達が不可欠で,技術は主としてアメリカからの技術導入によって,資源は国際石油資本による中東原油の安価な供給によって,労働力は戦前以来の農村過剰人口を源泉とする新規学卒若年労働力の供給によって,資金は家計部門の高貯蓄を金融機関が媒介する間接金融と日本銀行の信用膨張によって,それぞれ調達が可能であった。

このような諸条件のもとで,重化学工業化による高度成長を担った経済主体は,財閥解体後の企業再編成のなかから形成された企業グループであった。それは旧財閥系の三菱,住友,三井の3グループに,戦後,銀行を中心に形成された富士銀行(芙蓉(ふよう)),第一銀行(現,第一勧業銀行),三和銀行の3グループを加えた六大企業グループからなり,おのおのが新興重化学工業のあらゆる分野を囲い込むという〈ワンセット主義〉的行動を展開した。企業グループの外にあった鉄鋼業を含めて,1960年代初頭までは企業間,グループ間の競争が激しく,大型合併や大型提携による協調的寡占体制が成熟したのは60年代後半以降のことである。他方,戦前,繊維,雑貨を中心に問屋制的下請制のもとにおかれていた中小企業も,重化学工業の大企業の部品・加工メーカーとして親工場に直結された。なかにはソニー,本田技研工業のように技術力を武器として中堅から大企業に成長するものも生まれた。高度成長が私的資本を主役として推進され,憲法9条の制約により防衛費負担も軽かった結果,政府部門の比重は欧米諸国と比べて小さく,比較的〈安上がりの政府〉が実現された。64年度まで均衡予算が維持され,65年不況期にはじめて赤字国債が発行されたが,その後高度成長の再現とともに発行額は減少した。ただ,財政規模は小さかったとはいえ,財政支出の内容は,財政投融資の対象とともに産業基盤向けの比重が高く,その反面福祉,民生向けの比重は低かった。

高度成長は国際水準の重化学工業を確立させ,所得水準の上昇と完全雇用を実現したが,その裏面で深刻な社会問題を発生させた。とくに〈所得倍増計画〉による1960年代の工業立地が,太平洋,瀬戸内の臨海地帯に集中したことから,いわゆる太平洋ベルト地帯を中心に空気・水質の汚濁,悪臭,騒音・震動等の公害が頻発した。若年労働力の都市への流出の結果,60年代以降農林水産業は荒廃し,食糧の自給率は,米だけは財政補助金に支えられて自給を維持しているものの,大幅に低下した。僻地(へきち)は過疎化して村落の維持が困難となり,都市は過密化して土地問題住宅問題,交通問題が深刻化した。加えて,これも60年代とくにその後半以降インフレが顕在化した。このような社会問題の深刻化は,国民の価値観ひいては政治状況に変化をもたらし,政権党である自民党への支持率は低下した。70年代に入って,環境や福祉を重視した革新自治体が簇生したのは,そのあらわれであった。政府が立ち遅れていた社会保障の充実に本格的に取り組み〈福祉元年〉をうたったのは73年のことであるが,その年の秋石油危機が勃発し,高度成長も終りを告げた。

 最後に高度経済成長期の対外関係をみておくと,1960年代前半までは,国内の重化学工業を保護するために,外貨予算制を中心とした為替と貿易の規制が行われていた。輸出では繊維品がかなりの比率を占め,国際収支は貿易収支,総合収支ともに赤字基調で,〈国際収支の天井〉が成長のネックとなっていた。ところが60年代とくにその後半以降,ドル危機をかかえたアメリカの圧力によって,貿易・為替の自由化,資本取引の自由化を進めたにもかかわらず,輸出は急増した。65年を境に貿易全体でも,また最大の比重をもつ日米貿易も黒字基調に転じ,品目構成では輸出では機械を中心とした重工業製品が,輸入では原油を中心とした原燃料が大部分を占めるに至った。これは日本の重工業製品が本格的に国際競争力をもつに至ったこととともに,1965-73年のアメリカの介入によるベトナム戦争のエスカレーションによるところが大きい。外貨の累積を背景に資本輸出も増加し,資本の輸出入バランスはフローでは65年から,ストックでは68年以降輸出超過となった。しかし,このような日本の急激な対外進出は,しだいに貿易摩擦の激化を生み,欧米諸国,東南アジア諸国での対日批判の気運を高めた。70年に入って,ベトナム戦争下のドルのたれ流しでいっそう深刻化したドル危機を打開するため,アメリカは執拗に円の対ドル為替相場(1ドル=360円)の切上げを迫った。しかし,日本がそれに抵抗したため,71年8月アメリカのニクソン大統領は新経済政策を発表して金とドルとの交換を停止し,これによって戦後世界経済を支えてきたIMF体制は崩壊した。以後ごく短期間の固定相場制(1ドル=308円)時代をへて,73年春以降円は変動相場制に移行した。

1973年秋の第4次中東戦争でOAPEC諸国が採用した石油戦略,つづいてOPECが実施した原油価格の4倍引上げという石油危機によって,日本経済は欧米先進諸国ともどもに深刻なスタグフレーションにおちいった。すでに73年初めから過剰流動性インフレの状態にあったところへ原油高騰とそれへの便乗値上げが加わり,同年秋から74年春にかけて年率で卸売物価30%,消費者物価25%の〈狂乱物価〉が生じる一方,インフレ抑制のために採られた厳しい総需要抑制政策の結果,74年のGNP成長率は戦後はじめてのマイナスを記録した。これに対し,政府は赤字国債を含む国債の大増発によって大規模な財政スペンディングを行い,民間企業は省エネルギーと人減らしを内容とする減量経営を実施し,さらに輸出が伸張したため,76年以降経済成長率は5%台まで回復した。またこの過程で金属,石油化学,造船等資源多消費型産業の不振,自動車,電気電子,精密機械等高加工型産業ならびにコンピューター関連のサービス産業など第3次産業の伸張がみられ,産業構造の知識集約化,高付加価値化が進んだ。とくに注目されたのは,機械にコンピューターを組み込むメカトロニクス技術やロボットの導入が進んだことで,これらの新技術革新と,労賃が1974年春闘での大幅アップ(33%)を最後に抑制されたこともあって,欧米諸国にぬきんでた生産性の上昇を実現した。その結果,79年に生じた第2次石油危機に対しても比較的柔軟に対応でき,日本経済のパフォーマンスの良さが,国際的にも注目されるようになった。その根本的原因は,欧米諸国に比べて労使関係が安定しており,労働規律が厳しさを保っていることにあると考えられている。

しかし,日本資本主義に問題がないわけではない。その第1は,1970年代後半の大規模な財政支出のつけともいうべき財政危機である。国債の累積による長期債務残高は82年に一般会計規模の2倍を超えた。政府は1981年に臨時行政調査会を設置し,その答申にもとづいて財政再建と行政改革に取り組んでいるが,必ずしも成功しているとはいえない。とくに高齢化社会が展望されるなかで福祉関係支出が抑制されていること,他方でアメリカのレーガン政権の強い要求によって防衛費が突出して増大しつつあること,が問題とされている。第2に,激化しつつある貿易摩擦である。石油危機後の日本の経済成長は内需よりも輸出に支えられてきたが,それはときに〈集中豪雨〉的な勢いを示し,また産油国などの一部を除けば,日本の貿易は一方的な黒字となっている。その結果,世界的に保護貿易主義が広がり,日本は多くの品目で輸出の自主規制を余儀なくされている。日本経済の体質を内需依存型に切り替えていく必要や,莫大な蓄積外貨を途上国への経済協力に向けていく課題が提起されているゆえんである。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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