直木三十五(読み)ナオキサンジュウゴ

デジタル大辞泉 「直木三十五」の意味・読み・例文・類語

なおき‐さんじゅうご〔なほきサンジフゴ〕【直木三十五】

[1891~1934]小説家。大阪の生まれ。本名、植村宗一。「時事新報」に月評を執筆。のち、時代小説南国太平記」で流行作家となり、大衆文学の向上に貢献。他に「荒木又右衛門」「楠木正成」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「直木三十五」の意味・読み・例文・類語

なおき‐さんじゅうご【直木三十五】

  1. 小説家。大阪出身。本名、植村宗一。早稲田大学中退。大正一三年(一九二四)「苦楽」創刊とともに、仇討物掲載。以後時代小説を主とする大衆作家として活躍した。著「由比根元大殺記」「南国太平記」など。明治二四~昭和九年(一八九一‐一九三四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「直木三十五」の意味・わかりやすい解説

直木三十五
なおきさんじゅうご
(1891―1934)

小説家。明治24年2月12日、大阪市生まれ。本名植村宗一。市岡中学卒業後、代用教員を務めたが上京、1911年(明治44)早稲田(わせだ)大学英文科予科に入学。学費滞納により除籍されたのち、春秋社、冬夏社などの出版社を設立するが失敗、関東大震災を期に大阪へ戻り、雑誌『苦楽』の編集に従事した。その後、連合映画をおこして文芸映画を作製したが、失敗を重ねて再度上京、1921年(大正10)『時事新報』に文芸時評を直木三十一の筆名で執筆し、文筆に専念する。当時31歳であった。以後、年を追って三十二、三十三とし、三十四を飛ばして三十五の筆名で定着した。1930年(昭和5)島津藩のお由良(ゆら)騒動を素材とした『南国太平記』を発表して文壇の流行児となった。ほかに『新作仇討全集(しんさくあだうちぜんしゅう)』(1926)、『荒木又右衛門(あらきまたえもん)』(1930)、『楠木正成(くすのきまさしげ)』(1931)、『明暗三世相』(1932)、『源九郎義経(げんくろうよしつね)』(1933)などがある。昭和9年2月24日没。直木の功績は時代小説を知識階級に読まれる内容にまで高めた点にあるといわれ、生前業績を記念して直木賞が設定された。

磯貝勝太郎

『『増補昭和国民文学全集5 直木三十五集』(1978・筑摩書房)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

20世紀日本人名事典 「直木三十五」の解説

直木 三十五
ナオキ サンジュウゴ

昭和期の小説家,映画監督,出版プロデューサー



生年
明治24(1891)年2月12日

没年
昭和9(1934)年2月24日

出生地
大阪府大阪市南区内安堂寺町

本名
植村 宗一

学歴〔年〕
早稲田大学英文科中退

経歴
早稲田大学を除籍後、大正7年春秋社をおこし「トルストイ全集」を刊行し、また雑誌「主潮」を創刊。その後三上於菟吉と元泉社を興したが失敗。大阪にもどりプラトン社に入社。月刊誌「苦楽」の編集にあたり「仇討十種」を連載。14年退社し京都で連合映画芸術家協会を設立、マキノ省三と「第二の接吻」「月形半平太」などを製作したが、これも失敗。再度上京し、昭和4年「週刊朝日」に「由比根元大殺記」を連載、作家として認められ、5〜6年にかけて「東京日日新聞」に発表した「南国太平記」で時代小説の花形作家となる。時代小説、時局小説、現代小説と幅広く活躍し、「荒木又右衛門」「楠木正成」「日本の戦慄」などの作品の他、「直木三十五全集」(全21巻 改造社)「直木三十五作品集」がある。筆名は31歳のときに直木三十一で月評を試みたのが最初で以後年齢が増えるごとに筆名を改め、三十四をとばして三十五で定着した。没後の10年、友人の菊池寛によって直木三十五賞が設けられ大衆文学の発展に寄与した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「直木三十五」の意味・わかりやすい解説

