矢野玄道
やのはるみち
(1823―1887)
幕末から明治初期に活躍した国学者。伊予(いよ)国喜多郡久米(くめ)村(現、愛媛県大洲(おおず)市)阿蔵に文政(ぶんせい)6年11月17日生まれる。24歳のとき江戸に出て、平田篤胤(ひらたあつたね)没後の門人となり、また昌平黌(しょうへいこう)に入って多くの学者・文人と交流。1863年(文久3)白川家の学師、1867年(慶応3)吉田家の学頭となる。王政復古では岩倉具視(いわくらともみ)の幕賓として玉松操(たままつみさお)らと参画し、多くの建議・建白をなすが、新政の方針を述べた「献芹詹語(けんきんせんご)」(1867)は有名である。明治に入り神祇(じんぎ)官出仕、御系図取調御用掛(とりしらべごようがかり)、修史館御用掛、皇典講究所文学部長などを歴任。博覧強記で考証的学風を特色とする。
[小笠原春夫 2016年7月19日]
『矢野太郎編『矢野玄道』(1933・愛媛県教育会)』▽『越智通敏著『矢野玄道の本教学』(1971・錦正社)』
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矢野玄道 (やのはるみち)
生没年:1823-87(文政6-明治20)
幕末・維新期の国学者。通称茂太郎,号は谷蟆,天放山人,梅屋など。伊予喜多郡の人で,旧大洲藩士。平田篤胤門の高弟。上京して玉松操らと相謀り,国事に奔走。維新後は神祇官判事,大学中博士などに任じ,国学界の指導者として活躍した。のち嫌疑を受けて幽閉,復帰後は宮内省御用掛を経て退隠し,学事に専念した。著述は《神典翼》《皇典翼》をはじめ,《国史私記》《神功皇后御伝記》《献芹詹語(けんきんせんご)》《正保遺事》《玉鉾物語》など。
執筆者:鈴木 淳
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矢野玄道
没年:明治20.5.19(1887)
生年:文政6.11.17(1823.12.18)
幕末から明治時代の国学者。伊予国大洲藩(愛媛県)藩士。矢野仙左衛門道正の子。名は敬逵,真弓。号倚梅堂,梅廼舎。郷里で橘家神道の秘伝を受け,弘化2(1845)年上京,順正書院で伴信友らと交わり,国学一般を修めた。翌々年,江戸の平田塾に入り,篤胤没後の門人となる。昌平黌で漢学を学ぶ。嘉永4(1851)年,再び上京,幕末期,神道による経世の学を確立しようと多くの著書をものした。王政復古の宣言に盛り込まれた復古の政治思想は,玉松操や玄道の意を岩倉具視が受け入れたものといわれる。維新後は神祇省事務局判事,内国事務権判事を経て,明治10(1877)年文部省修史館御用掛,17年図書寮御用掛など,明治初期の文教行政に深くかかわった。<参考文献>矢野太郎『矢野玄道翁略伝』
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
矢野玄道 やの-はるみち
1823-1887 幕末-明治時代の国学者。
文政6年11月17日生まれ。矢野直道の兄。伊予(いよ)(愛媛県)大洲(おおず)藩士。平田篤胤(あつたね)の没後門人。昌平黌(しょうへいこう)にもまなぶ。王政復古に際して「献芹詹語(けんきんせんご)」をあらわし,新政の方針をのべる。維新後は神祇官判事,修史館御用掛などをつとめた。明治20年5月19日死去。65歳。字(あざな)は太清。通称は茂太郎,谷九郎。号は谷蟆,天放。著作に「神典翼」「皇典翼」など。
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矢野玄道
やのはるみち
1823.11.17~87.5.19
幕末~明治前期の国学者。伊予国大洲藩士矢野道正の子。通称茂太郎,号は子清・真弓など。1847年(弘化4)に江戸で平田篤胤没後門人となった。幕末期には京都などで祭政一致体制にむけた建言活動を展開し,67年(慶応3)の「献芹詹語(けんきんせんご)」は維新後の復古思想や神祇官復興に影響を与えた。明治期には平田派の後継とされ,皇学所などで活動。「古史伝」続修などを行ったが晩年は不遇であった。著書「皇典翼」「神典翼」。
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矢野玄道
やのはるみち
[生]文政6(1823)
[没]1887
江戸時代末期~明治の国学者。平田篤胤の門人。師の説を受継ぎ,記紀の神代巻にみられる精神が,以後の各時代の文献に共通して存することを説き,それが日本人の根本精神であると唱えた。主著『懲狂人』 (1875) ,『神典翼』『皇典翼』。
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世界大百科事典(旧版)内の矢野玄道の言及
【国津神】より
…《令義解(りようのぎげ)》では,大神(おおみわ),大倭(おおやまと),葛城鴨(かつらぎかも),出雲大汝(いずもおおなむじ)神を国津神として挙げている。国津神の観念は,天津神と同様に複雑で,一概には断定しがたく,幕末維新期の国学者の矢野玄道(やのはるみち)は,(1)天神に対するもの,(2)天神に先立って国土のある地方をつかさどるもの,(3)[産土(うぶすな)神]を指すもの,(4)海中の神を指すもの,の4種に分けている。[天津神]【大井 鋼悦】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」