神尾村(読み)かんのうむら

日本歴史地名大系 「神尾村」の解説

神尾村
かんのうむら

[現在地名]西宮市神呪町かんのうちよう神呪字中谷かんのうあざなかたに上甲東園かみこうとうえん一―五丁目・甲東園こうとうえん一―三丁目・甲山町かぶとやまちよう仁川町にがわちよう四丁目・仁川百合野町にがわゆりのちよう松籟荘しようらいそう上大市かみおおいち一丁目・うえ原一番町はらいちばんちよう

中山なかやま(西宮街道)に沿った武庫むこ郡の村。南は門戸もんど村。甲山(三〇九・四メートル)東麓の丘陵部とそれに続く平地部からなる。甲山は第三紀中新世の火山の火道部が、その後の浸食で取残されて露出したもので、釣鐘状の秀麗な山容をなす。山頂では祭祀的に埋納されたとみられる銅戈が発見されている。神功皇后が新羅遠征の帰途如意宝珠・金甲冑・金剣などを埋めたという武庫山(元亨釈書)にあてる説もあり、役小角の修行の地ともされている。中腹に平安時代創建の神呪寺がある。なお「続日本紀」天平神護二年(七六六)四月二三日条にみえる摂津国の人甘尾連雪磨の姓甘尾を神尾と関連づける説があり(西宮市史)、平城宮跡出土木簡には「□位下甘尾」と記されたものがある。

神尾村
かんのおむら

[現在地名]菊川町神尾

現菊川町の南東部、牛淵うしぶち川の中流域に位置し、東部は牧之原まきのはら台地に連なる。横須賀よこすか(現大須賀町)金谷かなや宿(現金谷町)を結ぶ道が通る。慶長四年(一五九九)横須賀城主有馬氏による検地があり、高六七六石余・反別五六町六反余と定まる(松下家文書)正保郷帳に村名がみえ、田方五四二石余・畑方一三五石、「日損」「松山」「芝山」「新田有」の注記がある。幕府領。元禄郷帳では高六六三石余、国立史料館本同郷帳によると三河吉田藩領と旗本米津領の相給。

神尾村
かみおむら

[現在地名]金谷町神尾

大代おおじろ村の北東、横岡よこおか村の北に位置し、大井川が大きく蛇行し半島状に突き出た右岸に立地する。西に神尾山がそびえる。東は大井川を挟んで駿河国志太しだ鵜網うあみ(現島田市)、北は福用ふくよう村。「掛川誌稿」は「かもを」と訓ずる。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高六石余。正保郷帳では田方六斗余・畑方二一石余、幕府領、ほかに八幡(現若宮八幡神社)領一石がある。延宝四年(一六七六)に検地が行われ、田方三斗余・畑方三一石余(寛保二年「村指出帳」赤井家文書)

神尾村
かんのうむら

[現在地名]山形市神尾

土坂つちざか村の南、りゆう山北西麓の山間に立地。縄文時代の神尾A遺跡、奈良・平安期の三本木さんぼんぎ窯跡がある。領主の変遷土坂村と同じ。寛永元年(一六二四)の定納之事(鈴木文書)では高八七石余、反別一一町五反余、うち村内反別田一町一反余・畑九町余、ほかは半郷はんごう青田あおたの二ヵ村への出作地。同一六年の定納一紙(同文書)では高一一八石余、村内反別田一町一反余・畑九町七反余、ほかに上桜田かみさくらだ青田飯田いいだ三ヵ村に出作地一町三反余がある。宝永七年(一七一〇)頃の村々大概帳(横山文書)によれば高一三七石余、反別田三町一反余・畑一〇町三反余、人数二〇七、馬九。

神尾村
かんのむら

[現在地名]津島市神尾町

北は大坪おおつぼ村、東は鯰橋なまずばし(現海部郡七宝町)、南は金柳かなやなぎ村、西は高台寺こうたいじ村に接している。弘化四年(一八四七)村絵図(徳川林政史蔵)によれば、集落は南の端にあって金柳村境にある。南北に三筋の悪水落ちが描かれ金柳村境で合流し、東行して村境になっている。集落の南端に「府志」記載の真宗大谷派の伝往でんおう寺と須成すなり村境(現海部郡蟹江町)に鎮守社七社しちしや明神が記されている。佐屋さや代官所支配下の村で、高七七三石余のうち六二二石余が藩士一二人の給知である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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