秋山村(読み)あきやまむら

日本歴史地名大系 「秋山村」の解説

秋山村
あきやまむら

[現在地名]児玉町秋山

那賀なか郡に所属。身馴みなれ川の南岸に位置し、対岸は児玉郡児玉村、東は広木ひろき(現美里町)。西の小平こだいら村との境に枝郷風洞ふとう分があり、小平村との境南端に陣見じんみ(五三一メートル)がそびえる。当地の新蔵人しんくらんど神社は秋山新蔵人光政を祀った小祠とされる。「風土記稿」には光政社とみえ、「コノ人当所ニ来住セシヨリ村名ヲカク唱ヘシナルヘシ」と記すとともに、光政が甲州から移り住んだ秋山氏であると推測している。「太平記」巻二九(将軍上洛事付阿保秋山河原軍事)によると、観応二年(一三五一)一月足利尊氏方の阿保直実と足利直義方の秋山新蔵人光政が京都四条河原しじようがわらで一騎打を行っている。伝承等によると、延文二年(一三五七)秋山氏は野上下郷のがみしもごう(現長瀞町)仲山なかやま城主阿仁和直家を攻めて城を落し、直家は防戦中くち河原(現同上)で討死したという。応永一二年(一四〇五)一二月二五日、武蔵国守護代長尾憲忠は中沢四郎の押領を退け、鎌倉建長寺塔頭宝珠ほうしゆ庵へ「広木郷秋山村」を打渡す旨の代官氏重の請文を鎌倉府奉行所へ注進しており(「長尾憲忠請文写」相州文書)、当時の宝珠庵領秋山村は広木郷に含まれていたとみられる。現行田市長久ちようきゆう寺が所蔵する永正一二年(一五一五)八月の年紀をもつ十二天屏風の裏書には、「武州那珂郡中沢郷秋山村宝光寺宕禅ママ院本尊地蔵菩薩宝前書納也」とある。天正一〇年(一五八二)二月二五日の北条氏邦印判状写(彦久保文書)に「拾挺 鉄炮 秋山衆」とみえ、同一七年一二月二二日には鉢形はちがた(現寄居町)城主北条氏邦が「津戸分秋山之内」の一六貫三〇〇文などを香下源左衛門尉に宛行っているが(「北条氏邦印判状写」諸州古文書)、天正年中の秋山の記載は男衾おぶすま郡秋山(現寄居町)のことともみられる。


秋山村
あきやまむら

[現在地名]秋山村 無生野むしようのはら尾崎おさき寺下てらした栗谷くりや神野かんの小和田こわた古福志こぶくし桜井さくらい一古沢いつこさわ富岡とみおか安寺沢あてらさわ浜沢はまざわ金山かねやま中野なかの板崎いたさき遠所えんじよ大地おおち

相模川の支流秋山川沿いに位置する。東は相模国津久井つくい牧野まぎの(現神奈川県藤野町)、北は鶴島つるしま村・川合かわい(現上野原町)塩瀬しおせ村・立野たちの村など(現大月市)、西は朝日曾雌あさひそし(現都留市)、南は道志どうし(現道志村)。多くの集落は秋山川沿いの河岸段丘上に散在しているが、安寺沢(阿寺沢)の集落は同川の支流安寺沢川沿いにある。山に囲まれているため、文化三年(一八〇六)の村絵図(都留市蔵)には、おおだみ峠(現雛鶴峠)・あなじ峠(穴路峠)・川合峠(現大地峠)厳道がんどう峠が記され、「甲斐国志」はこのほか造道峠・コマクロ峠・強盗峠(厳道峠)をあげる。穴路峠越で小篠おしの(現大月市)を通り、鳥沢とりさわ宿(現同上)へ至る道は炭を運ぶ道でもあった。穴路峠は「甲斐国志」の小篠村の項ではシナス峠と記される。

