石城跡(読み)いしじようあと

日本歴史地名大系 「石城跡」の解説

石城跡
いしじようあと

[現在地名]木城町石河内

小丸おまる川に突き出す丘陵上に築かれた山城三方を川で囲まれた自然の要害の地。建武三年(一三三六)五月一二日、南朝方として蜂起した益戸行政らが石城に立籠ったため、北朝方の国大将として派遣された畠山直顕はその攻略を土持宣栄に命じている(「肝付兼重伝」旧記雑録、同日「畠山直顕感状」同書)。同月一五日直顕は宣栄に石城に馳向い誅伐するよう催促している(「畠山直顕軍勢催促状」同書)。同年七月一〇日の日下部盛連軍忠状(郡司文書)によれば、那珂郡司の系譜を引く日下部(那珂)盛連は新納にいろ院政所城に攻め寄せた行政らと合戦を展開した。盛連は岩戸いわど原での合戦の忠功の認定も求めており、石城の攻略と関係したものとみられる。


石城跡
せきじようあと

[現在地名]吉田町立間尻

立間たちま村と喜佐方の沖きさがたのおき村を東西に分ける山稜のほぼ南端にあり、南に立間尻たちまじり浦を見晴らせる位置にあったとされるが、現在その痕跡はなにも残っていない。「いしじょう」ともよぶ。

「清良記」によると、天文一五年(一五四六)宇和西園寺氏は豊後大友氏の襲来に備えて、当時三間の大森みまのおおもり城主であった土居宗雲(清宗)を石城に入城させた。宗雲の入城以前の石城の状況は不明であるが、この時築造の記事はなく、やや南に法花津氏の枝城犬尾いぬび城があったことをも考え合せると、以前から存在していたものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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