秋山城跡(読み)あきやまじようあと

日本歴史地名大系 「秋山城跡」の解説

秋山城跡
あきやまじようあと

[現在地名]大宇陀町大字春日

春日集落の南方、標高四七三メートルの古城こじよう山の頂上に構築された山城神楽岡かぐらおか城・明山あきやま城ともいう。「大和名所図会」に「秋山城 松山の町東北にあり、天文の頃秋山右近直国の城址なり。其所に神楽石あり」、また「大和志」に「秋山城 在松山町東北、正平中松山氏拠属勢州北畠氏、天文永禄中有秋山右近直国者、後掃部頭福嶋氏代而拠焉」とある。築城の時期は明確ではない。文禄三年(一五九四)多武峯談山とうのみねだんざん神社十字坊書写の古図によると、中世的山城として、天守閣本丸・大御殿・二の丸・御加番所・御定番所などがあり、四囲には複雑に堀をめぐらす。現在も天守台・二の丸・三の丸・石垣・堀切などの遺構をとどめ、旧西口関門は現大字下本しもほんに保存され、国指定史跡となっている。

秋山氏については鎌倉末期の嘉暦年間(一三二六―二九)には「秋山大弐公」の存在を知りうる(興福寺文書)


秋山城跡
あきやまじようあと

[現在地名]春野町秋山

秋山西部の上秋山の和田かみあきやまのわだ(四二メートル)山頂にあった中世の平山城で、和田山城ともいう。秋山城は下秋山にあったという説があるが、天正一七年(一五八九)の仲村郷森山地検帳などから上秋山所在が妥当と考えられる。

城主は秋山刑部丞とされ(土佐国古城略史)、天文九年(一五四〇)一条氏に、弘治三年(一五五七)に本山氏に降った(編年紀事略など)。さらに永禄三年(一五六〇)に長宗我部元親に降るが、本山氏は秋山・芳原よしはら森山もりやまの地を奪回すべく、翌年まず秋山城を攻撃する。「土佐物語」(秋山城夜討並吉良城軍の事)に「夜討に馴れたる兵四百人勝りて、二百人をば秋山の寄手とし、二百人をば後詰の手当として、笠符を一様に付され、合詞を約束して、夜既に二、三更の程なりければ、秋山の城へ押寄せ、二百人同音に、鬨を咄と作る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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