江戸前期の代官頭(だいかんがしら)、金山奉行(かなやまぶぎょう)および幕府奉行衆の一人。甲斐(かい)武田氏の猿楽師(さるがくし)大蔵大夫(おおくらたゆう)の次男に生まれ、初め藤十郎と称し、のち蔵前衆(くらまえしゅう)(代官)となる。1582年(天正10)武田氏滅亡後、徳川家康の家臣となり、大久保忠隣(ただちか)より大久保姓を授けられ、大久保十兵衛と称して、甲斐(山梨県)の民政を担当する。89年の甲斐国内の検地では伊奈忠次(いなただつぐ)を補佐し実績をあげる。家康の関東入国後は、抜擢(ばってき)されて代官頭となり、配下の八王子代官らとともに財政、交通、産業など、幕府創業期の地方(じかた)支配に活躍する。とくに彼の実施した検地(石見(いわみ)検地・大久保縄(なわ))は代表的な仕法であった。
1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後、その支配は関東、信濃(しなの)、甲斐、美濃(みの)、駿河(するが)、大和(やまと)、石見、越後(えちご)、佐渡(さど)、伊豆に及び(一説には120万石)、各地に駐在する配下の家老、代官、下代も多数に及んだ。03年江戸幕府開設後、従(じゅ)五位下、石見守(いわみのかみ)に叙任、幕府奉行衆(老職)に加えられ、石見、佐渡、伊豆の金山、銀山の開発の驚異的成果により、幕閣の中枢に位置し、家康の側近政治の一翼を担うことになった。駿府(すんぷ)、江戸などから頻繁に指示を与え、全支配領域を掌握し、八王子や桐生(きりゅう)の町立(まちたて)、東海道、中山道(なかせんどう)宿駅制の確立、一里塚の築造、江戸、駿府、名古屋築城にも参画している。慶長(けいちょう)18年4月、駿府で病死。69歳。
死後、生前の金銀隠匿、幕府転覆の陰謀露見を理由に遺子7名が死罪に処せられ、大名や代官で連座し失脚した者もいたが、その真相は不詳。むしろ長安の奔放性、巨大な在地支配力と財力、西国大名への接近を危惧(きぐ)した家康の政治的措置とみなされるふしが強い。現在、新潟県佐渡市相川江戸沢町の大安寺に逆修(ぎゃくしゅう)塔、島根県大田市大森町の大安寺跡に墓碑、山梨県甲府市城東1丁目の尊躰(そんたい)寺に卵塔がある。大森町、佐渡市や東京都八王子市に陣屋跡がある。
[村上 直]
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江戸初期の代官頭。財政・鉱山担当の幕府奉行衆。甲斐武田氏の猿楽衆大蔵大夫の次男に生まれ,蔵前衆(代官)になる。はじめ藤十郎,十兵衛と称す。1582年(天正10)武田氏滅亡後,徳川家の家臣に取り立てられる。大久保忠隣(ただちか)より大久保姓を授けられ甲斐の民政を担当し,89-90年徳川氏の五ヵ国領国の改革では国奉行並に抜擢され,関東入国後は代官頭となる。伊奈忠次らとともに関東領国支配の中心となり,武蔵国八王子の小門(おかど)陣屋を拠点として八王子代官と八王子千人同心を指揮し,山の根9万石を所領に陣屋支配により関東各地を開発する。長安の実施した検地を石見(いわみ)検地,大久保縄と称し,伊奈氏の備前検地と並称された幕府の代表的な仕法となる。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,支配領域が拡大し,関東,信濃,甲斐,美濃,駿河,大和,石見,越後,佐渡,伊豆に及び一説には120万石を支配したという。各地の出先機関の代官,手代,地役人は多数に及び,とくに石見,佐渡,伊豆の金銀山の開発には驚異的な成果をあげ幕府財政の拡充に貢献した。03年江戸幕府開設の直後,従五位下石見守に叙任,幕府奉行衆(老職)に加えられ,のち家康の駿府政治の一翼を担った。行動範囲の広いことは抜群で,みずから頻繁に各地を巡視し直接指揮をとる一方,駿府,江戸その他から書状によって指示を与えた。関東の八王子・青梅・桐生の町や石見・佐渡の鉱山町の建設,東海道・中山道宿駅制度の確立と脇往還の整備,江戸・駿府・名古屋の築城など,治水・鉱山・築城の技術に卓越した手腕を発揮し,初期江戸幕府の財政基盤を確立した。13年4月,中風が悪化し駿府で没した。死後,生前の金銀隠匿,幕府転覆の陰謀発覚の理由により遺子7人が死罪。一族,縁故者の多くが処罰された。真相は不明であるが,この厳しい処分は,長安の巨額な資産や領主支配に対する危惧と幕閣の権力闘争の結果によるものとみられる。新潟県佐渡市の旧相川町の大安寺に逆修塔,島根県大田市大森町に墓碑,東京都八王子市などに陣屋跡がある。
執筆者:村上 直
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(大野瑞男)