慶長古高帳に「あき山」とみえ高二二八石余、幕府領


秋山村
あきやまむら

[現在地名]安佐北区白木しらき町秋山

小越おこえ村の南西、三篠みささ川沿いに集落が集まる。南西の三篠川下流は三田みた村、北は市川いちかわ村、南東は賀茂郡志和堀しわほり(現東広島市)に接する。高田郡に属し、古くは小越村と一村であったという。「芸藩通志」は「広さ二里余、袤三十町、東西山あり、郷中にも城山あり、川二流東北より来り、合流して南に出る、民産と工商あり」と記す。小字に横路よころ向瀬戸むかいぜと畑杭はたくい無連子むれじ川角かずみ堀越ほりこし傍示ぼうじ須沢すさわなどがあるが、これは応徳二年(一〇八五)三月一六日付の高田郡司藤原頼方所領畠立券文(新出厳島文書)に記される三田みた郷内の「鑿越村・須佐は村・波多久比村・加津見村」などに比定できる地名である。なお須沢村に関しては仁平四年(一一五四)一〇月一一日付の安芸国高田郡三田郷内田畠立券文(「芸藩通志」所収厳島文書)に「壱処壱町陸拾歩 田弐(弐脱)佰肆拾歩見作壱段陸拾歩 年荒一段佰捌拾歩 畠漆段佰捌拾歩見作肆段(捌脱)拾歩 年荒参段 桑陸本 在家一宇」「壱処壱町捌段弐佰肆拾歩 作人散位源朝臣 見作弐佰肆拾歩 年荒弐段(ママ)肆拾歩 常荒壱町伍段(ママ)弐拾歩」とみえる。


秋山村
あきやまむら

[現在地名]甲西町秋山

落合おちあい村南部の西に位置し、北は湯沢ゆざわ村、中野なかの(現櫛形町)、南は舂米つきよね(現増穂町)。平家追討に活躍した秋山光朝の本願地で、館があったと伝える。天正一一年(一五八三)四月川窪新十郎(信俊)徳川家康から本領を安堵されたが、そのなかに「秋山分四貫八百文」が含まれている(同月二四日「徳川家康印判状写」古文書集)。慶長六年(一六〇一)の秋山村検地帳(県立図書館蔵)によると麦田一町一反余・上田一町四反余・中田六反余・下田九反余・下々田八反余、上畑二反余・中畑一反余・下畑四反余・下々畑四反余、田畑計六町四反余、ほかに熊蔵荒二町二反余、屋敷数は九、計六六九坪、ほかに除地一四四坪(光昌寺)


秋山村
あきやまむら

[現在地名]高萩市秋山

花貫はなぬき川の流域に平地が開け、西は山地が広がる。山間を東流してきた花貫川は字梶屋かじや付近で屈曲して南流し、字唐崎からさき多々良場たたらば川を合せる。東は高萩村島名しまな村。

常陸国赤浜妙法寺過去帳の享徳四年(一四五五)に「妙経童子十廿六秋山」とみえ、文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)には「嶋名・秋山」と並記され寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「秋山村」とみえる。「松岡郡鑑」に寛政元年(一七八九)の人数四九二、馬八九・牛三、中山家々士筆「松岡郡鑑」には文化元年(一八〇四)の家数一一〇・人数四八一、馬一二一とあり、「公私書記」(渡辺家蔵)には安政三年(一八五六)の家数一〇四・人数五八〇、馬一二四とある。


秋山村
あきやまむら

[現在地名]松戸市秋山

国分こくぶん川を挟み大橋おおはし村の東に位置し、南は同川の支谷を挟んで稲越いなこし(現市川市)。中世には八幡やわた曾谷そや(蘇谷)郷のうち。千葉胤貞は元徳三年(一三三一)九月四日に中山法華経寺日祐に「蘇谷郷秋山村内田地弐町・在家参宇」などを寄進している(中山法華経寺文書)。また延文三年(一三五八)真間ママ(現市川市)弘法ぐほう寺日樹の置文(弘法寺文書)には「秋山堂免」とあり、当地には同寺の所領もあった。なお地内には日蓮宗慶国けいこく寺があり、同寺境内からは永徳三年(一三八三)銘などの題目板碑多数が出土している。

慶安年間(一六四八―五二)頃の成立といわれる高城胤忠旧知行高付帳に村名がみえ、高一〇〇石。


秋山村
あきやまむら

面積:四五・一四平方キロ

郡の東端に位置する。南は長尾ながお(一一〇七メートル)赤鞍あかぐらヶ岳(一二九九メートル)、北は高柄たかつか(七三三・二メートル)倉岳くらたけ(九九〇・一メートル)に挟まれ、相模川の支流秋山川沿いに東西約一一キロ、南北約五キロの村域が広がる。村域の八一パーセントが山林で、東は神奈川県津久井つくい藤野ふじの町、西は都留市に接し、南は道志どうし村、北は北都留郡上野原うえのはら町・大月市に接する。東流する秋山川に沿って県道四日市場よつかいちば―上野原線が走る。


秋山村
あきやまむら

[現在地名]川上村秋山

千曲川と金峰山きんぽうさん川の合流する氾濫原に開けた集落で、千曲川左岸の道路沿いに住居がある。東は梓山あずさやま村、西は居倉いぐら村、南は川端下かわはけ村、北は南相木みなみあいき村。

