寛政二年(一七九〇)幕政改革の一環として御先手で火付盗賊改を兼ねる長谷川平蔵の提言により人足寄場が設置され、江戸に流入した無宿の人々を強制的に収容して就業の道を授ける場所とされた。設置当初は加役人足寄場と称し、用地には石川氏屋敷裏の葭沼一万六千三〇坪余が充てられて徐々に築立てられ、諸費用として同年には米五千俵・金五〇〇両、翌年からは一年間に三千俵・三〇〇両が勘定方から支払われることとなった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都中央区佃北部をさす通称名。隅田川河口の三角州を埋め立ててつくったもので,江戸中期にすぐ南側の佃島と連続して埋立て工事が行われた。幕末には1853年(嘉永6)に水戸藩の造船所が設けられ,明治維新後,官営石川島造船局製造所となった。76年民営に移管,93年東京石川島造船所と改称,近代造船業の中心地となった。現在は石川島播磨重工業の工場がある。
執筆者:正井 泰夫
石川島はもと森島,鎧(よろい)島などと称されたが,寛永年間(1624-44)に江戸幕府の船手頭石川八左衛門重次の所領となってこの島名で呼ばれ,また八左衛門島ともいった。1790年(寛政2)老中松平定信は,火付盗賊改の長谷川平蔵に命じ,島を埋め立てて人足寄場を建設させた。ここに無宿などの浮浪人や軽い犯罪者などを収容し,人足として使役したり,職業を教えこんだ。また心学の道話を聞かせ,成績のよい者には資金を与えて出所させた。天保改革以後は重い追放刑の者も収容したため,500人以上に達したという。1870年(明治3)に寄場は廃止されて犯罪者の懲役場となり,石川島の監獄と呼ばれ,95年巣鴨監獄に移管されるまで続いた。
執筆者:吉原 健一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東京都中央区にある佃島(つくだじま)の一部。江戸時代には、佃島の北に隅田(すみだ)川河口の三角州として発達した島(鎧(よろい)島)で、元来は、その南にあった佃島とは別の島であった。江戸初期に石川八左衛門が徳川家光(いえみつ)から拝領したため、石川島の名がついた。1790年(寛政2)江戸府内における無宿、無頼、乞食(こじき)などを収容する人足寄場(にんそくよせば)が設けられ、維新後の1873年(明治6)になって懲役場、1877年警視庁監獄署と改称して存続したが、1895年巣鴨監獄に移転した。一方、1853年(嘉永6)水戸藩によって造船所が設けられ、その後、石川島造船所として石川島の名を残す唯一のものとなったが、造船所自体は1939年(昭和14)深川区(現、江東区)の豊洲(とよす)に移転した。第二次世界大戦後、同造船所は石川島重工業、石川島播磨(はりま)重工業(現、IHI)と改名され、造船以外の部門を扱う佃工場が残っていたが順次縮小され、1979年(昭和54)閉鎖、売却された。跡地はウォーターフロント開発の対象となり、1986年着工の「大川端リバーシティ21」として生まれかわり、超高層住宅が建設された。
[菊池万雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸時代に加賀藩が設けた非人小屋(1669)は,施設や作業場を設け,乞食や浮浪者とともに刑余者を収容し良民への更生をはかったもので,日本最初の更生保護施設といえる。1790年(寛政2)に作られた石川島人足寄場は,無宿者や入墨または敲(たたき)の刑に処せられた者を収容して職業補導,授産,教養訓練等を行ったもので,いわば幕府による更生保護施設であった。欧米では,18世紀後半から出獄者の保護の団体が慈善目的で作られていたが,近代的な社会内処遇の制度であるパロール(保護観察付仮釈放,18世紀末以来)や,プロベーション(保護観察付刑の猶予,19世紀半ば以来)の制度も整ってきていた(〈行刑〉の項参照)。…
※「石川島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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