南北朝時代の伊予国の武士。生没年不詳。大森彦七盛長は足利尊氏に属して軍功をあげた。《太平記》巻二十三にある〈大森彦七事〉が唯一の記述で,〈其(その)心飽(あく)まで不敵にして,力尋常(よのつね)の人に勝(すぐ)れたり。誠に血気の勇者と謂(いい)つべし〉とたたえられている。ことに,有名な湊川の合戦で足利方の細川定禅に従って活躍し,楠木正成を死地に追い込んだのは生涯の面目であった。この彦七が伝説的人物として後世に名を伝えるきっかけとなったのは,湊川合戦の直後に彦七が,その刀を奪い取ろうとする正成の亡霊たる鬼女に遭遇し,錯乱状態に陥ったが《大般若経》の功徳で救われたという《太平記》の所伝による。正成ならびにその一党が彦七に絡みつく話は,近松半二・竹田平七・竹本三郎兵衛合作による時代物の浄瑠璃《蘭奢待新田系図(らんじやたいにつたけいず)》(1765年(明和2)2月初演)や,福地桜痴作の新歌舞伎十八番の一つである舞踊劇《大森彦七》(1897,東京明治座初演)などにとり上げられ,人々に親しまれた。
執筆者:横井 清
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歌舞伎(かぶき)劇。時代物。1幕。福地桜痴(おうち)作。1897年(明治30)10月、東京・明治座で9世市川団十郎の彦七、市川女寅(めとら)(6世門之助)の千早姫により初演。湊川(みなとがわ)の戦いで楠正成(くすのきまさしげ)を討った伊予(いよ)国(愛媛県)の武士大森彦七が正成の怨霊(おんりょう)に悩まされたという『太平記』の一節を、新解釈により、常磐津(ときわず)、竹本の半舞踊劇に仕立てたもの。岸沢仲助作曲。初世花柳寿輔(はなやぎじゅすけ)振付け。
伊予松山の山中で、正成の息女千早姫が父の仇(あだ)大森彦七を討とうと鬼女の面をかぶって襲うが、彦七は正成最期の模様を語って姫の誤解を解き、楠家の宝剣菊水(きくすい)の剣(つるぎ)を返して立ち去らせる。活歴(かつれき)風の構成だが、最後に彦七が同僚の足利(あしかが)侍の目をくらませるため、怨霊(おんりょう)におびえて乱心した態(てい)を装うところが踊りの見せ場。「新歌舞伎十八番」の一つに選ばれ、その後は7世松本幸四郎の当り役となり、現代に伝わった。
[松井俊諭]
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…山地斜面ではかんきつ類の栽培が盛ん。川登に大森彦七の居城という世里(せり)城跡があり,重信川に注ぐ矢取川は塩売淵,茄子ヶ窪(なすがくぼ)など彦七にまつわる伝説が多い。宮内には砥部川右岸の丘陵上に大下田(おおげた)古墳群がある。…
…生没年不詳。大森彦七盛長は足利尊氏に属して軍功をあげた。《太平記》巻二十三にある〈大森彦七事〉が唯一の記述で,〈其(その)心飽(あく)まで不敵にして,力尋常(よのつね)の人に勝(すぐ)れたり。…
…こうした団十郎らの熱意とは裏腹に,一般観客の評判は悪く,新聞からも批判され知識人の支持もしだいに失い,明治20年代後半には終焉した。現在も演ぜられる活歴物あるいは活歴的演出の作品には《増補桃山譚》(1873),《北条九代名家功》(1884)等の黙阿弥作品,《春日局》(1891),《大森彦七》(1897)などの福地桜痴作品があげられる。演劇改良運動【林 京平】。…
※「大森彦七」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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