デジタル大辞泉 「隅田川」の意味・読み・例文・類語
すみだ‐がわ〔‐がは〕【隅田川】
謡曲。四番目物。
芝木好子の中編小説。昭和36年(1961)「群像」誌に発表。同年刊行の作品集「湯葉・隅田川」に収録。「湯葉」「丸の内八号館」とともに自伝的3部作をなす。
(すみだ川)永井荷風の中編小説。明治42年(1909)、「新小説」誌に発表。同作を表題作とする作品集は、明治44年(1911)刊行。
荒川の下流、
隅田河(「吾妻鏡」治承四年九月一九日条)のほか、住田河(承和二年六月二九日「太政官符」類聚三代格)・角田河(今昔物語)・角太河(建保三年一〇月二四日内裏名所百首)・墨田(貞和二年九月八日「高重茂奉書」正宗寺文書)とも書き、あすだ川(更級日記)や須田川・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都区部の東部を流れる荒川の下流部の称。本来は荒川本流の最下流部であるが、昭和初年完成の荒川放水路が本流となるに及び、その支流となった。北区の岩淵(いわぶち)水門で本流(放水路)と分かれ、曲流しながら南東方へ流れ、鐘ヶ淵(かねがふち)で大きく湾曲して南西方へ方向を転じて東京湾に注ぐ。なお、荒川放水路を荒川、本来の荒川下流部を隅田川と公称するようになったのは、1965年(昭和40)の河川法改正以来のことである。この全長23.5キロメートル。しかし、一般には鐘ヶ淵の屈曲部より下流を隅田川とよぶことが多い。隅田川は「澄んだ川」の意といわれ、住田川、墨田川、角田川とも書いた。また、須田川(すだがわ)、染田川(そめだがわ)などともいわれ、墨水(ぼくすい)、澄江(ちょうこう)の別称もある。なお、千住(せんじゅ)付近では千住川、浅草付近では浅草川といい、それより下流が大川とよばれ、江戸市民にもっとも親しまれた。両岸は墨堤(ぼくてい)とよばれ、下流は大川端(おおかわばた)とよばれた。隅田川の右岸は北、荒川、台東(たいとう)、中央の各区、左岸は埼玉県川口市および足立(あだち)、墨田(すみだ)、江東(こうとう)の各区となっている。なお隅田川を「江」と称し、川の以東を江東区、また江東地域と称している。墨田区は隅田川からつけられた区名。
[沢田 清]
近世の初め、利根(とね)川は栗橋(くりはし)(埼玉県)付近から権現堂(ごんげんどう)川、庄内古(しょうないふる)川、江戸川を通って流れていたと考えられているが、その分流として浅間川、古(ふる)利根川を経、元荒川、綾瀬(あやせ)川をあわせてから古(こ)隅田川を通って隅田川へ流れていた。その点で、かつて隅田川は利根川の下流であったともいわれている。徳川家康入府後、江戸を洪水から守るため、利根川の川筋は東へ付け替えさせられた。それに伴って、荒川は元荒川から入間(いるま)川へと付け替えされ、隅田川が荒川の下流となった。荒川はその名のとおり毎年のように氾濫(はんらん)する川であったので、岩淵(北区)から延長21キロメートル、平均幅500メートルの人工河川を1911年(明治44)から1930年(昭和5)までかけて工事し完成させた。この水路は荒川放水路とよばれ、荒川と公称されるにつれ、隅田川はその支流として取り扱われるようになった。
[沢田 清]
