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朴泳孝

美術人名辞典の解説

朴泳孝

朝鮮の政治家。潘南生。贈領議政元陽の三子。字は子純、玄々居士・春皐と号する。金玉均らと開化党を組織、のち日本に亡命。李完用内閣では宮内大臣となる。日韓併合に協力し、併合後侯爵・総督府中枢顧問官、ついで貴族院議員となる。檀紀4272年(昭和14年・1939)歿、78才。

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デジタル大辞泉の解説

ぼく‐えいこう〔‐エイカウ〕【朴泳孝】

[1861~1939]朝鮮、李朝末の政治家。金玉均らと独立党を形成。1884年甲申事変に失敗し、日本に亡命。94年、内務大臣。日韓併合後、侯爵・中枢院顧問官。パク=ヨンヒョ。

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百科事典マイペディアの解説

朴泳孝【ぼくえいこう】

朝鮮,李朝末期の政治家。1882年修信使として来日,日本の文物に接して感銘を受け,金玉均らと開化派(独立党)を結成。1884年甲申政変に失敗して日本に亡命。1894年―1895年の甲午改革のとき内務大臣をつとめたが,失脚後再び日本亡命。
→関連項目太極旗

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

朴泳孝 ぼく-えいこう

パク-ヨンヒョ

朴泳孝 パク-ヨンヒョ

1861-1939 朝鮮の政治家。
12年6月12日生まれ。哲宗の娘婿。朴珪寿(キユス)にまなび,金玉均(キム-オツキユン)らと開化派を形成。明治15年修信使として来日。1884年甲申(こうしん)事変をおこし,挫折(ざせつ)して日本に亡命。1894年帰国して内部大臣となり,甲午改革を推進したが,失脚してふたたび日本に亡命。韓国併合後に日本の侯爵,昭和7年貴族院議員となった。1939年9月20日死去。79歳。京畿道出身。字(あざな)は子純。

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朝日日本歴史人物事典の解説

朴泳孝

没年:昭和14.9.20(1939)
生年:哲宗12.6.12(1861.7.19)
朝鮮李朝末期の開化政治家。日本語読みは「ぼく・えいこう」。珪寿から実学を学び金玉均,洪英植,徐光範らと開化派を結成する。壬午事変(1882)後に修信使として訪日し,日本の近代化を視察し政界人および福沢諭吉らと交遊する。帰国後,金玉均らと甲申政変(1884)を引き起こすが,挫折し日本に亡命する。高宗25(1888)年,国王高宗に「建白書」を上呈し,東アジア情勢の切迫と朝鮮近代化の急務とを訴えた。同31年,日清開戦後帰国し内部大臣となり甲午改革に参画するが,日本の強い干渉に反発して独断専行し,金弘集らと対立した。三国干渉(1895)後の閔妃のロシア接近を抑えようとしたが,陰謀罪に問われ,同32年再び日本に亡命。隆煕1(1907)年帰国し宮内大臣となったが,ハーグ密使事件(1907)に当たり李完用内閣と対立し追放される。日韓併合(1910)後に日本から侯爵を授かる。朝鮮独立のため国民の活力を動員し,改革実現をめざしたが挫折した。<参考文献>森山茂徳『日韓併合』

(森山茂徳)

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世界大百科事典 第2版の解説

ぼくえいこう【朴泳孝 Pak Yŏng‐hyo】

1861‐1939
朝鮮,李朝末期の政治家で,開化派の中心人物の一人。字は子純。哲宗(在位1850‐63)の娘婿。潘南の人。朴珪寿の門下で金玉均ら開化派の盟友となり,1882年には修信使として訪日。84年の甲申政変に加担,失敗後日本に亡命。94‐95年の甲午改革の当時,金弘集内閣の内部(内務)大臣となったが,失脚して再び日本に亡命。1907年に日本の圧力による高宗の強制譲位に反対し,済州島に配流された。日韓併合後は朝鮮貴族として侯爵に列せられ,中枢院顧問となる。

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大辞林 第三版の解説

パクヨンヒョ【朴泳孝】

1861~1939) 朝鮮王朝末期の政治家。独立党に属し事大党と対立。1884年甲申政変に失敗し日本に亡命。94年日清戦争開戦時、内務大臣となる。韓国併合後、日本の貴族院議員・侯爵。ぼくえいこう。

ぼくえいこう【朴泳孝】

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

朴泳孝
ぼくえいこう
Pak Yǒnghyo

[生]哲宗12(1861).6. 京畿道
[没]1939.9.21. ソウル
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) 末期の政治家。字は子純。号は瓠船。哲宗の娘婿で,青年時代いちはやく開化派 (→独立党 ) の一員となり,運動に丁身した。高宗 19 (1882) 年に修信使として来日,明治初期の日本をつぶさにみて帰国した。帰国後,国政改革のため積極的な活動を展開し,同 21年には金玉均らとクーデターを起したが失敗 (→京城事変 ) ,日本に亡命した。同 31年に帰国し金弘集内閣の内相となったが,廃妃陰謀事件で失脚し再び日本に亡命。高宗の光武 11 (1907) 年に帰国して,李完用内閣の宮内大臣に任命され,高宗譲位に反対して済州島に流配された。日韓併合後,侯爵を受け中枢院顧問官となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

朴泳孝
ぼくえいこう / パクヨンヒョ
(1861―1939)

朝鮮、李朝(りちょう)末期の政治家。工曹判書朴元陽の末子で、哲宗の女婿となり、錦陵(きんりょう)尉になる。金玉均らと朴珪寿(ぼくけいじゅ)、劉鴻基(りゅうこうき)に師事して開化派を結成し、近代的改革運動を始めた。1882年(明治15)修信大使として日本を視察し、帰国後、漢城府判尹(はんいん)、広州府留守(りゅうしゅ)となった。1884年に甲申政変に参加し、新政府の左右営使兼左捕盗大将となったが、清(しん)軍の干渉で3日天下となり、日本に亡命した。1894年の日清(にっしん)開戦後、日本の斡旋(あっせん)で帰国し、開化派政権の内務大臣となったが、主導権争いなどで敗れ、翌1895年ふたたび日本に亡命。日露戦争後の1907年に帰国し、宮内大臣となるが、李完用総理と対立し、済州島に1年間流配された。韓国併合(1910)後、日本から侯爵の爵位を受け、中枢院顧問官となった。[朴 宗 根]

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世界大百科事典内の朴泳孝の言及

【甲午改革】より

…その多くは開化派の年来の構想に基づいていたが,日本の軍事力を背景とした上からの改革という性格は免れがたく,死文化したものも少なくなかった。日本はさらに井上馨を公使に派遣して大院君を退ける一方,12月,日本亡命から戻った朴泳孝を加えて新内閣を発足させ,翌95年1月にはこれまでの改革条項を再整理した〈洪範十四条〉を高宗の名で宣布,改革の促進・定着を図った。だが,日本による過度のおしつけは開化派政権への反発を強め,三国干渉ののち日本勢力が後退して7月初旬に朴泳孝が追放されると,改革は一頓挫を余儀なくされた。…

※「朴泳孝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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