デジタル大辞泉
「伊東祐親」の意味・読み・例文・類語
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いとう‐すけちか【伊東祐親】
- 平安末期の武士。伊豆の豪族。曾我兄弟の祖父。平氏に仕え、伊豆に流された源頼朝を預かった。頼朝挙兵の後、捕えられ、自刃。寿永元年(一一八二)没。
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伊東祐親 (いとうすけちか)
生没年:?-1182(寿永1)
平安後期の武士。伊豆東部の豪族工藤氏族。同族工藤祐経との所領争いが,後の曾我兄弟(祐親の孫)の仇討事件に発展する。平氏家人として平重盛・維盛親子に仕え,源頼朝が三女との間に男児をもうけるとこの子を殺し,また頼朝挙兵の際には大庭景親とともに平氏方として戦い,頼朝軍を箱根山中に敗走させた。富士川の戦の直前源氏方に捕らえられ,2年後に自殺した。
執筆者:小田 雄三
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伊東祐親
いとうすけちか
[生]?
[没]寿永1(1182).2.14.
平安時代末期の伊豆の武士。祐家の子。伊豆河津庄を領して河津二郎と称した。のち伊東庄も領した。平氏に仕え,伊豆に流された源頼朝を監視するうち,娘が頼朝と通じたため,平氏の聞えをはばかり,頼朝を討とうとしたが果せなかった。治承4 (1180) 年 10月挙兵した頼朝に富士川の戦いで捕えられ,女婿三浦義澄に預けられた。義澄の仲介で許されたが自殺した。いわゆる曾我祐成,時致兄弟は祐親の孫にあたる。 (→曾我兄弟 )
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伊東祐親
没年:寿永1.2.14(1182.3.20)
生年:生年不詳
平安末期の伊豆国の武士。河津二郎,伊東二郎と称す。父は祐家。所領伊東荘の分割をめぐり,甥(従兄弟ともいう)の工藤祐経と争い,その妻を奪い,その恨みから伊豆の狩場で祐経に襲われ,子の河津三郎祐泰を殺害される。祐泰の子が曾我兄弟である。祐親は平氏に仕え,伊豆に流されていた源頼朝と娘が関係を持ったとして,頼朝を殺害しようとした。治承4(1180)年に挙兵した頼朝を石橋山に囲み,これを敗走させたが,富士川の戦に参陣途中,源氏側に捕まり,女婿三浦義澄に預けられ,その後義澄の尽力で罪を許されるが潔しとせず,自害して果てた。
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伊東祐親
いとうすけちか
生没年不詳。平安末期の武将。祐家(すけいえ)の子。平氏に属し、伊豆国(静岡県)の住人で河津庄(かわづのしょう)を領したところから河津二郎と称した。従兄弟(いとこ)の工藤祐経(すけつね)との伊東庄をめぐる争いが、のちに祐親の孫である曽我(そが)兄弟の仇討(あだうち)に発展する。祐親は平清盛(きよもり)の命で伊豆に配流の源頼朝(よりとも)の監視にあたるが、頼朝が娘に通じてもうけた一子を殺してしまった。のちに平氏討伐に立ち上がった頼朝に捕らえられ、女婿の三浦義澄(よしずみ)に預けられ、義澄の計らいで罪を許されたが自ら恥じて自殺した。
[朧谷 寿]
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伊東祐親 いとう-すけちか
?-1182 平安時代後期の武将。
父伊東祐家の死後,祖父家継から伊豆(いず)河津荘をあたえられる。本領の伊豆伊東荘をめぐり,同族の工藤祐継父子とあらそい,曾我兄弟の仇(あだ)討ちの端緒をつくる。伊豆配流の源頼朝を監視中に殺そうとして失敗。治承(じしょう)4年(1180)挙兵した頼朝に捕らえられ,助命されたが養和2年2月14日自殺した。名は祐近ともかく。通称は河津二郎。
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世界大百科事典(旧版)内の伊東祐親の言及
【生捕り】より
…さらに生虜捕縛は武門のならいとはいえ,これをいさぎよしとせず,生捕り後に自害する場合も少なくなかった。源氏の軍門に下った伊東祐親が女婿の三浦義澄の助命嘆願で頼朝の許容するところとなったにもかかわらず,あえて自害に至ったという《吾妻鏡》の例は如上のものであろう。【関 幸彦】。…
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