すみだ‐がわ ‥がは【隅田川】
[一]
東京都
東部を流れる
荒川の
分流。古くは東京湾に注いでいた
利根川の
下流。昭和四〇年(
一九六五)の
河川法改正以前は荒川の下流をさした。一般には墨田区鐘ケ淵から下流、または荒川から分流する北区
岩淵から下流をいう。
江戸時代はシラウオ・アサクサノリが採れ、交通路としても利用。
沿岸は明暦の
大火(
一六五七)
以後発展。関東大震災(
一九二三)以後多数の橋がかけられた。
吾妻橋から下流は
浅草川(
大川)とも呼ぶ。
全長二三・五キロメートル。歌枕。都川。墨水
(ぼくすい)。
澄江(ちょうこう)。
[二]
謡曲。四番目物。各流。観世十郎元雅作。人商人
(ひとあきびと)にさらわれたわが子梅若丸のゆくえを尋ねて、京都北白川に住む母は
狂乱の体で旅のすえ
武蔵国隅田川にたどり着く。
対岸に渡る船の中で
船頭から、捜し求める子が一年前この地で死んだことを聞き、その塚の前で泣きながら
念仏を唱えると、梅若丸の
亡霊が現われる。母は子を追い求めるがむなしく消え、夜が明けてみると塚だけが残されていた。狂女物中の傑作で悲劇で終わる異色作。
後世の文芸に大きな影響を与えた。
[三] (すみだ川) 小説。永井荷風作。明治四二年(一九〇九)発表。近代文明の大きな流れの奥底にくりひろげられる隅田川畔の下町の庶民の生活を、哀感を込めて、季節の推移とともに描き出す。
[四] 江戸時代の酒の銘柄の一つ。江戸浅草並木町山屋半三郎(山半)から売り出した。隅田川の水を用いての醸造という。隅田川諸白(もろはく)。
※洒落本・通言総籬(1787)一「長崎屋のこはんが所から隅田川をもらった」
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デジタル大辞泉
「隅田川」の意味・読み・例文・類語
すみだ‐がわ〔‐がは〕【隅田川】
東京都東部を貫流する荒川の分流。北区岩淵で荒川から分岐する。墨田区鐘ヶ淵から下流をいうこともある。吾妻橋から下流を大川ともいう。千住大橋から勝鬨橋まで16の橋が架かる。墨田川。角田川。
謡曲。四番目物。金春流は「角田川」。観世元雅作。人買いにさらわれた愛児梅若丸を狂い尋ねる母が隅田川の渡し守にその死を知らされ、墓前で弔うと亡霊が現れる。
芝木好子の中編小説。昭和36年(1961)「群像」誌に発表。同年刊行の作品集「湯葉・隅田川」に収録。「湯葉」「丸の内八号館」とともに自伝的3部作をなす。
(すみだ川)永井荷風の中編小説。明治42年(1909)、「新小説」誌に発表。同作を表題作とする作品集は、明治44年(1911)刊行。
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隅田川
すみだがわ
荒川の下流、岩淵水門から東京湾の河口までをいうが、流路が大きく屈曲する鐘ヶ淵(墨田区)から下流部分をさすともいわれる。河川としては岩淵から延長約二五キロ、距離は短いが、江戸・東京の発達、日本の近代化に担った役割、貢献度は大きい。ロンドンのテムズ川、ニューヨークのハドソン川と比肩しうる川といえよう。江戸期、下流は大川とよばれ、歌舞伎・浮世絵・俳句・川柳・音曲などの大衆文化は大川筋から誕生した。その親水の歴史は明治になっても継承され、工業の基地として大きく機能した。造船・セメント・化学薬品・製紙・機械工業などの近代工業、さらに都市型日用消費財産業・伝統工芸、多くの製造卸の生産・流通基地として下町中小企業地帯を生んだ。舟運と生産活動による経済の繁栄は川の両岸に盛り場を発達させた。浅草は浅草寺・吉原・仲見世・六区興業街などを一括して大繁華街を形成し、長期にわたって繁盛した。そのほか、柳橋・両国、錦糸町(墨田区)・亀戸などの盛り場が続々と育っていった。