南は相模湾に面し、東・北は武蔵国、西北は
「日本書紀」天武天皇四年一〇月二〇日条に「是の日に、相模国言さく、「高倉郡の女人、ひとたびに三の男を生めり」とまうす」とあり、国名・郡名がみえる。国名は「和名抄」に「佐加三」と訓ずるが、「古事記」に「佐賀牟」と記され、また相武・相模の用字から、古くは「さがむ」であったと考えられる。郡は
令制の国・郡が設定される以前、早くから大和朝廷に服属したようで、「国造本紀」には
と歌ったという話、征討を果して帰国の際、足柄坂の上で「
令制施行で設けられた相模国府の所在地は、「和名抄」の大住郡説、「伊呂波字類抄」の余綾郡説、国分寺の所在からの
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
旧国名。律令(りつりょう)体制によって設けられた国名で、東海道の一つ。上国。関東平野の南西に位置する。東・北は武蔵(むさし)、北西は甲斐(かい)、南西は駿河(するが)・伊豆、南は相模灘(なだ)に面する。現在の神奈川県の大部分にあたる。国名は『古事記』で相武(さがむ)、『和名抄(わみょうしょう)』で佐加三(さがむ)とある。現在は通常、相模、古くは相摸と書いた。古代の相模は相模川・酒匂(さかわ)川流域を中心として政治・文化圏が形成、4~5世紀に大和(やまと)政権に服属した。国内の郡は『延喜式(えんぎしき)』によると、足上(あしのかみ)・足下(あしのしも)(のち足柄上(あしがらかみ)・下郡)、余綾(よろき)(のち淘綾(ゆるぎ))、大住(おおすみ)、愛甲(あゆかわ)、高座(たかくら)、鎌倉、御浦(みうら)(のち三浦)の8郡からなる。国府は初め国分寺のある高座郡海老名(えびな)に、のち余綾・大住郡へ移転したとの説が有力である。『正倉院文書』天平(てんぴょう)7年(735)「相模国封戸租(ふこそ)交易帳」によると国内には光明(こうみょう)皇后らの封戸1300戸、4126町余があり、『和名抄』には田畠1万1236町余、人口約10万2000人とある。『延喜式』によると足柄~浜田(海老名)から武蔵に至る官道があった。11世紀末から荘園(しょうえん)が成立し武士団が成長した。たとえば足柄下郡曽我庄(そがのしょう)・土肥氏、大住郡波多野庄・波多野氏、愛甲郡毛利庄・毛利氏、高座郡渋谷庄・渋谷氏、大庭御厨(おおばのみくりや)・大庭氏、三浦郡三浦庄・三浦氏がある。
1192年(建久3)源頼朝(よりとも)が鎌倉に幕府を開設、相模国は武家政権の中心地として将軍家の知行(ちぎょう)国となった。相模の武士団は頼朝挙兵から幕府創業期に御家人(ごけにん)の中核となった。源氏滅亡後、北条氏執権(しっけん)政治が確立、その治下に鎌倉五山を中心とする仏教が興隆した。南北朝内乱以後、相模国は関東管領(かんれい)支配となり、15世紀永享(えいきょう)の乱後、国内は内乱が続き、1495年(明応4)戦国大名北条早雲が小田原城に拠(よ)り、5代、1世紀の間関東を支配し、相模は西郡、中郡、東郡、三浦郡と津久井に編成された。
1590年(天正18)北条氏滅亡、徳川家康の関東入国により、相模国554か村のうち徳川氏直轄領275か村(49.6%)、旗本領73か村(13.3%)、国の西部足柄上郡・下郡は小田原藩大久保忠世(ただよ)領となり、中世から伝統のある鎌倉には寺社領12か村が設けられた。また1594年(文禄3)国高19万4200石のうち、直轄領約10万6900石、小田原藩領4万石、旗本領約4万石、寺社領等7300石がある。こののち国内に関宿(せきやど)藩領をはじめ諸藩領が設定されたが、小田原藩のほかに六浦(むつら)藩、烏山(からすやま)藩、佐倉藩、荻野山中(おぎのやまなか)藩領が幕末まで続いた。この間、1633年(寛永10)、97年(元禄10)地方直(じかたなお)しにより国内所領は分給・分散による旗本領が中心となった。1691年、戦国時代からの津久井領が津久井県に改称、全国でもまれな県という行政単位が用いられた。
近世の国内は開発が進み、相模原台地を中心に多くの新田が創出された。産業・物産には、足柄地方のミカンや石材、大住郡秦野(はだの)の煙草(たばこ)、津久井地方の漆、紬(つむぎ)、柏葉(かしわのは)(漁網の染料)などがあり、相模灘に面した大住郡須賀(すか)村のカツオは「御菜(ごさい)初鰹」として、また相模川のアユも将軍に献上された。文化も江戸との関係から盛んで、淘綾郡大磯(おおいそ)の鴫立庵(しぎたつあん)は相模俳壇の中心となった。また北相では自在庵派が栄えた。1853年(嘉永6)三浦半島浦賀にペリーが来航、日本の封建制は破れ、68年(慶応4)神奈川十里四方の大住郡、愛甲(あいこう)郡、高座(こうざ)郡、鎌倉郡、三浦郡の一部が神奈川府(のち神奈川県)、71年(明治4)廃藩置県により、11月鎌倉郡、三浦郡が神奈川県に、足柄上郡・下郡、淘綾郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、津久井郡が足柄県に編入され(76年神奈川県となる)、相模国は消滅した。
[神﨑彰利]
『『神奈川県史』全36巻38冊(1971~85・神奈川県)』
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東海道の国。現在の神奈川県西部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では足上(あしのかみ)・足下(あしのしも)・余綾(よろき)・大住(おおすみ)・愛甲(あゆかわ)・高座(たかくら)・鎌倉・御浦(みうら)の8郡からなる。国府は高座郡(現,海老名市),足下郡(現,小田原市),大住郡(現,伊勢原市など)など諸説があるが,鎌倉初期には余綾郡(現,大磯町)に移転したらしい。国分寺は高座郡(現,海老名市)と,足下郡(現,小田原市)の千代廃寺に比定する2説がある。一宮は寒川神社(現,寒川町)。「和名抄」所載田数は1万1236町余。「延喜式」では調庸は各種の綾・布帛で,中男作物として紙・紅花・茜・鰒(あわび)・堅魚(かつお)など。駿河国との境の足柄(あしがら)坂は交通の要所で,坂東の地名の由来ともなった。平安後期には大庭・梶原・三浦氏らが勃興した。源頼朝は挙兵後幕府を開き,鎌倉はその中心地として栄えた。三浦氏が守護をつとめたが,同氏滅亡後守護はおかれなかった。室町中期には鎌倉公方がおかれ,関東を管轄した。戦国期には後北条氏が小田原に本拠を構えたが,豊臣秀吉に滅ぼされた。江戸時代は小田原藩領以外はすべて幕領と旗本領。1868年(明治元)横浜に神奈川県がおかれ,71年神奈川県と足柄県が成立。76年足柄県は神奈川県に合併。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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