朴泳孝(読み)ぼくえいこう(英語表記)Pak Yǒng-hyo

精選版 日本国語大辞典 「朴泳孝」の意味・読み・例文・類語

ぼく‐えいこう ‥エイカウ【朴泳孝】

朝鮮、李朝末期政治家独立党中心人物として日本との提携による政治改革独立達成を主張。(一八六一‐一九三九

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デジタル大辞泉 「朴泳孝」の意味・読み・例文・類語

ぼく‐えいこう〔‐エイカウ〕【朴泳孝】

[1861~1939]朝鮮、李朝末の政治家。金玉均らと独立党を形成。1884年甲申事変に失敗し、日本に亡命。94年、内務大臣日韓併合後、侯爵・中枢院顧問官。パク=ヨンヒョ。

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改訂新版 世界大百科事典 「朴泳孝」の意味・わかりやすい解説

朴泳孝 (ぼくえいこう)
Pak Yǒng-hyo
生没年:1861-1939

朝鮮,李朝末期の政治家で,開化派の中心人物の一人。字は子純。哲宗(在位1850-63)の娘婿。潘南の人。朴珪寿の門下で金玉均ら開化派の盟友となり,1882年には修信使として訪日。84年の甲申政変に加担,失敗後日本に亡命。94-95年の甲午改革の当時,金弘集内閣の内部(内務)大臣となったが,失脚して再び日本に亡命。1907年に日本の圧力による高宗の強制譲位に反対し,済州島に配流された。日韓併合後は朝鮮貴族として侯爵に列せられ,中枢院顧問となる。
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朝日日本歴史人物事典 「朴泳孝」の解説

朴泳孝

没年:昭和14.9.20(1939)
生年:哲宗12.6.12(1861.7.19)
朝鮮李朝末期の開化政治家。日本語読みは「ぼく・えいこう」。朴珪寿から実学を学び金玉均,洪英植,徐光範らと開化派を結成する。壬午事変(1882)後に修信使として訪日し,日本の近代化を視察し政界人および福沢諭吉らと交遊する。帰国後,金玉均らと甲申政変(1884)を引き起こすが,挫折し日本に亡命する。高宗25(1888)年,国王高宗に「建白書」を上呈し,東アジア情勢の切迫と朝鮮近代化の急務とを訴えた。同31年,日清開戦後帰国し内部大臣となり甲午改革に参画するが,日本の強い干渉に反発して独断専行し,金弘集らと対立した。三国干渉(1895)後の閔妃のロシア接近を抑えようとしたが,陰謀罪に問われ,同32年再び日本に亡命。隆煕1(1907)年帰国し宮内大臣となったが,ハーグ密使事件(1907)に当たり李完用内閣と対立し追放される。日韓併合(1910)後に日本から侯爵を授かる。朝鮮独立のため国民の活力を動員し,改革実現をめざしたが挫折した。<参考文献>森山茂徳『日韓併合』

(森山茂徳)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「朴泳孝」の意味・わかりやすい解説

朴泳孝
ぼくえいこう
Pak Yǒnghyo

[生]哲宗12(1861).6. 京畿道
[没]1939.9.21. ソウル
朝鮮,朝鮮王朝 (李朝) 末期の政治家。字は子純。号は瓠船。哲宗の娘婿で,青年時代いちはやく開化派 (→独立党 ) の一員となり,運動に丁身した。高宗 19 (1882) 年に修信使として来日,明治初期の日本をつぶさにみて帰国した。帰国後,国政改革のため積極的な活動を展開し,同 21年には金玉均らとクーデターを起したが失敗 (→京城事変 ) ,日本に亡命した。同 31年に帰国し金弘集内閣の内相となったが,廃妃陰謀事件で失脚し再び日本に亡命。高宗の光武 11 (1907) 年に帰国して,李完用内閣の宮内大臣に任命され,高宗譲位に反対して済州島に流配された。日韓併合後,侯爵を受け中枢院顧問官となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「朴泳孝」の意味・わかりやすい解説