北区岩淵は、かつて岩槻(いわつき)街道(日光御成道(おなりみち))の宿駅(しゅくえき)として栄えた所。ここから下流は、水運の便と地価の安い土地であることから近代工業の地域として利用され、化学、金属、油脂、食品などの工場が沿岸に立地している。荒川区尾久(おぐ)付近の隅田川は直線コースで、ボート場としてよく利用された。ここから南に曲流した所が足立区千住で、日光(奥州)街道筋に千住大橋が架かっている。南岸が荒川区南千住、北岸が足立区千住橋戸町、その両方にまたがって日光街道第一番目の宿として千住宿が設けられた。鐘ヶ淵(現、墨田区堤通(つつみどおり)1~2丁目)に1889年(明治22)立地した紡績工場は、地名をとって鐘ヶ淵紡績(のちカネボウ)と名づけられた。その旧工場跡一帯は、江東地域の再開発事業の一環として高層住宅街に変容した。台東区の浅草、対岸の墨田区の向島(むこうじま)は、江戸情緒をよく残す所で、両区にまたがって隅田公園があり、前者は待乳山聖天(まつちやましょうでん)と吉原へ通う猪牙(ちょき)舟の通った山谷(さんや)堀、後者は墨堤の桜と隅田川七福神巡りと、長命寺(ちょうめいじ)の桜餅(もち)や言問団子(ことといだんご)で知られる。また、向島百花園はとくに秋の風情で親しまれている。台東区蔵前(くらまえ)は幕府の米蔵(こめくら)が建ち並んだ所、その対岸は相撲(すもう)と花火の両国(りょうごく)。これより下流は中央区と江東区で河港として倉庫群が目だつ。浜町(現、中央区日本橋浜町一帯)の料亭街と深川の中心地を過ぎれば河口部で、佃島(つくだじま)、石川島の二つの川中州と、外国人居留地であった築地(つきじ)がある。
[沢田 清]
隅田川に架かる橋のうち、千住大橋以南の16の橋を十六橋(じゅうろくきょう)とよび、親しまれている。千住大橋はもっとも早く架けられた橋で1594年(文禄3)開設、白鬚(しらひげ)橋は律動的なアーチ形の橋、X形の桜橋は1985年(昭和60)架橋の最新橋、言問橋は直線の美しさで知られ、吾妻(あづま)橋はもとは大川橋とよばれ、「竹町の渡し」の上流に架けられ、橋の下から橋巡りの水上バスが出る。駒形(こまがた)橋は、なで肩の優しい曲線を描き、厩(うまや)橋は三つのアーチを連ね、蔵前橋は両国橋とともに橋柱が上に出ていないスマートさを誇り、新大橋(しんおおはし)は中央に大鉄柱が立ち直線的幾何学模様をみせる。清洲(きよす)橋は曲線の美しさで隅田川第一の美橋といわれ、隅田川大橋は高速道路と遊歩道が2階建てで、永代(えいたい)橋は男性的な重量感にあふれる。相生橋は分岐した晴海運河に架かり、深川と月島を結ぶ。佃大橋は300年も続いた「佃の渡し」にかわるものでシンプルで明るい感じがあり、かつて跳ね橋であった勝鬨橋(かちどきばし)で終わる。
[沢田 清]
隅田川の両岸は工業地域と人口密集地帯のため、経済の高度成長期を迎えて汚濁が激しくなり、1963年(昭和38)水中の溶存酸素がゼロで「死の川」と判定された。その対策として利根大堰(とねおおぜき)、武蔵水路などによって利根川の水を引水、朝霞(あさか)で新河岸(がし)川にその一部を放水、工場廃水の処置と相まって清流化に努めた。その結果、メタンガスなど悪臭は消え、また水辺のテラスが整備されるなど、市民にふたたび親しまれるようよみがえりつつある。
[沢田 清]
『『隅田川』(1965・朝日新聞社)』
(1)能の曲目。四番目物、狂女能。五流現行曲。金春(こんぱる)流は『角田川』と表記。観世元雅(かんぜもとまさ)作。武蔵(むさし)国(東京都)隅田川の渡し守(ワキ)が登場して場面を設定し、旅人(ワキツレ)の客が狂女の到着を予告する。狂女(シテ)は、ひとり子を人買いにさらわれた悲しみを述べ、子の行方を尋ねつつ隅田川のほとりに着く。渡し守はおもしろく狂わねば舟に乗せぬというが、狂女は『伊勢(いせ)物語』の在原業平(ありわらのなりひら)の東(あずま)下りを引いてたしなめ、川面(かわも)の都鳥にわが子の行方を問いつつ、舞い狂う。同情した渡し守が舟を出し、向こう岸でいま行われている大念仏は、病気のため人買いに捨てられた少年の一周忌であることを物語る。その少年こそわが子梅若丸と知って泣き伏す母親を、渡し守はその墓へと導く。人々の弔いのなかに、少年(子方)の「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の声が交じり、少年の亡霊が幻にみえる。