日本歴史地名大系 「秋山村」の解説
秋山村
あきやまむら
秋山村
あきやまむら
相模川の支流秋山川沿いに位置する。東は相模国
慶長古高帳に「あき山」とみえ高二二八石余、幕府領。
秋山村
あきやまむら
秋山村
あきやまむら
秋山村
あきやまむら
- 茨城県:高萩市
- 秋山村
常陸国赤浜妙法寺過去帳の享徳四年(一四五五)に「妙経童子十廿六秋山」とみえ、文禄四年(一五九五)の岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)には「嶋名・秋山」と並記され寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「秋山村」とみえる。「松岡郡鑑」に寛政元年(一七八九)の人数四九二、馬八九・牛三、中山家々士筆「松岡郡鑑」には文化元年(一八〇四)の家数一一〇・人数四八一、馬一二一とあり、「公私書記」(渡辺家蔵)には安政三年(一八五六)の家数一〇四・人数五八〇、馬一二四とある。
秋山村
あきやまむら
- 千葉県:松戸市
- 秋山村
慶安年間(一六四八―五二)頃の成立といわれる高城胤忠旧知行高付帳に村名がみえ、高一〇〇石。
秋山村
あきやまむら
秋山村
あきやまむら
千曲川と
慶長一五年(一六一〇)の貫高帳では、「弐拾五貫文 秋山村」とある。元和八年(一六二二)の佐久郡高書上帳(柳沢文書)では、記載の川上五ヵ村中、最高の四三石九斗。天保一五年(一八四四)以前は皆畑で、明細帳(川上剛太郎氏蔵)にやっと稗田が現れる。一毛作の雑穀作りで、近世末の稼ぎは「農間稼に男は山稼・板間切挽木稼・女も木を伐り渡世」(長野県町村誌)とある。
天正年間(一五七三―九二)の武田氏の金山採掘で一時栄えたと伝えられる。天保一三年の秋山・梓山両村金山師河原善九郎問掘出願請証文(川上剛太郎氏蔵)によると、
とあり、他国者の採掘例のあったことがわかる。
秋山村
あきやまむら
秋山村
あきやまむら
秋山村
あきやまむら
秋山村
あきやまむら
- 宮崎県:串間市
- 秋山村
秋山村
あきやまむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報