朴泳孝
ぼくえいこう / パクヨンヒョ
(1861―1939)

朝鮮、李朝(りちょう)末期の政治家。工曹判書朴元陽の末子で、哲宗の女婿となり、錦陵(きんりょう)尉になる。金玉均らと朴珪寿(ぼくけいじゅ)、劉鴻基(りゅうこうき)に師事して開化派を結成し、近代的改革運動を始めた。1882年(明治15)修信大使として日本を視察し、帰国後、漢城府判尹(はんいん)、広州府留守(りゅうしゅ)となった。1884年に甲申政変に参加し、新政府の左右営使兼左捕盗大将となったが、清(しん)軍の干渉で3日天下となり、日本に亡命した。1894年の日清(にっしん)開戦後、日本の斡旋(あっせん)で帰国し、開化派政権の内務大臣となったが、主導権争いなどで敗れ、翌1895年ふたたび日本に亡命。日露戦争後の1907年に帰国し、宮内大臣となるが、李完用総理と対立し、済州島に1年間流配された。韓国併合(1910)後、日本から侯爵の爵位を受け、中枢院顧問官となった。

[朴 宗 根]

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百科事典マイペディア 「朴泳孝」の意味・わかりやすい解説

朴泳孝【ぼくえいこう】

朝鮮,李朝末期の政治家。1882年修信使として来日,日本の文物に接して感銘を受け,金玉均らと開化派(独立党)を結成。1884年甲申政変に失敗して日本に亡命。1894年―1895年の甲午改革のとき内務大臣をつとめたが,失脚後再び日本亡命。1910年日韓併合の後は侯爵となり,日本の朝鮮統治に協力。
→関連項目太極旗

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「朴泳孝」の解説

朴泳孝 パク-ヨンヒョ

1861-1939 朝鮮の政治家。
哲宗12年6月12日生まれ。哲宗の娘婿。朴珪寿(キユス)にまなび,金玉均(キム-オツキユン)らと開化派を形成。明治15年修信使として来日。1884年甲申(こうしん)事変をおこし,挫折(ざせつ)して日本に亡命。1894年帰国して内部大臣となり,甲午改革を推進したが,失脚してふたたび日本に亡命。韓国併合後に日本の侯爵,昭和7年貴族院議員となった。1939年9月20日死去。79歳。京畿道出身。字(あざな)は子純。

朴泳孝 ぼく-えいこう

パク-ヨンヒョ

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「朴泳孝」の解説

朴泳孝
ぼくえいこう
Pak Yong-hyo

1861.6.12~1939.9.20

李氏朝鮮末期の政治家。金玉均(きんぎょくきん)・洪英植(こうえいしょく)らとともに開化派として,1884年の甲申(こうしん)事変を企てたが挫折し,日本に亡命した。94年帰国して甲午(こうご)革命に参加し内部大臣となるが,独断専行で陰謀罪に問われ再び日本に亡命。1907年帰国し宮内大臣となるが,李完用内閣と対立し追放される。韓国併合により侯爵をうける。

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世界大百科事典(旧版)内の朴泳孝の言及

【甲午改革】より

…その多くは開化派の年来の構想に基づいていたが,日本の軍事力を背景とした上からの改革という性格は免れがたく,死文化したものも少なくなかった。日本はさらに井上馨を公使に派遣して大院君を退ける一方,12月,日本亡命から戻った朴泳孝を加えて新内閣を発足させ,翌95年1月にはこれまでの改革条項を再整理した〈洪範十四条〉を高宗の名で宣布,改革の促進・定着を図った。だが,日本による過度のおしつけは開化派政権への反発を強め,三国干渉ののち日本勢力が後退して7月初旬に朴泳孝が追放されると,改革は一頓挫を余儀なくされた。…

※「朴泳孝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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