親子は抱き合おうとするが、幻はむなしく消えて、春の曙(あけぼの)の光の中に、泣きぬれた母親の姿だけが残される。悲劇のまま終わる狂女物はほかに例がなく、近代劇的手法で書かれた元雅の名作である。子方を舞台に出すか出さぬかは、世阿弥(ぜあみ)・元雅父子以来の論争。今日では亡霊を舞台に出す、声だけ聞かせる、まったく登場させない、の三通りの演出が行われている。イギリスの作曲家B・ブリテンはこの能に感動し、オペラ『カーリュー・リバー』(1964)をつくっている。
[増田正造]
(2)清元(きよもと)節による歌舞伎(かぶき)舞踊劇。条野採菊(じょうのさいぎく)作詞、2世清元梅吉作曲。同名の能の筋をかなり忠実になぞった作品で、最初は演奏会用の曲として1883年(明治16)2月発表。1919年(大正8)9月、東京・歌舞伎座で5世清元延寿太夫(えんじゅだゆう)補曲で、2世市川猿之助(えんのすけ)(猿翁)の狂女、2世市川段四郎の舟人で初演、バレエの感覚を取り入れた振付けで評判になった。昭和になってからは、清元の哀調を聞かせ、心理表現に重点を置いた演出で取り上げられるようになり、近年では6世中村歌右衛門(うたえもん)が得意芸にしている。
[松井俊諭]
荒川下流の分流。東京都北区志茂の岩淵水門から下流を指し,下町低地を緩流して東京湾に注ぐ。一般には鐘ヶ淵(かねがふち)の屈曲部から下流部をいうことが多い。岩淵水門から河口までの流路延長23.5km。東側の墨田・江東両区と西側の台東・中央両区の境界をなし,近世初頭までは武蔵と下総の国境となっていた。古くは住田川,角田川,墨田川とも書き,須田(すだ)川,あすだ川,染田川,浅草川,宮戸(都)川とも呼ばれた。近世,今の吾妻(あづま)橋から下流は大川の名で親しまれた。上流は古くは,入間(いるま)川を幹川としていたが,寛永年間(1624-44)に現在の熊谷市久下で荒川の瀬替えが行われ,河道が入間川に移され,隅田川は荒川下流の本流となった。この結果,元荒川沿岸の低湿地の水田利用がすすみ,隅田川と結ぶ多くの溝渠がつくられ,隅田川べりには河岸,問屋,倉庫などが連なる水辺景観が形成された。一方,水害も激化した。とくに1910年の洪水被害は大きく,これを契機に下流域の洪水防止のため国の直轄事業により岩淵から東京湾に至る荒川放水路がつくられた。これにより荒川本流は放水路に移り,隅田川は一分流となった。洪水は減少し,47年のカスリン台風による大洪水にも,隅田川には破堤を伴う大水害は起こらなかった。
隅田川は近くに浅草があり,舟遊び,釣り,花見,川開きの花火などで親しまれてきたが,第2次世界大戦後は工場廃水による水質汚濁や地下水の過剰くみ上げによる地盤沈下など環境悪化が著しく進んだ。洪水や高潮の害の防止のため,河口から岩淵までの両岸には防潮岸壁が設けられ,水辺の親水性も低下した。しかし,近年は工場廃水の規制などによる河川浄化もすすめられ,一時は〈死の川〉といわれた隅田川にも,わずかながら魚の生息も確認されるようになった。また,1961年以来中断されていた花火大会も78年から復活した。隅田川には,最下流部にあって,かつて大型船舶の通航に際し跳ね橋として機能した勝鬨(かちどき)橋(1940完成)をはじめ,様式の異なる橋が多い。河口近くの浜離宮庭園と浅草の吾妻橋との間には定期遊覧船(水上バス)が運航されている。
執筆者:籠瀬 良明