慶長一五年(一六一〇)の貫高帳では、「弐拾五貫文 秋山村」とある。元和八年(一六二二)の佐久郡高書上帳(柳沢文書)では、記載の川上五ヵ村中、最高の四三石九斗。天保一五年(一八四四)以前は皆畑で、明細帳(川上剛太郎氏蔵)にやっと稗田が現れる。一毛作の雑穀作りで、近世末の稼ぎは「農間稼に男は山稼・板間切挽木稼・女も木を伐り渡世」(長野県町村誌)とある。

天正年間(一五七三―九二)の武田氏の金山採掘で一時栄えたと伝えられる。天保一三年の秋山・梓山両村金山師河原善九郎問掘出願請証文(川上剛太郎氏蔵)によると、

<資料は省略されています>

とあり、他国者の採掘例のあったことがわかる。


秋山村
あきやまむら

[現在地名]春野町秋山

西分にしぶん村の南に新川しんかわ川を隔てて位置し、「土佐州郡志」は「東限甲殿村、西限森山村、南限仁之村、北限雑木山柚木谷、東西四十町余南北十四町許」と記す。古くは「岩脇村」と称した(南路志)。天正一七年(一五八九)の仲村郷森山地検帳に村名がみえるとともに、種間たねまノ村・岩脇いわわき村・和田わだ村・池田いけだノ村ほかの小村が含まれる。「森山分」「喜津賀分」とみえ、森山氏と木塚氏の旧領であった。屋敷は一〇三筆記され、うち「土居」付近に五筆がみえる。一筆に「フナ神二良名」「フナ神二良ゐ」と記される。


秋山村
あきやまむら

[現在地名]葛生町秋山

秋山川源流域を占める山村。東は都賀つが上永野かみながの村・上粕尾かみかすお(現上都賀郡粟野町)、西は作原さくはら(現田沼町)・上野勢多せた沢入そうり(現群馬県勢多郡東村)、南は水木みずのき村。中世には佐野庄に含まれた。室町時代の年未詳八月二五日の長棟上杉憲実奉書(青木氏蒐集文書)に「自佐野庄秋山御敵出張之処、最前馳向取一陣之由、土佐掃部助注進神妙之至候」とあり、上杉憲実は梅沢彦四郎の当地における戦功を賞している。なお地内堀之内ほりのうちには黄平原きへいばら(木浦原)城跡があり、作原に向かう要所であった。安蘇郡に属し、慶安郷帳によれば田六一石余・畑六二九石余、朽木稙綱領。


秋山村
あきやまむら

[現在地名]寄居町秋山

折原おりはら村の南に位置し、東は立原たてはら村。天正一〇年(一五八二)二月二五日の北条氏邦印判状(写、彦久保文書)は秩父孫二郎指揮下の秩父同心衆の着到を定めたもので、そのなかに秋山衆は鉄砲一〇挺とみえる。同一七年一二月二二日の北条氏邦印判状写(諸州古文書)によると、香下源左衛門尉は四五貫八〇〇文の地を宛行われる代りに着到を四人と定められ、そのなかに「拾六貫三百文 津戸分秋山之内」とあるが、これは那珂なか郡秋山(現児玉町)のこととも考えられる。


秋山村
あきやまむら

[現在地名]串間市秋山

北方きたかた村の北、福島ふくしま川の支流秋山川流域を占め、北方郷に属した。西は奈留なる村。日向国覚書によると高四六四石余。寛文四年(一六六四)の高鍋藩領地覚(隈江家記)、正徳元年(一七一一)の高鍋藩領郷村高辻帳(石井家文書)でも同高。高鍋藩人給帳に寛永一五年(一六三八)知行(二―三石)を与えられた秋山口御番衆三名が載る。明治元年(一八六八)の牛馬員数取調書(吉松家文書)によると当村の小城おぎ久保くぼ倉掛くらかけ鯛取たいとりに里牧があり、倉掛・鯛取は冬期のみの替牧をもっていた。鯛取牧の規模は東西五町五〇間・南北一〇町五〇間、柵九六〇間、濠五一四間で、牝馬三四疋・父馬八疋を飼育していた。


秋山村
あきやまむら

[現在地名]鉾田町秋山

七瀬ななせ川右岸の丘陵上にあり、北は大谷津を挟んで駒木根こまぎね村。室町時代には烟田氏の勢力下に置かれていたが、応永年間(一三九四―一四二八)に土地争いから一色氏の代官との間に訴訟が起こり、平宣国書状(烟田文書)に「抑末懸御目候処佐佐木豊前次郎殿ニ承子細候、先以悦喜候随而秋山事一色兵部大輔殿、代管違乱子細言語道断事候、既古知行時も無相違候、皆以御殿知事候哉、彼代官方へも可然様被仰者、悦入候」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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