矢倉村(読み)やぐらむら

日本歴史地名大系 「矢倉村」の解説

矢倉村
やぐらむら

[現在地名]吾妻町矢倉

郷原ごうばら村の西に位置する。薬師やくし(九七四・四メートル)南麓にあり、南は吾妻川。矢倉・行沢なめざわの小字がある。東の郷原、西の岩下いわした松尾まつおの各村とともに山代庄岩下とよばれていた。赤木文庫本「神道集」(上野国児持山之事)によると矢倉の鳥頭とつとう神社が子持山縁起にある子持明神の子神(若宮)とつきとう宮で、山代庄岩下にあったという。矢倉は岩櫃いわびつ城搦手口にあたり、永禄六年(一五六三)武田方による同城攻略のとき、武田方についた海野幸光などの密会場所は鳥頭宮であった(加沢記)。岩櫃落城後岩櫃城代となった幸光は、武運長久を祈念して天正六年(一五七八)神前に鰐口を寄進している。

万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高九八石余。


矢倉村
やぐらむら

[現在地名]草津市矢倉一―二丁目・東矢倉ひがしやぐら一―四丁目・西矢倉にしやぐら一―三丁目

草津宿の南、東海道に沿う。草津宿の一部とも把握される。村中央から西へ矢橋やばせ湊へ至る矢橋街道分岐。村名は孝徳天皇が置いた矢庫にちなむと伝える(輿地志略)。元亀三年(一五七二)矢倉惣代は一向一揆に内通しない旨の起請文を出している(→草津市。寛永石高帳では高一千七七石余。慶安高辻帳では田五六三石余・畑五九石余・永荒四五四石余。膳所藩領。江戸時代以前は、東海道より西方に位置し三〇戸ほどであったが、慶長一九年(一六一四)街道整備のため膳所藩主戸田氏鉄により移転させられたという(矢倉共有文書)


矢倉村
やぐらむら

[現在地名]黒羽町矢倉

西を那珂川が南流し、対岸は佐良土さらど(現湯津上村)。東は大久保おおくぼ村、南は小口こぐち(現馬頭町)。慶安郷帳に村名がみえ、田一一四石余・畑一二八石余で烏山藩領。元禄一〇年(一六九七)以降は旗本桑山・倉橋・酒井の三給で、知行高はそれぞれ六三石余(旧高旧領取調帳)。天保年間(一八三〇―四四)の家数八(改革組合村)。安政二年(一八五五)の書上(阿久津正二文書)によれば、酒井領の家数三、人数一六(男七・女九)、馬二・牛六。源治右衛門が那珂川筋の矢倉河岸の問屋を経営していた。倉橋領の家数四、人数二三(男一〇・女一三)、馬三。


矢倉村
やぐらむら

[現在地名]麻績村矢倉

江戸時代には松本藩領(のち幕府領)麻績組に属し、麻績川を挟んで麻績町村(旧宿場町)の南対岸にあり、南に山を負った北向きの小村。記録上の初見は永仁二年(一二九四)地頭伊賀頼泰の子光貞への譲状で「信濃国麻績御庫八ケ条之内矢倉村」とあるが、これより先、伊賀光宗が配流されてこの地に幽居していた際、塩ノ谷朝業(信生法師)がそれを慰めようとして元仁二年(一二二五)矢倉を訪れたことが「信生法師集」に載っている。天正検地の際は九二石五斗四升四合と高付けされており、小村であった。慶安検地には百姓数は本百姓一一軒、門百姓二軒である。


矢倉村
やぐらむら

[現在地名]竹田市きみその

玉来たまらい川と矢倉川の合流点付近に位置し、いわゆる戸下の村。おか城下より玉来村を経て肥後に至る街道上にあり、葎原組へ分岐する道がある。村の中心松円しようえんに数基の庚申塔がある。貞和四年(一三四八)一〇月四日の志賀頼房契状(志賀文書)に「入田郷内矢倉・太田両名」とみえる。正保郷帳では矢倉郷に属し、田方一四四石余・畑方一六八石余。弘化物成帳では君ヶ園組のうち、村位は中、免九ツ三分、田九七石余(九町二反余)・畑三四石余(六町四反余)・屋敷二石余(二反余)で、開田はほとんどなく、開畑一石余(二町三反余)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android