川に架かる橋はデザインが美しく、橋のギャラリーとして都民に楽しみを与えている。アーチ橋では白鬚橋・駒形橋・厩橋・永代橋・勝鬨橋が、アーチの上に道路をのせた橋では吾妻橋と蔵前橋が、吊橋では新大橋・清洲橋・中央大橋が、人道橋では桜橋などが、美観を競っている。現在川筋の観光で注目を集めているのは、浅草寺・水上バス発着場・隅田公園・リバーピア吾妻橋・早慶レガッタ・屋形船・仲見世・お祭り広場などであり、また伝統的・江戸懐古的な盛り場浅草があり、次いで、両国橋・両国国技館・江戸東京博物館・相撲部屋・安田庭園・回向院・両国駅などの集まる両国界隈が、さらに大川端リバーシティ21・佃島・聖路加ガーデン・築地市場などの勝鬨橋界隈があげられよう。これら各地区を水上から楽しむ水上バスは、浅草吾妻橋から東京港日出桟橋(港区)までの水上漫歩である。
〔古代〕
隅田河(「吾妻鏡」治承四年九月一九日条)のほか、住田河(承和二年六月二九日「太政官符」類聚三代格)・角田河(今昔物語)・角太河(建保三年一〇月二四日内裏名所百首)・墨田(貞和二年九月八日「高重茂奉書」正宗寺文書)とも書き、あすだ川(更級日記)や須田川・宮戸川・染田川・大川・浅草川・両国川などの別称がある。当川は近世初頭における瀬替工事により入間川(荒川)の下流部となったが、それ以前においては古利根川(中川)を河道としていた利根川の下流部をさす呼称であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
隅田川【すみだがわ】
(1)能の曲目。角田川とも書く。四番目物。五流現行。シテは梅若丸の母(狂女)。人買にさらわれた愛児を尋ねて隅田川まで下った狂女が,わが子の墓前でそのまぼろしを見るという筋で,他の母子再会の狂女物に比べて哀傷深く,異例の悲劇的結末で終わる。近代劇的作風をもつ観世元雅の名作。(2)主として(1)に取材した浄瑠璃・歌舞伎・舞踊・三味線音楽の通称。〈隅田川物〉と総称。早い時期では近松門左衛門の浄瑠璃《双生隅田川(ふたごすみだがわ)》(1720年初演)があるが,江戸系の歌舞伎において各種の趣向を凝らした作品群が誕生した。代表的な演目は《隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)》(1784年初演),《隅田川花御所染(すみだがわはなのごしょぞめ)》(1814年初演),《桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)》(1817年初演)など。一方,舞踊・三味線音楽では,河東節・一中節掛合の《隅田川舟の内》(通称《舟の内》。1723年以前成立)が古く,その後のものでは,常磐津節《角田川》(本来は長唄との掛合,1871年初演),清元節の《隅田川》(1883年初演)があり,一中節の《賤機(しずはた)》(1751年初演)およびその長唄化の《賤機帯(しずはたおび)》(1828年初演)なども同題材による。このうちでは清元節が最も有名で,2世清元梅吉作曲・初演。はじめは素浄瑠璃であったが,1919年に歌舞伎舞踊に舞台化されて流行。
→関連項目秋夜長物語|狂乱物|現在能|野口兼資|ブリテン
隅田川【すみだがわ】
荒川の下流。東京都東部を南流し東京湾に注ぐ。一般に荒川放水路と分かれる北区岩淵から下流をいう。吾妻(あづま)橋から下流はかつて大川,浅草川とも呼ばれた清流で,大川端は江戸,明治を通じて納涼,川開,花見など憩(いこい)の地であり,歌にもうたわれた。また両岸に掘られた多くの運河の幹線として舟運にも利用された。明治期後半から江東地区は工場地帯となり川は汚濁し,地盤沈下もひきおこして公害問題となった。上流から白鬚(しらひげ)橋,言問(こととい)橋,吾妻橋,駒形橋,厩(うまや)橋,蔵前橋,両国橋,新大橋,清洲橋,永代橋がかかり,河口は佃(つくだ)島で分流,西側に佃大橋,勝鬨(かちどき)橋,東側に相生(あいおい)橋,春海(はるみ)橋などがかかる。沿岸に隅田公園,浜町公園がある。水上バス(吾妻橋〜日の出桟橋間など)が通じる。
