近世兵法学(軍学)の主流の一つで、武田(たけだ)流、信玄(しんげん)流、甲陽(こうよう)流、小幡(おばた)流などともいう。流祖は、小幡勘兵衛景憲(おばたかんべえかげのり)(1572―1663)。彼自らが収集した『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』および『甲陽軍鑑末書(まっしょ)』『結要本』などを基本兵書とし、戦国の名将、甲斐(かい)(山梨県)の武田信玄の兵法戦略を祖述して、学問的な体系を打ち立て、兵法興隆の先駆となった。
景憲は武田の旧家臣小幡昌盛(まさもり)の子で、1582年(天正10)11歳のとき徳川家に仕え、秀忠(ひでただ)の小姓となったが、95年(文禄4)致仕して諸国を遍歴し、剣術修行のかたわら、信玄の遺跡や武田の遺臣を訪ねて、武田(源氏)家伝の兵法や陣法を聞き、また山本勘介(かんすけ)流の城取りを早川幸豊(ゆきとよ)に、軍配術を井伊家臣の岡本宣就(のぶなり)や上杉家臣の益田秀成らに学んだという。彼は長寿で晩年まで講授を続け、『甲陽軍鑑抜書前集・後集』をはじめ著述も多く、門弟は2000といわれ、幕臣をはじめ、毛利秀元(長府)、徳川頼宣(よりのぶ)(和歌山)、細川光尚(熊本)、浅野長治(ながはる)(三次(みよし))、松平定綱(桑名)、松平信綱(川越(かわごえ))、永井尚政(淀(よど))などの諸侯や、その家臣に支持者を広げた。景憲に実子はなく、甥(おい)の小幡憲行が学統を継ぎ、内弟子の杉山盛政、村上昌宜をはじめ、近藤正純、小早川宗久、松山定申、佐々木秀乗らの門下の逸材が全国に伝流した。また、門下の北条氏長(北条流祖)、山鹿素行(やまがそこう)(山鹿流祖)らは独立の学派をたてて有名となった。
[渡邉一郎]
『石岡久夫著『日本兵法史 上』(1972・雄山閣出版)』
…60年(永禄3)竜王の河原の開拓を計画して移住者を募り,棟別(むなべち)役免除の特権をあたえるとともに水防の義務を課したが,これが竜王河原宿(竜王町竜王)の成立である。近世初頭にかけて広く新田開発が進み農業生産力は増大,またその築堤技術は江戸時代には甲州流川除として知られた。【飯田 文弥】。…
※「甲州流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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