1937年7月7日夜、日本軍が北京郊外の盧溝橋近くで演習中に銃撃を受けたなどとして、8日未明、中国軍を攻撃、8年間に及ぶ日中戦争の発端となった。その後、日本軍は北京や天津を総攻撃、8月には戦火が上海に及び全面戦争に突入した。中国側は国民党と共産党による第2次「国共合作」を9月に成立させ、抗日戦争を強化。日本は太平洋や東南アジアなどに戦線を広げたが、45年8月にポツダム宣言を受諾して降伏した。(北京共同)
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1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。
1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)駐屯軍を増強、豊台(ほうだい)にも駐屯するなど、北平(ペイピン)(北京(ペキン))に対する圧力を強めていた。盧溝橋は、北平の南西15キロメートル、豊台の西3キロメートル、平(京)漢線鉄橋のやや下流に位置し、中国軍の守る要衝の地であった。
7日夜、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊(中隊長清水節郎(せつろう)大尉)は、盧溝橋北西約1キロメートルの永定河(えいていが)右岸竜王廟(りゅうおうびょう)付近で夜間演習中、10時半ごろ、日本軍の軽機関銃の発射(空砲)に続き、竜王廟方面から小銃による実弾数発の射撃があり、さらに日本兵1名行方不明という事態が発生した。同兵は20分後に帰隊したが、この点は北平の連隊本部にただちには伝えられなかった。翌8日午前3時過ぎ、再度竜王廟方面に銃声があったことから、北平の牟田口(むたぐち)連隊長により、午前4時23分に攻撃命令が出された。交戦状態への突入は5時半、盧溝橋につながる宛平(えんぺい)県城での両軍代表による交渉の最中であった。
8日、中国共産党は、華北の防衛、全民族の抗戦を訴える通電を発し、国民政府も10日夜、日本に抗議した。現地では、9日の停戦の合意にもかかわらず、10日夜ふたたび交戦状態に突入した。一連の戦闘で中国の民衆多数が日本軍によって殺傷された。11日夜8時、現地では停戦協定が成立したが、これより先、同夕6時過ぎ日本政府は「華北派兵声明」を発表、すでに全面戦争へ向けての重大な一歩を踏み出していた。
[安井三吉]
『寺平忠輔著『蘆溝橋事件』(1970・読売新聞社)』▽『秦郁彦著『日中戦争史』(1972・河出書房新社)』▽『藤原彰著『日中全面戦争』(『昭和の歴史5』1982・小学館)』
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1937年(昭和12)7月7日深更に北平(現,北京)郊外の盧溝橋付近で勃発した日中両軍の衝突事件。かねて共産軍の北上を理由に増強されていた支那駐屯軍第1連隊第3大隊第8中隊が,盧溝橋付近で夜間演習中の午後10時40分頃,盧溝橋北側の中国軍陣地方面から実弾射撃をうけ,また不明兵1人が出て現地は緊迫した(兵は20分後に帰隊)。中国側責任者の謝罪を要求する北平特務機関長松井太久郎と第29軍第38師長張自忠(ちょうじちゅう)の間の現地交渉で11日午後8時に協定が成立した。しかし同日,日本政府は軍部の拡大派に押されて満州(中国東北部)・朝鮮からの部隊派遣を決定したために局地解決の機会は失われ,事変は日中戦争に拡大していった。
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1937年7月7日,北京郊外の盧溝橋付近で起こった,日中戦争の発端となった事件。盧溝橋付近で深夜演習中の日本軍は,中国軍から射撃を受けた。日本側は中国側の陳謝と将来の保障,責任者の処罰などを要求,停戦協定が成立した。しかし当時の緊迫した日中間の情勢のなかで近衛文麿(このえふみまろ)内閣は派兵を決定し,ついに現地解決の線はくずれ,全面戦争へと拡大した。
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