→関連項目荒川|元禄の大火|千住宿
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隅田川
すみだがわ
(1) 能の曲名。四番目物 (→雑物 ) ,狂女物。観世十郎元雅作。「角田川」とも書く。京都北白河の吉田某の子梅若丸が人買い商人に誘拐され,狂気の母が行くえを捜し武蔵の隅田川に着くと,梅若は前年病死,一周忌の供養を催すところであったので,母はいたく悲しみ,わが子の塚の前で念仏を唱えると子の亡霊が現れるというもの。 (2) 歌舞伎舞踊曲。清元。条野採菊が歌詞を謡曲からとって開曲,1906年藤間政弥により歌舞伎座の舞踊会で振付がなされた。その後 19年,山崎紫紅が舟唄を入れて補正し,2世市川猿之助が歌舞伎座で振付・上演。このほかにも同様の筋をもつ歌舞伎所作事がいくつかあるが,本作が最も謡曲に近く,わが子の死を知らされた母の悲しみが純粋かつ叙情的に描かれている。
隅田川
すみだがわ
別称大川,浅草川。東京都の東部を流れる川。全長 25km。奥秩父の甲武信ヶ岳に源を発し,関東平野を流れて東京湾に注ぐ荒川の下流部。北区の岩淵水門から河口までをさす。昔はシラウオ,コイを産し,水澄める大川として親しまれ,文化の中心であった。明治以降江東の市街地化と工業地帯の発展で汚濁が著しく,工場排水の規制や利根川の水を荒川を経由して放流するなど,川の浄化が行われている。隅田川には形がすべて異なる近代建築美を競う特色のある 10余の橋がかかり,それらは耐震耐火の模範橋で,日本の近代橋梁技術の発展過程を示している。
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すみだがわ【隅田川】
(1)能の曲名。流派により〈角田川〉とも書く。四番目物。狂女物。観世元雅(もとまさ)作。シテは梅若丸の母(狂女)。武蔵と下総(しもうさ)の国境にある隅田川の渡し守(ワキ)が客を待っていると,旅人(ワキヅレ)が来て,あとから女物狂いがやって来ることを知らせる。それは,わが子を人買いにさらわれて心が乱れた女で,京都からはるばる子を尋ね求めてこの東国まで来たのだった(〈カケリ等〉)。女は川辺の鳥を見て船頭に名を尋ね,それが都鳥だと知って業平東下りの故事を思い出し,わが身に引きくらべて遠い旅路を振り返り,感慨を催す。
すみだがわ【隅田川】
荒川下流の分流。東京都北区志茂の岩淵水門から下流を指し,下町低地を緩流して東京湾に注ぐ。一般には鐘ヶ淵(かねがふち)の屈曲部から下流部をいうことが多い。岩淵水門から河口までの流路延長23.5km。東側の墨田・江東両区と西側の台東・中央両区の境界をなし,近世初頭までは武蔵と下総の国境となっていた。古くは住田川,角田川,墨田川とも書き,須田(すだ)川,あすだ川,染田川,浅草川,宮戸(都)川とも呼ばれた。
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隅田川
(通称)
すみだがわ
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 元の外題
- 出世隅田川 など
- 初演
- 元禄14.3(江戸・中村座)
隅田川
〔清元〕
すみだがわ
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 作者