すでに835年(承和2)の太政官符に,住田河の渡船を2艘から4艘に増やすという記録があり,古来東北方面へ向かう官道の要地であった。平安前期に成った《伊勢物語》には,在原業平に擬される主人公が隅田川を訪れて〈名にしおはば,いざ言問はん都鳥,わが思ふ人は,ありやなしやと〉と詠じた話がみられ,これはさらに後に謡曲《隅田川》の中にとりいれられている。都鳥は隅田川の景物であった。向島の木母(もくぼ)寺にある梅若塚も,公卿吉田惟房の子梅若丸が人買いに連れられてこの地まで来たが隅田川のほとりで病死するという故事によっており,この物語も謡曲や浄瑠璃,長唄の題材になった。中世までの隅田川流域の中心は,浅草(せんそう)寺付近であった。
隅田川は,とくに近世以降,大都市江戸の人々の暮しや遊びと深いつながりをもつに至る。千住大橋はすでに1594年(文禄3)に架けられていたが,江戸時代に入って,明暦の大火(1657)以後両岸が開け,1659年(万治2)に両国橋,93年(元禄6)に新大橋,98年(元禄11)に永代橋,1774年(安永3)に大川橋(吾妻橋)が完成,しだいに江戸の市街地が川の東の本所,深川方面に拡大していった。川風をもとめて将軍,大名から武士,町人までが納涼に足を運び,花見,月見,雪見のときも浅草寺をはじめ両岸の社寺にかけて人出があった。とくに夏の花火は1733年(享保18)の川開き以来盛大になり,旧暦5月28日から8月28日までの3ヵ月間にぎわったという。曲亭馬琴や鶴屋南北ら江戸の文人は隅田川を舞台とする黄表紙を書き,北斎や広重は両岸の風物を描いた。なかでも北斎の《隅田川両岸一覧》は当時の景色を活写し,そして日本の洋画の最初の作品といえる司馬江漢の《三囲(みめぐり)景図》も大川の流れを遠近法を用いて描き切っている。
隅田川はまた,江戸の経済の大動脈でもあり,永代橋付近は外港として栄え,大坂からの物資を運ぶ多くの廻船が停泊していた。明治以降,沿岸に殖産興業のための諸工場,紡績工場,セメント工場,造船所などが次々と建てられた。
執筆者:吉原 健一郎
(1)能の曲名。流派により〈角田川〉とも書く。四番目物。狂女物。観世元雅(もとまさ)作。シテは梅若丸の母(狂女)。武蔵と下総(しもうさ)の国境にある隅田川の渡し守(ワキ)が客を待っていると,旅人(ワキヅレ)が来て,あとから女物狂いがやって来ることを知らせる。それは,わが子を人買いにさらわれて心が乱れた女で,京都からはるばる子を尋ね求めてこの東国まで来たのだった(〈カケリ等〉)。女は川辺の鳥を見て船頭に名を尋ね,それが都鳥だと知って業平東下りの故事を思い出し,わが身に引きくらべて遠い旅路を振り返り,感慨を催す。女が旅人たちと対岸に渡る船中で,船頭が哀れな話をして聞かせる。昨年の春,無情な人買いがここに置き去りにした病気の少年があった。名を尋ねると,吉田の某の子息梅若丸と言い,間もなく落命したので,人々が墓を作って弔ったというのである(〈語リ〉)。話を聞いた女が涙ながらに自分こそその子の母だと言うので,船頭も同情して墓に連れて行く。女は墓前で世の無常をじっとかみしめるのだった(〈上歌(あげうた)〉)。人々が念仏を唱えると,その中にまじって少年の声が聞こえ塚から姿が現れるので,母親が近付こうとすると消えてしまう。夜が明けて見ると,わが子と思ったのは塚の草であった。
一般に狂女物の能は,おもしろく遊び狂うていを見せ場とし,最後は尋ねる夫や子との再会の喜びで結ぶものだが,この能はまったく違った作り方で,母親の悲哀を描くことに焦点をしぼって成功している。作者の独創力の豊かさを示す作といえよう。
執筆者:横道 万里雄(2)歌舞伎舞踊。観世元雅作の能《隅田川》に拠る。この曲に取材した歌舞伎,人形浄瑠璃,舞踊は〈隅田川物〉という作品群があるほどで数が多い。今日上演頻度が高いのは,長唄および一中節の《賤機帯(しずはたおび)》と清元の《隅田川》である。作詞条野採菊,作曲2世清元梅吉のものを,1883年2月に清元菊太夫(のちの菊寿太夫)が作詞者の家で語っているが,公には1908年3月第5回美音会で4世清元延寿太夫が語った。それをもとに,19年9月東京歌舞伎座で2世市川猿之助(猿翁)が帰朝第1作として振付,山崎紫紅補で初演。バレエ・リュッスの感覚を採り入れた斬新さが評判となった。近年,6世中村歌右衛門によって多く演じられるものはより能に近く,登場人物も狂女と船頭の2人。踊りの要素を極力おさえ,内面的な演技で母親の悲しみを表現することに重点をおいている。
