日本大百科全書(ニッポニカ) 「石見検地」の意味・わかりやすい解説
石見検地
いわみけんち
江戸前期の代官頭(だいかんがしら)大久保石見守長安(いわみのかみながやす)が天正(てんしょう)・文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)期に行った検地。別に石見検、大久保縄(なわ)ともいい、代官頭伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)の備前検地と並び用いられた代表的検地。徳川氏の関東入国の翌年、1591年(天正19)から関東を中心に実施され、1600年(慶長5)関ヶ原の戦い以後、徳川氏の覇権獲得に伴い甲斐(かい)(山梨県)、越後(えちご)(新潟県)、信濃(しなの)(長野県)、美濃(みの)(岐阜県)、山城(やましろ)(京都府)、石見(島根県)にも行われた。記載形式も石高のみならず貫文によるのもあり、かならずしも一定していない。検地竿(ざお)はそれまでの1間(けん)=6尺3寸(約1.91メートル)から6尺1分(約1.82メートル)に短縮し、6尺1分四方を1歩、300歩を1反としている。検地竿の短縮は領主側の取分の増加を企図するものであるが、従来の名主(みょうしゅ)層の得分(とくぶん)を認めつつ、幕府存立の基盤である小農民自立を推し進めていった点に特色がある。
[村上 直]