直木三十五 (なおきさんじゅうご)
生没年:1891-1934(明治24-昭和9)

大衆文学の先駆的作家。本名植村宗一。大阪生れ。市岡中学卒業後しばらく代用教員を勤めたが,まもなく上京して早大英文科予科に入学した。しかし学費が続かず除籍となる。1918年トルストイ全集刊行会を興し,雑誌《主潮》を創刊,さらに冬夏社を創設するが,いずれも失敗,関東大震災を機に大阪へもどり雑誌《苦楽》の編集に従い,連合映画芸術家協会を設立したが長く続かず再度上京,文筆に専念する。31歳のおり三十一の筆名を用いて以後三十二,三十三と改め,三十五で定着した。はじめは文壇ゴシップなどを書いたが,敵討物に傾倒したのを手始めに時代小説を手がけ,《仇討浄瑠璃坂》(1929),《荒木又右衛門》(1930)などを発表,薩摩藩お由羅騒動に材をとった《南国太平記》(1931)で不動の地位をかためた。そして時代小説の領域を広げ,リアルな表現で人気を博した。1934年結核性脳膜炎で没したが,マスコミはその死を侍の斬り死にたとえた。没後直木賞が設けられ,今日にいたっている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「直木三十五」の意味・わかりやすい解説

直木三十五【なおきさんじゅうご】

小説家。本名植村宗一。大阪市生れ。早大中退。1929年,《週刊朝日》に《由比根元大殺記》を連載し,作家として認められた。1930年から《大阪新聞》《東京日日新聞》に《南国太平記》を連載し,これによって一躍流行作家となった。大仏次郎とともに時代小説の領域を広げ,リアリティの質を高めると同時に,大衆文学への過小評価を改めさせようとした理論的な闘士でもあった。筆名は31歳のとき直木三十一とし,以後年ごとに三十二,三十三と改め,三十四はとばして三十五で定着。全集がある。没後直木賞が設定された。
→関連項目大衆文学矢野橋村

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「直木三十五」の意味・わかりやすい解説

直木三十五
なおきさんじゅうご

[生]1891.2.12. 大阪
[没]1934.2.24. 東京
小説家。本名,植村宗一。早稲田大学英文科中退。 1923年『文藝春秋』の創刊に参加して文壇ゴシップ欄を担当。毒舌で話題を呼び,『由比根元大殺記』 (1929) ,『南国太平記』 (30~31) の成功で流行作家となった。筆名は本名の一字「植」を2分して直木,年齢に応じて三十一,三十二,三十三と変更,以後三十五を名のる。 32年には「ファシズム宣言」をし,国策的傾向の強い『日本の戦慄』で文壇に波紋を投じた。没後,菊池寛の発意により大衆文学を対象とする文学賞「直木賞」が設定された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「直木三十五」の解説

直木三十五
なおきさんじゅうご

1891.2.12~1934.2.24

大正・昭和前期の小説家。大阪市出身。本名植村宗一。早大中退後,雑誌編集・映画製作のかたわら文壇ゴシップや世相批判を発表,やがて創作に進み,鹿児島藩お由羅騒動に材をとった1931年(昭和6)の「南国太平記」で大衆作家としての地位を確立。32年には期限付のファシスト宣言を発表するなど,時代への機敏な反応や奇行でも知られた。没後直木賞が設定された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「直木三十五」の解説

直木三十五 なおき-さんじゅうご

1891-1934 大正-昭和時代前期の小説家。
明治24年2月12日生まれ。大正10年31歳のとき直木三十一の筆名で文筆生活にはいる。以後毎年筆名に1をくわえ,三十五で定着。昭和5年「南国太平記」で流行作家となる。昭和9年2月24日44歳で死去。翌年直木賞がもうけられた。大阪出身。早大中退。本名は植村宗一。
【格言など】芸術は短く 貧乏は長し(文学碑)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「直木三十五」の解説

直木 三十五 (なおき さんじゅうご)

生年月日:1891年2月12日
明治時代-昭和時代の小説家;映画監督;出版プロデューサー
1934年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android