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1545~1613.4.25
江戸初期の代官頭。通称藤十郎・十兵衛。石見守。甲斐国生れ。猿楽師大蔵大夫の次男。武田氏滅亡後徳川家康に仕え,大久保忠隣(ただちか)から大久保姓を与えられる。家康の関東入国後は,武蔵八王子陣屋で関東十八代官や八王子千人同心を統轄。伊奈忠次とともに各地の検地を行い,大久保縄・石見検地と称された。一里塚や伝馬宿の設置による交通制度の確立,江戸・駿府・名古屋の築城工事への参与,石見・伊豆両銀山,佐渡金山の採掘や木曾の林業開発に成功。美濃・大和の国奉行も担当。死の直後,生前の不正を理由に遺子7人は切腹,信濃国松本藩主石川康長などの大名や代官が多く連坐して失脚した。
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…1594年(文禄3)豊臣秀吉は朝鮮出兵のための財政をまかなうため上杉景勝に佐渡金銀山(佐渡金山)の積極的な開発を命じた。1600年佐渡は徳川家康の直轄領とされ,敦賀の豪商田中清六が,他3人の奉行人とともに金銀山を支配し,03年大久保長安がそれまで鶴子(つるし)にあった陣屋を相川に移転させた。それが17年(元和3)以後の佐渡奉行所である。…
…中でも,土肥金山はその中心としての位置を占め,1577年(天正5)と伝えられる開坑以来,50年にわたって盛んに稼行した。この間,幕府は大久保長安を金山総奉行として経営に当たらせた。17世紀半ばに至って急速に衰山,休山したが,1906年,谷川銈五郎が経営し復活,現在も中外鉱業が稼行している。…
…江戸幕府の代官頭大久保石見守長安が実施した検地。徳川家康の関東入国以来,大久保長安は1590年(天正18)9月武蔵国多摩郡経久郷(府中市)の検地を上限として検地を行うが,石見検地という場合,通常は慶長年間(1596‐1615)に武蔵,甲斐,美濃,越後,石見などに実施した検地をいう。石見検地は300歩を1反とし,従来の1間=6尺5寸を6尺1分に短縮し打ち出しの強化をはかったが,反面地域によっては旧来の貫文制を踏襲した検地も行った。…
…ちなみに琵琶湖の総船数は1601年1200艘,18世紀初頭の享保年間には3939艘と増加をみた。 幕府は主要街道の整備を行ったが,近江国内では江戸と京を結ぶ東海道,中山道があり,1604年大津町奉行大久保長安は東海道土山,水口,石部宿の人足・伝馬の常備,宿駅内の地子銭・問屋役料の免除,継飛脚御用米などの助成を図り,中山道では守山,武佐,愛知川,高宮,鳥居本,番場,醒井,柏原など8宿駅が定められ,伝馬が常備された。近世中期以降,宿駅の疲弊にともなう伝馬の不足を補うため,宿駅付近の村々に助郷や加助郷が命じられ(高100石につき2人・2疋の人馬徴発),農民の負担が増し,幕末に近づくに従い助郷免除の訴願や騒動が各地で起こった。…
…武田氏滅亡後から文禄年間にかけて(1582‐96)はとくに野中判が多くつくられた。1601年(慶長6)徳川家康は金銀貨幣を鋳造し,全国の幣制統一と貨幣鋳造権の掌握のため,甲州金の廃止を命じ,甲州金座も大久保長安の管下におかれた。しかし甲州の民衆の抵抗にあい甲州金の通用は認めた。…
…金にして16万両余の税額である。03年,田中清六失脚のあとをうけて,佐渡は大久保長安が支配する。長安は谷底から水貫(みずぬき)を掘って水没した捨て間歩の復活をはかり,復活した間歩を山師に稼がせて出た鉱石を荷分けした。…
…江戸初期の関東領国支配の中心であった有力な大代官の呼称。一般に三河譜代の伊奈忠次(備前守),武田旧臣の大久保長安(石見守),今川旧臣の彦坂元正,長谷川長綱らの有力な地方巧者(じかたこうしや)をいう。彼らは1590年(天正18)関東入国以前から検地や給人知行を担当したが,入国以後は徳川家康の側近グループの一翼となり,幕政に参画しながら代官,手代を指揮して地方行政を実施した。…
…幕末には八王子千人隊と称した。1590年(天正18)徳川氏の関東入国を契機に代官頭大久保長安のもとで甲斐武田旧臣の小人頭(こびとがしら)9人を中核に構成された。当初同心250人,翌91年には小人頭10人となり500人に増加,1600年(慶長5)に1組100人ずつ10組,計1000人に拡充され,千人頭のもとに統率された。…
※「大久保長安」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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