オーストラリアにおける白人優先政策。19世紀半ばからのゴールドラッシュ時の中国人鉱夫流入,19世紀後半のクイーンズランド植民地のサトウキビ農園における太平洋諸島のカナカ族の導入(ブラックバーディングblackbirding)で,白人労働者は警戒心を強め,各植民地単位で中国人やカナカ族の移民制限法を成立させた。この動きは1901年のオーストラリア連邦成立とともに,全国的な移民制限法(アジア人とは銘打たない点に注意)として拡大された。具体的には非白人の移住希望者に書取りテストを課して振り落とし,肌の色は絶対に表の理由としなかった。英語に堪能な非白人の場合は,どんなヨーロッパ系言語でテストしてもよかったので,必ず落とされる仕組みであった。世界総人口の半分が集中するアジアへの慢性的な恐れがあり,また,ただでさえ狭い労働市場へ低賃金で働く他人種が流入することは,労働条件の低下,ひいては国家経済を破綻(はたん)させかねないと,革新的なはずの労働党が真っ先に白豪主義を標榜し,1960年代まで党綱領に掲げ続けた。移民制限立法成立以前に市民権を取得していた非白人は,土地所有,雇用,営業,社会保障,選挙権などさまざまな点で差別をうけた。
第2次大戦後,アジアの反共国家との交渉のため,また60年代のブラック・アフリカの台頭もあって白豪主義は徐々に弱まり,73年に非白人移住への差別は除去された。特に75年以降のインドシナ難民の大量受入れは,若干の摩擦をひき起こしつつあるものの,新しい国是となった〈ゆとりのある多民族社会政策〉を実現に近づけた。今日では白豪主義という言葉に,オーストラリアの白人は強い反発を示している。
執筆者:越智 道雄
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オーストラリアへの有色人種の移民を排斥し、政治的、経済的のみならず、社会的、文化的にも白人社会の同質性を維持すべきだという主張と運動。起源は19世紀後半にさかのぼる。18世紀末にイギリスの囚人流刑地として出発したオーストラリア植民地は、1851年の金鉱発見(ゴールド・ラッシュ)以来、中国人を中心に大量の有色人移民の流入にみまわれた。これらの低賃金の人々が白人社会に同化せずに生活したため、白人労働者や小市民たちの間に反発が起こり、人種的偏見や植民地ナショナリズムなどと相まって排斥の機運が高まった。本国側はかならずしもこれを承認しなかったが、1888年六つの植民地州は、自分たちに移民制限権があるとの意見統一を行い、中国人移民制限を決定、ここに白豪主義の基礎を築いた。1901年、連邦発足後には、各州ごとに実施してきた移民制限法を統一・整備して、有色人種制限法を採択し、事実上有色人種の移民を禁止した。この法律は1966年に廃止され、1975年連邦人種差別禁止法の制定で、法制上は白豪主義は終焉(しゅうえん)した。同法制定後の10年間で10万人の難民を受け入れている。しかし、1996年下院議員に当選したポーリン・ハンソンPaulin Hansonに象徴されるように、白人たちの白豪主義への執着はなくなってはいない。ハンソンは、白人伝統文化の維持やアジア移民の排斥などを掲げ、1997年には超保守政党のワンネーション党を結成、一時は、世論調査で10%以上の支持率を獲得したこともあった。98年の総選挙でハンソンは落選、支持率も急落したが、これら一連のできごとは、白豪主義が完全には払拭されていないことを物語っている。
[石井摩耶子]
『永井浩著『オーストラリア解剖』(1991・晶文社)』▽『竹田いさみ著『物語 オーストラリアの歴史――多文化ミドルパワーの実験』(中公新書)』
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オーストラリアで実施された移民制限政策。19世紀半ばの金鉱発見後,中国人労働者や太平洋諸島民が多数流入したが,これに対して各植民地は移民制限法を制定して白人労働者の権利を守ろうとした。オーストラリア連邦が発足した1901年には,全国的な移民制限法が採択され,白人以外の移民は禁止となった。72年に移民制限は撤廃され,白豪主義は消滅した。その後,オーストラリアはアジア系移民の増加により,多文化主義を掲げている。
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…経済面以外での影響には,明がユリーカ砦の反乱に象徴されるアメリカ式共和主義と反英主義の高揚であり,暗が金鉱地への中国人鉱夫大量流入を契機とする中国人排斥運動(金鉱地では中国人鉱夫の方がはるかに多い所が続出し,同胞人女性を伴わない点でも中国人鉱夫は警戒された)であった。暗にあたる後者は,1855年のビクトリア植民地での中国人移民制限法決定以後,各植民地間首相会議の重要議題となり続け,ついに1901年のオーストラリア連邦結成,白豪主義政策の国是化(実務的には移民制限法で処理)を惹起した。明にあたる前者は,その後の歴史潮流では逆に陰にまわり,連邦結成の契機としてははるかに弱かった。…
…ベルサイユ講和会議では賠償問題委員会副委員長となり,ドイツ領ニューギニアを自国の委任統治領として獲得した。また日本代表牧野伸顕と白豪主義問題で渡り合った。さらに国際連盟憲章への人種平等条項挿入に反対し,これを葬り去った。…
※「白豪主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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