- 条野採菊 ほか
- 初演
- 大正8.10(東京・歌舞伎座)
隅田川
すみだがわ
歌舞伎・浄瑠璃の外題。- 初演
- 宝永6.夏(京・万太夫座)
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
世界大百科事典内の隅田川の言及
【川開き】より
…7月中旬から8月上旬にかけて各地の河川で行われる。中でも東京隅田川の川開きは有名で,江戸中期以降趣向をこらした花火が人気を呼び,明治以降も多くの人出が見られたが,1962年に交通安全等の見地からいったん廃止され,のち復活した。江戸時代には陰暦5月28日に行われたが,この日は曾我兄弟の討死に関連して〈虎が雨〉の降るとされた日で,水にまつわる信仰を背景にして始まった行事なのであろう。…
【納涼】より
…糺森(ただすのもり)も京都人の納涼の地だったのである。 江戸時代になると,京都の四条河原の納涼と,江戸の隅田川の涼み船とが納涼の好話題となる。江戸時代半ばころから,賀茂川の四条河原では流れの上に一面に腰掛けが設けられ,ここで足を水に浸して涼をとったが,それは旧暦の6月7日の夜から18日夜までおこなわれたという。…
【武蔵国】より
…橘樹郡では塩,荏原郡,葛飾郡の村の記事の中には海苔があげられている。豊島郡であげている鰻
は,芝浦,築地鉄砲洲,浅草川(隅田川),深川辺で漁獲するものを〈江戸前〉と称し,ことに喜ばれたという。海産物に対して浅草川のウナギ,シラウオ,荒川のコイ,江戸川のコイ,フナ,ウナギ,ナマズ,中川のシラウオ,フナ,ウナギ,ナマズなどの川魚があげられている。…
【隅田川物】より
…歌舞伎,人形浄瑠璃の一系統。能《隅田川》を原点とする梅若伝説を扱った作品群をいう。観世元雅の作になる能《隅田川》がどういう素材に拠って作られたかは不明である。…
【人買】より
…室町時代の文学には人商人を内容としたものが多い。謡曲の《稲舟》《隠岐院》《隅田川》《桜川》《自然(じねん)居士》《千手院》《信夫》《唐船》《三井寺》《婆想天》などには人商人が登場し,子どもを誘拐し,あるいは買いとって僻遠の地に連れ去り,そのためにおこる親子別離の悲哀や再会が主題となっている。《隅田川》にシテとして登場する狂女は〈これは都北白河に年を経て住める女なるが,思はざる外に独子を人商人に誘はれて行手を聞けば逢坂の関の東の国遠き,東とかやに下りぬと聞くより心乱れつつ……跡を尋ねて迷ふなり〉と語る。…
【舟の内】より
…河東節と一中節の掛合曲。本名題《隅田川舟の内》。1723年(享保8)以前の成立。…
【ブリテン】より
…このオペラは各国語に翻訳・上演され,イギリスのオペラとして初めて国際的な名声を得た。最後の《ベニスに死す》(1973)に至るまでの14作のオペラは世界各国で上演されており,56年来日した際に鑑賞した能《隅田川》に基づく《カーリュー・リバーCurlew River》(1964)など小編成のオペラにも特色を発揮している。オペラ以外でも《青少年のための管弦楽入門――パーセルの主題による変奏曲とフーガ》(1945),《戦争レクイエム》(1961)なども世界的に演奏されている。…
【大和楽】より
…美しいメロディの曲が多く,二重唱,輪唱などの手法をとり入れるなどして変化をつけている。代表曲に《隅田川》(長田幹彦作詞,岸上きみ作曲),《あやめ》(長田幹彦作詞,宮川源司作曲),《団十郎娘》(邦枝完二作詞,宮川源司作曲)など。【竹内 道敬】。…
※「隅田川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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