デジタル大辞泉
「神田伯竜」の意味・読み・例文・類語
かんだ‐はくりゅう【神田伯竜】
講談神田派の名。
(初世)[?~1850ころ]神田派の祖。師の神田辺羅坊寿観の名から神田を取り、同門の南鶴が田辺を取って名のったという。
(5世)[1890~1949]本名、戸塚岩太郎。東京の生まれ。3世伯山の門弟。大正・昭和の世話講談の名人といわれる。得意の読み物「吉原百人斬」「天保六花撰」など。
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神田伯竜
かんだはくりゅう
講釈師。初代は神田派の祖と伝えられ、2代は初代門人で水戸に住んだため水戸伯竜と称せられた。ところが、3代伯竜が大阪の神田伯清に名前を売ったため伯竜の名跡は東西に分かれ、のち一竜斎貞三(ていぞう)が大阪の2代伯竜を襲名したが、その後大津・大阪に同時に伯竜が出現するなど複雑である。以下東京の代を記す。
[延広真治]
(1856―1901)本名松村伝吉。1883年(明治16)ごろ伯治より襲名。『祐天吉松(ゆうてんきちまつ)』を得意とした。実子は4代小金井芦洲(ろしゅう)。ついで伯鯉(はくり)(本名秋元格之助)が1904年(明治37)伯竜となったが、翌年講談界分裂に際し、師匠初代神田松鯉(しょうり)に背いたため、芸名を取り上げられ西尾麟慶(りんけい)となった。
[延広真治]
(1889―1949)本名戸塚岩太郎。3代伯山に師事。1912年(明治45)五山より襲名。『吉原百人斬(よしわらひゃくにんぎり)』『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』など世話物を得意とし、名人と称せられた。
[延広真治]
(1926―2006)本名小村井光三郎。5代目に師事し、1982年(昭和57)伯治より襲名。世話物の第一人者で『小猿七之助(こざるしちのすけ)』などを得意とした。
[延広真治]
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神田伯竜(4代) かんだ-はくりゅう
1856-1901 明治時代の講談師。
安政3年生まれ。4代小金井芦洲(ろしゅう)の父。初代神田伯山に師事し,その没後2代神田伯山(のちの初代神田松鯉(しょうり))の門にはいる。伯次,ついで伯治を名のり,明治18年東京で4代伯竜を襲名。ここに伯竜の名跡は東西にわかれた。明治34年6月23日死去。46歳。江戸出身。本名は松村伝吉。
神田伯竜(5代) かんだ-はくりゅう
1889-1949 大正-昭和時代の講談師。
明治22年6月25日生まれ。3代神田伯山に師事し,明治45年5代伯竜を襲名。「吉原百人斬(ぎり)」「天保(てんぽう)六花撰」など世話講談が得意で名人といわれた。昭和24年5月17日死去。61歳。東京出身。本名は戸塚岩太郎。
神田伯竜(初代) かんだ-はくりゅう
?-? 江戸時代中期の講釈師。
神田派の祖。神田辺羅坊寿観(べらぼうすかん)にまなぶ。享保(きょうほう)期(1716-36)の講釈師神田白竜子にちなんで伯竜と名のった。
神田伯竜(3代) かんだ-はくりゅう
?-? 幕末の講釈師。
初代神田伯山の門人。大坂にうつり,神田伯青に4代目をゆずった。本名は桜井清三郎。
神田伯竜(2代) かんだ-はくりゅう
?-? 江戸時代中期の講釈師。
初代神田伯竜の門人。水戸にすみ,水戸伯竜と称された。
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神田 伯竜 (かんだ はくりゅう)
生年月日:1889年6月25日
大正時代;昭和時代の講談師
1949年没
神田 伯竜(6代目) (かんだ はくりゅう)
生年月日:1926年6月23日
昭和時代の講談師
2006年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の神田伯竜の言及
【神田白竜子】より
…気位が高く,ほかの芸人のように町家に出入りして芸を披露することをしなかった。のち神田派の祖となった講釈師の初代神田伯竜は,神田辺羅坊寿観(べらぼうすかん)の高弟であったが,この神田白竜子にあやかって命名したもの。【矢野 誠一】。…
【講談】より
…乾坤坊(けんこんぼう)良斎は作家的才能を示した。神田派は初代神田伯竜が知られ,その門下の[神田伯山]は《天一坊》を読んで一世を風靡した。同じ伯竜門下の[松林伯円]は松林派の祖となった。…
※「神田伯竜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」