矢上村(読み)やかみむら

日本歴史地名大系 「矢上村」の解説

矢上村
やかみむら

[現在地名]石見町矢上

現石見町の南東部、北西から南境を京太郎きようたろう山・智河原ちごうら山とはら山山塊に囲まれた於保知おおち盆地の南西に位置し、智河原山麓を源とする矢上川とその支流の力沢谷りきざわだに川・大畑谷おおはただに川・木谷きだに川などが流れ、水田が発達している。

〔中世〕

貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に邑智郡庄領久永ひさなが庄の一部として「やか見 五丁八反小」とみえる。永禄四年(一五六一)一一月福屋ふくや(現那賀郡)に本拠をもつ国人福屋氏は安芸の毛利氏に反旗を翻した。しかし同年一二月初旬井原いばら方面から侵入してきた毛利軍は福屋勢が守る余勢よせ城で激戦を交え、同城が落城すると「矢上熊ケ峯」(熊ヶ峠城)方面を守っていた福屋勢も総崩れとなった(一二月一〇日「毛利隆元書状」閥閲録、年未詳「二宮俊実覚書」吉川家文書など)。そして、毛利元就はこの地で越年し(正月一三日「吉川元春書状」広島大学所蔵小原文書)、翌永禄五年二月福屋氏を石見から駆逐した。同七年一〇月二三日には出羽民部大輔元祐に矢上のうち五二五貫の地が宛行われている(「毛利元就知行充行状」閥閲録)


矢上村
やかみむら

[現在地名]藍住町矢上

笠木かさぎ村の北と西を占め、南東は住吉すみよし村、南は南東流する正法寺しようほうじ(矢上川)を境として奥野おくの村。建保二年(一二一四)四月日の阿波国司庁宣案(大東家文書)にみえる「矢上庄」の遺称地。慶長二年(一五九七)の分限帳に矢上とあり、四五四石余が置塩領。同八年に徳島藩領となった。正保国絵図でも同高で、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳によればこの高すべてが畠方。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高七七九石余。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高一千一一二石余。


矢上村
やがみむら

[現在地名]港北区日吉ひよし一―七丁目、川崎市さいわい区矢上

東北は矢上川を境として北加瀬きたかせ(現川崎市幸区)木月きづき(現同市中原区)、南は箕輪みのわ村、西は駒林こまばやし村と接する。小田原衆所領役帳に中田加賀守「三貫八百七十文 小机矢上之内」とある。正徳二年(一七一二)以降旗本松平・鈴木・大久保・倉橋領の四給。田園簿では田三一六石余、畑二一六石余。元禄七年(一六九四)川崎宿(現川崎市川崎区)の大助郷高五四一石を勤めている(「川崎宿助郷帳」川崎市森文書)


矢上村
やがみむら

[現在地名]安心院町矢畑やはた

上畑うえのはた村の南、深見ふかみ川左岸にある。南は広連ひろつれ村。近世の領主変遷妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高一九二石余、人数三二、百姓五(うち庄屋一)・名子一、牛二。その後の郷村帳類ではだい村の枝郷として同村に含まれて高付されたが(享保二年中津藩郷村高帳など)、実質的には一村として扱われていたと思われる。


矢上村
やがみむら

[現在地名]幸区矢上、横浜市港北こうほく日吉ひよし一―七丁目

矢上村(横浜市港北区)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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