→隅田川物
執筆者:権藤 芳一
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…7月中旬から8月上旬にかけて各地の河川で行われる。中でも東京隅田川の川開きは有名で,江戸中期以降趣向をこらした花火が人気を呼び,明治以降も多くの人出が見られたが,1962年に交通安全等の見地からいったん廃止され,のち復活した。江戸時代には陰暦5月28日に行われたが,この日は曾我兄弟の討死に関連して〈虎が雨〉の降るとされた日で,水にまつわる信仰を背景にして始まった行事なのであろう。…
…糺森(ただすのもり)も京都人の納涼の地だったのである。 江戸時代になると,京都の四条河原の納涼と,江戸の隅田川の涼み船とが納涼の好話題となる。江戸時代半ばころから,賀茂川の四条河原では流れの上に一面に腰掛けが設けられ,ここで足を水に浸して涼をとったが,それは旧暦の6月7日の夜から18日夜までおこなわれたという。…
…橘樹郡では塩,荏原郡,葛飾郡の村の記事の中には海苔があげられている。豊島郡であげている鰻は,芝浦,築地鉄砲洲,浅草川(隅田川),深川辺で漁獲するものを〈江戸前〉と称し,ことに喜ばれたという。海産物に対して浅草川のウナギ,シラウオ,荒川のコイ,江戸川のコイ,フナ,ウナギ,ナマズ,中川のシラウオ,フナ,ウナギ,ナマズなどの川魚があげられている。…
…歌舞伎,人形浄瑠璃の一系統。能《隅田川》を原点とする梅若伝説を扱った作品群をいう。観世元雅の作になる能《隅田川》がどういう素材に拠って作られたかは不明である。…
…室町時代の文学には人商人を内容としたものが多い。謡曲の《稲舟》《隠岐院》《隅田川》《桜川》《自然(じねん)居士》《千手院》《信夫》《唐船》《三井寺》《婆想天》などには人商人が登場し,子どもを誘拐し,あるいは買いとって僻遠の地に連れ去り,そのためにおこる親子別離の悲哀や再会が主題となっている。《隅田川》にシテとして登場する狂女は〈これは都北白河に年を経て住める女なるが,思はざる外に独子を人商人に誘はれて行手を聞けば逢坂の関の東の国遠き,東とかやに下りぬと聞くより心乱れつつ……跡を尋ねて迷ふなり〉と語る。…
…河東節と一中節の掛合曲。本名題《隅田川舟の内》。1723年(享保8)以前の成立。…
…このオペラは各国語に翻訳・上演され,イギリスのオペラとして初めて国際的な名声を得た。最後の《ベニスに死す》(1973)に至るまでの14作のオペラは世界各国で上演されており,56年来日した際に鑑賞した能《隅田川》に基づく《カーリュー・リバーCurlew River》(1964)など小編成のオペラにも特色を発揮している。オペラ以外でも《青少年のための管弦楽入門――パーセルの主題による変奏曲とフーガ》(1945),《戦争レクイエム》(1961)なども世界的に演奏されている。…
…美しいメロディの曲が多く,二重唱,輪唱などの手法をとり入れるなどして変化をつけている。代表曲に《隅田川》(長田幹彦作詞,岸上きみ作曲),《あやめ》(長田幹彦作詞,宮川源司作曲),《団十郎娘》(邦枝完二作詞,宮川源司作曲)など。【竹内 道敬】。…
※「隅田川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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